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重いリュックを背負い、悠太は祖母に見送られて、駅のホームに立っていた。プラットホームは静かで、蝉の声が、まるで夏を惜しむように鳴いている。
列車が来るまで、あと五分。
横には、いつものように半袖半ズボンの葵が立っていた。昨夜、悠太は最後の絵日記のページを埋めるのに一晩中かかった。
「……葵」
悠太は意を決して、昨夜書き終えたばかりの、最後の一ページを開いたまま、葵に差し出した。
「見てくれ。俺の、30日間の記録だ」
絵日記には、沢で水に落ちたこと、秘密基地での夕日のこと、お祭りの夜に二人で食べたかき氷のことなど、全てが描かれていた。そして、最後のページ。
【8月30日 晴れ(たまに心に曇り)】
葵と過ごした夏休みが終わる。
沢村葵は、俺の初恋の相手だ。
都会に戻っても、ずっと彼女を忘れない。
(ときめき要素:100点満点)
葵はそれを読み終えると、いつも通りニッと笑った。
「ふうん。やっと、まともな絵日記になったじゃん」
しかし、すぐにその笑顔を消し、悠太の目を真っ直ぐに見つめた。
「悠太。アンタは約束したな。『また来たくなるような町』だって、証明するって」
「ああ。来年も必ず、もっと成長して会いに来る」
葵は、夏の強い日差しを背に、少し寂しそうに微笑んだ。
「ダメだよ、悠太」
「え?」
「アンタが私に会いに来るのは、**『成長してから』じゃない。アンタが都会で、『自分のやりたいことを見つけ、それを実現したとき』**だ」
葵は、悠太の背中のリュックをポンと叩いた。
「私、知ってるんだ。アンタは都会に戻ったら、すぐにこの町のことなんか忘れて、勉強に集中する。それでいいんだ」
悠太の胸がまたズキンと痛んだ。彼女は、悠太の気持ちを知っていて、あえて突き放している。それは、この町に縛られないでほしいという、彼女なりの優しさだった。
「俺は、忘れない! 葵のことも、この夏に起きたことも、あの沢での……!」
悠太が言いかけた瞬間、遠くから列車の汽笛が聞こえた。
「ほら、列車が来た」
葵は、悠太の頭に被せていた麦わら帽子を、両手でそっと押さえつけた。
「約束だよ、悠太。**『恋』を叶えるより、まずはアンタの『夢』**を叶えろ」
そして、彼女は悠太の耳元に、誰にも聞こえないように囁いた。
「もし、アンタがこの町を必要としなくなったとき、そのときは私も、アンタと同じ町に行くための努力を、諦めずに始めるから」
それは、この夏、ここで叶えることのできない、遠い未来の約束だった。
悠太は、何も言えずに列車に乗り込んだ。窓際の席に座り、葵に手を振る。
葵は、いつもの太陽のような、でもどこか切ない笑顔で、大きく手を振っていた。その姿が、駅のホームの風景に、ゆっくりと溶け込んでいく。
列車が動き出し、駅を出てすぐ、悠太は帽子に手が触れた。葵が麦わら帽子の内側に、何かを忍ばせていたのだ。
それは、あのとき沢で逃したはずの、小さなカブトムシの標本だった。
そして、その横には、葵の筆跡で、短いメッセージが書かれていた。
『来年、これよりデカいオスを持って、迎えに来い。——そのときは、 もう逃げない』
悠太は、叶わなかった初恋の切なさと、来年へのかすかな希望を胸に、別れの窓の外を、涙で滲む目で眺め続けた。