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夜の気配が
ゆっくりと家を包み込みはじめていた。
開け放した小さな窓から
夏の風がすべりこみ、
薄く揺れる草の匂いを運んでくる。
「……そろそろ休んだほうがいい」
エリオットは
ランプを手にして立ち上がる。
小さな家だ。
リビングと寝室、
それだけ。
足音をほんの数歩進めれば
寝室の扉に触れる距離。
「こっち」
扉を押し開くと、
そこには
木のベッドがひとつ。
薄い寝具と、
窓際に吊るされた
乾いた薬草の束。
暑すぎない夜だから、
寝具はそのままでも十分だった。
「きみは……ここで休んで」
エリオットの声はやわらかい。
まるで
ずっと前から
そうするつもりでいたように。
イチはベッドを見つめる。
無表情のまま、まばたき一度。
「僕は、外で寝る」
エリオットはそう言って
リビングのほうへ
ふと視線を向ける。
ソファには
古い毛布がひとつだけ置かれていた。
自分がいつもそこで寝ているようでもあり、
今夜だけそうするようでもある。
彼は毛布を手に取り、
肩にかけながら笑う。
「ベッドは、きみに」
声は穏やかだったが、
その裏には
どこか「当然」の色があった。
イチは何も言えない。
伝える手段はなく、
拒む術もない。
「大丈夫。
僕は、慣れてるから」
そう言うと、エリオットの肩がほんのわずかに上下する。
咳をこらえるように息を吸い込む仕草。
それでも笑顔を崩さない。
「……おやすみ、イチ」
ランプの光が揺れ、寝室の影が長く伸びる。
扉は完全には閉められず、そのすき間から
リビングの淡い光が細く漏れていた。
ソファに横たわる気配が
かすかな寝息とともに
静かな夜へ溶けていく。
イチは
ベッドに腰を下ろす。
そのまま動かず、夏の夜の生ぬるい風が
そっと頬をなでていくのを
ただ受けていた。
知らない家。
すぐそば――
たった一枚の壁の向こうに
誰かが眠っているということが、
なぜか
静かに胸へ触れていた。