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アドラル皇国
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1,373
#日常
寿命㌫(主) 🔮🖤ᩚ
2,231
モスコウビアを発って数日。
バトウたちは、かつてヴァンガルド帝国の都だった街へ入った。
この旧都も先日、陥落していた
その一角に、質素な邸宅が残されていた。
皇帝や大貴族の館とは比べものにならない。
石造りの、質素な館。
門にも、庭にも、これといった装飾はない。
十五万の軍勢を率いる征西軍総司令官が訪れる場所としては、
あまりにも地味だった。
一行が門前に到着すると、一人の老人が姿を現した。
白髪。
痩せた身体。
だが、その立ち姿にはどこか品があった。
老人はバトウたちを見ると、何も言わず深々と頭を下げた。
バトウは気にも留めない。
馬を降りると、そのまま館の中へ入っていった。
「……こんなところに何があるんだ?」
後ろを歩きながら、ジュベが小声でスブタイに尋ねる。
「後で話すよ」
スブタイはそれだけ答えると、老人へ向き直った。
「ここが、かつてククス・ゼイオンの館だったことは分かっている」
老人の表情が、わずかに動いた。
スブタイは続けた。
「それがなぜ、今はそなたのものになっている?」
老人はしばらく黙っていた。
やがて静かに答えた。
「軍監が亡くなられる際、私にくだされたのでございます」
「軍監……」
ジュベが眉をひそめる。
老人の名は、ラディス。
かつてヴァンガルド帝国で宰相を務めた男であり――。
そして何より。
ククス・ゼイオンが、この地で生きていた頃。
その傍らに仕え続けた、数少ない側近の一人だった。
「ここに足を踏み入れるのは、サイラスだと思っていた」
ラディスは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「サイラス……?」
スブタイは、その名にわずかに反応した。
聞き覚えのない名だった。
だが、老人の口調には、ただの知人を語るものとは違う響きがあった。
バトウは振り返ると、護衛の兵たちへ告げた。
「ここで待て」
そしてスブタイ、ジュベだけを連れ、館の奥へと進んでいく。
ラディスも黙ってその後を追った。
やがて、一行は一枚の扉の前で足を止めた。
ラディスが静かに扉を開く。
そこは書斎だった。
壁一面に棚が並び、無数の書類や書物が整然と収められている。
机の上にも束ねられた紙が積まれていた。
長い年月が過ぎているにもかかわらず、部屋にはほとんど荒らされた形跡がない。
「ここにあるものの中には、後に帝国の法案のもととなった貴重な文書もある」
ラディスが言った。
「だからそのままにしてある」
スブタイが近くにあった書類を一枚手に取る。
「これも?」
「すべて軍監殿が書かれたものだ」
スブタイは目を落とした。
主に書かれているのは軍制についてだった。
徴兵。
補給。
部族ごとの兵力。
指揮系統。
命令を伝達する方法。
几帳面な文字で、問題点とその対策が細かく記されている。
読み進めるうちに、スブタイは少しだけ口元を緩めた。
「苦労しているな」
「何がだ?」
ジュベが横から覗き込む。
「北方の部族だよ」
スブタイは書類を指で叩いた。
「それぞれが勝手に動く。命令を聞かない。部族同士で争う。
軍としてまとめるのに、相当手を焼いていたらしい」
ジュベは興味なさそうに鼻を鳴らした。
その時だった。
書斎の奥にいたバトウが、机の引き出しを開けた。
中から、小さな木箱を取り出す。
古びた箱だった。
表面には簡素な模様が彫られている。
「なんです、それ?」
ジュベが近寄った。
バトウは答えず、箱を手の中で確かめる。
そして、側面に指をかけた。
「こうして開けるのだ」
カチリ。
小さな音がした。
複雑に組み合わされていた木片がずれ、蓋がゆっくりと開いた。
ジュベが目を丸くする。
バトウはしばらく箱の中を見つめていた。
その目に、いつの間にか涙が浮かんでいた。
「父が……」
声がわずかに震える。
「オラズムの遠征から戻った時、私に土産としてくれたものと同じだ」
スブタイは何も言わなかった。
バトウの父。
ジュチ。
そして、この地では――。
ククス・ゼイオンと呼ばれていた男。
箱の中には、一冊の書物が入っていた。
革に包まれ、大切に保管されている。
バトウは、それを静かに取り出した。
その時だった。
「お前たちは――」
ラディスの声が響いた。
振り向く。
老人の手には、いつの間にか短剣が握られていた。
「書を見ても、燃やすか、川へ投げ込むかしかせぬのだろう!」
ラディスが駆け出した。
狙いはバトウ。
だが――。
「危ない!」
ジュベが即座に割って入った。
短剣を剣で弾き飛ばす。
そのまま踏み込み、老人の身体へ刃を突き立てた。
「ぐ……」
ラディスの身体が大きく震えた。
短剣が床に落ちる。
ジュベが剣を引き抜くと、老人はその場に崩れ落ちた。
静寂が戻った。
バトウは倒れたラディスを見た。
しかし、何も言わなかった。
やがて視線を、書斎いっぱいに並ぶ書類へ移す。
そして命じた。
「ここにある書物を、すべて運び出せ」
ジュベが振り向いた。
「全部か?」
「ああ」
バトウは、革に包まれた一冊を手にしたまま答えた。
「一冊残らずだ」
ラディスは、彼らが書を焼き払うと思っていた。
だが、その命令はまったく逆だった。
父がこの地で何を考え、
何をし、
何を残したのか。
バトウは、そのすべてを持ち帰ろうとしていた。
征服した帝国の財宝でもない。
皇帝の冠でもない。
玉座でもない。
この日、バトウが最も大切そうに手にしていたのは――。
父が遺した、一冊の書物だった。
コメント
1件
うわ、めっちゃ刺さった……。このエピソード、静かなのに重厚で、バトウが父親の遺した物——書物を「一冊残らず運び出せ」って命じたところ、泣いたわ。ラディスは燃やすと思い込んで襲いかかってきたけど、バトウは父の足跡をすべて持ち帰ろうとしたんだよね。その選択が、バトウの人間性を物語ってる。戦場の冷徹さだけじゃない、父親への想いがにじむ名シーンだった🔥