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「起きられるようですね」
少し冷たげで、芯のある女性の声がした。
月子の母が入院する、西条家かかりつけ、佐久間医院の看護婦が蔵の中を覗いている。
いつもなら、白衣の制服を着て、助手事で往診に着いてくる彼女は、着物姿だった。
側には、西条家の下男が立っている。
「……目立たないようにと、お嬢様のお言いつけですので。裏口に人力車を待たせております」
病人を運び出す、という作業が、佐紀子には世間体が悪いと思われたのだろう。
そう理解した月子親子は、小さく頷いた。
下男に背負われる母。荷物を抱える看護婦。その後ろを月子は着いて行く。
裏口からという、どこか寂しい、いや完全に疎まれている、母の出発に、月子は、肩を落としつつ、黙って着いて行った。
下男に背負われている母は、元気だった頃より、ひとまわりも、ふたまわりも小さく見える。
母のやつれ具合に、月子は、愕然としつつ、自分の不甲斐なさを噛み締める。
裏口──、裏木戸が見えてきた。
「月子さん、一度、病院へいらしてください。当医院は、専門病院ではありませんから、一時的にしかお母様を預かることはできません。出来れば、それなりの場所へ転院すべきだと、先生も仰っております。今後のことを、相談できますか?」
母を背負った下男が、木戸を潜って、表へ出たとたん、看護婦が、事務的に月子へ言った。
「……一時的……」
どう答えるべきか、言葉に詰まった月子に、看護婦は、急ぎはしないと言いつつも、面倒そうに眉をしかめ、さっさと、表へ出て行った。
そうして、人力車に乗り込み、月子の母を支えるように座ると、車夫へ佐久間病院の場所を告げる。
人力車は、ゆっくりと動きだし、役目が終わった下男は、伸びをして、月子をちらりと見た。
早く、屋敷へ戻れと言いたいらしい。木戸の戸締まりをしたがっているのは、月子にもわかった。
見送りをしっかりしたかったが、迷惑そうな視線に負けて、月子は、下男に従った。
カラカラと車輪の音がする。
たまらず、月子が振り向いた時には、人力車は、かなり先に行っており、当然、母の姿は伺えなかった。
ちっ、と、下男が、鬱陶しそうに舌打ちし、月子を急かす。
自分が、戸締まりをすると、言って残れば良かったと思いつつも、入院は、ひとまずだと、言われた事に動揺してた月子には、そこまで、気がまわらなかったのだ。
つい、言いなりになってしまったがために……母と、別れの言葉も交わせなかった。
いや、病院へ、行けば良い。来てくれと言われているのだから、母にも、すぐ会える。
だが……。その後は……。
裏木戸を潜り、呆然と立ち尽くす月子の後ろで、かたんと、戸締まりをする音がした。
すたすたと、下男が去っていく。
これから、どうすれば良いのだろう。困惑しきる月子に、佐紀子の厳しい顔つきと、突き放すような言葉が重くのし掛かって来る。
その佐紀子はというと……。
縁側に立ち、母屋から、裏庭づたいに裏口へ向かう月子親子の姿を眺めていた。
隣には、西条家の資金繰りを手配する役目、佐紀子を補佐する家令の、瀬川がいる。
父、満の秘書としても、活躍していた、もう還暦を過ぎているだろう、老人は、ふうと、息を吐き言った。
「佐紀子お嬢様、これで、一つ片付きましたな」
「ええ、瀬川、入院の手配ご苦労様でした。後は……あの子の縁組をどうにかしないと……」
「野口様へ、再度お願い致しておきます」
「ええ、西条家から、早く厄介者を追い出さなければ。もし、居座られたら、それこそ、ご先祖様へ面目が立たないわ……」
佐紀子は、ぎゅっと拳を握り、苛立ちを露にする。