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#TL
瀬名 紫陽花
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シオン・グレイの灰色の目が、コレラの悪臭を防ぐために巻いたハンカチの上から覗いていた。悪臭は遺体安置所で腐敗していく人体そのものだ。
「例の王が襲ってきたな」
「他の呼び方はできないのか」
友人のグレアムが懇願するように言う。湿ったスカーフで鼻と口を覆っている。
「その呼び方は好きじゃないな。何やら取り立てられそうな気分になる。そうじゃないのに」
「それでも搾り取られるさ」
「また感染爆発が起こると思うか」
「そうならないことを願うよ」
そう、局地の流行りであることを願うしかない。
病を治して健康を呼び戻す職業の訓練を長年してきた二人は、グラブ・ストリートを歩いているところだった。古代ローマ時代。ロンドンの街のまさに中心だった場所だ。
通りに並ぶ建物は印刷を営む業者のもの。新聞や雑誌を発行し、世間の関心をそそる出来事や人生の喜びと悲しみを書き連ねている。通りの中央を走る溝には、インクが流れていた。
相部屋の下宿に辿り着き、シオンは顔に巻いたハンカチを放り投げた。
「弱点を見つけなくてはな」
コレラを動物の観点から考える。
たとえば狂犬病の犬だ。この細菌は肉眼で見えないほど小さいのに、男も女も子供も纏めて墓場へ送る強靭さを備えている。狡猾で小さな殺人者だ。
「どんな病気にも弱点はある」
細長い顔と細長い体の持ち主であるシオン・グレイ医師は、しなやかな足取りで階段を上り部屋へ向かった。正確には屋根裏部屋で、印刷機が一日中休みなく音を立てている印刷所の上にある。
だが人々が寝静まる時間に仕事が出来るので、シオンにとっては都合が良かった。それに家賃が安い。格別安い。資金不足で数ヶ月研究が行き詰まってからというもの、一ペニーも無駄にできなかった。
「確かに存在するのは分かってる」と、足を止めずに言う。
「くっそ、天然痘はもう百年も予防できていたのに。何故コレラはできないのか」
汚れて傾いた窓の外へ目をやった。冷たく暗い十二月の霧がシオンを見つめ返した。
「前にも一、二度同じことを言ってたな。ちょっとのめり込みすぎじゃないか。病院でのおまえの評判は芳しいとは言えないぞ」
「それは驚きだな」
シオンはキングス・カレッジ病院を経営するヒゲだらけの古生物どもにどう思われようと、全く意に介さなかった。セント・ジャイルズ周辺の貧民窟で働いてみれば、連中も考えを変えるはずだ。
グレアムは呆れたように肩をすくめた。
「奇跡の治療法をどうやって見つけるつもりだ」
「どうやって?」
シオンは吹き出しそうになった。
「金だよ、金が必要だ。マッキントッシュ補助金がね」
ネクタイを緩め、以前メリルボーンの歩道から持ってきた焼け焦げた長椅子にどさりと腰を下ろす。
「こうしている間にも、黒死病さながらに患者が家で倒れていく」
焦げた座面の上で体を捻り、快適な姿勢を探す。
「この辺りの貧しい市民が三十歳まで生きられる確率は、私がナイト爵を預かる確率より低い。全くロバートソン達が耳を貸しさえすれば、何か手が打てるはずなのに!」
グレアムは黙している。
シオンは立ち上がって歩きながら、「キングス・カレッジ医学校の教授連中は何度訴えても新しい考えを受け入れる度量がない」と、毒づいた。
「時間と金。それさえあれば治療法を見つけられる。充分な時間と金があればね」
怒りは焦燥から生じる。三年を費やした研究が全て机の上で埃を被るかもしれないと考えれば、何より腹立たしかった。
毎月医学校の補助金審査委員会がシオンの申請を鼻であしらい、益々多くの男や女や子供が病に屈していく。
「申請は通ると思うか?」
「私かエドウィン・クローバーのどちらかだな。あいつは無痛法の研究費を欲しがっている」
「優秀な男だぞ」
「ああ、論文わね。だが、現場では全く使えない。理屈倒れもいいところだ。針子の腕にどうやって針を刺すかも分かってないさ」
彼は腹立たし気にテーブルを拳で叩いた。
クローバーはソーホー・スクエアにある高級な家の上階の広い部屋に住んでいる。外出するのは稀だ。その必要がない。恐らく興味もないのだろう。
「通らなかったらどうするんだ」
「その時は道路掃除でもして、小銭を掻き集めるさ」
シオンは前髪を掴んで敬礼してみせた。
「凍えそうだな」
「ああ、間違いない」
グレアムが咳払いをする。
「例のエセックスの仕事は?報酬があるんだろう」
シオンはハッとして眉を上げた。
「そうか。すっかり忘れていた」
前日、電報を脇に置いたのとほぼ同時に、頭から消えていた。
「確か叔父さんだったな」
「正確には違う。父のいとこだ」
「とにかく報酬を伴う仕事だろ」
確かにそうだが、気が進まない。
「多分メドューサと十ラウンド戦えそうなほど元気なのに、もうすぐ死ぬと思い込んでいる教区司祭の世話をしろと言うのか」
「シオン、金が必要なんだろ」
彼は一考した。全くその通りだ。
しかし、治療と言えば恐らく「ポートワインを控えて、時々早足で散歩する」みたいな助言をする程度に過ぎない相手の世話をするなど、まるで安っぽい小銭稼ぎではないか。とはいえ、その金があれば研究を再開できるかもしれない。
「それも一つの手だな。いくら引き出せるかは分からないがね。教区司祭なんて、大して裕福じゃあるまい」
「そうだな。それはともかく、好人物なんだろう?」
シオンは肩をすくめる。
「世界は六千年前に創造されたとする『アッシャーの年表』に関する論文を一日読んでいるような、物静かな聖職者だろうな」
「悪い話じゃなさそうだ。一人住まいか?」
「いやそれが。ちょっと……興味深い話でね」
「興味深いとは?」
「一家の醜聞なんだ」
「醜聞?聞かせてくれ」
「私自身あまりよく知らないんだ。父が詳細を教えてくれなくてね。確か司祭の弟が不自然な状況で妻に殺された事件があったと記憶している。どちらかが正気を失ったんだと思う。調べてみるよ。正直なところ、刺激の強い昔話が仕事の退屈さを幾分か紛らせてくれるかもな。いやでも、私は神の導きを信じるよ。マッキントッシュ補助金審査委員会から朗報が届くのが先だ」
コメント
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第1話、めっちゃ引き込まれたわ。19世紀ロンドンの医者モノ、しかもコレラ研究って渋いけど熱い設定だよな。シオンの「時間と金があれば治療法を見つけられる」って台詞、底知れぬ執念を感じてゾクゾクした。貧困と腐敗に立ち向かうリアルな医学モノ、続きが気になる🔥 全話まだこれからだよな!