ベッドに横になっても、
眠りはどこにも見つからなかった。
目を閉じれば
闇がただそこにあるだけで、
何ひとつ
彼女の心を沈めてはくれない。
――自分が、何者なのか。
それを思うたび、胸の奥がじわりと痛む。
名を思い出せても、
声は出ない。
表情も、動きも、
まるで鍵がかけられたように
思うままにはならない。
「どうして」
言えない問いだけが
静かに、自分自身へ沈んでいく。
夏の夜は
風がゆっくり窓辺を通り抜け、
乾いた草の匂いを運んでくる。
けれどそのやわらかささえ
何ひとつ
彼女の不安をほどかない。
扉のすき間から
かすかな明かりがにじんでいる。
その先から――
すう、
はあ、
すう、
はあ……
不規則で、
どこか苦しげな呼吸。
エリオットの、それだ。
眠っているはずなのに、
呼吸が何度も引っかかる。
息が止まりそうになるたび、
イチの意識は
夜の奥底から引き戻される。
それが怖い。
自分がどこから来たのかもわからない。
なぜ声を失ったのかも。
なにも知らないまま
自分すらつかめない。
そんな中で――
すぐそばの誰かの命が
ひどく不安定に
揺れている。
どうすればいいのかもわからない。
彼の苦しげな息遣いを
ただ聞いていることしかできない。
それが、ひどく心細かった。
記憶の奥底に沈んだ
かすかな映像が、
ひとつ、
ふたつ、
揺れる。
誰かの手。
ぬくもり。
花の匂い。
その断片だけが確かで、
それ以外は何もつかめない。
自分は誰で、どこへ帰るべきなのか。
答えのない問いを抱えたまま
イチは
ただ、目を開けていた。
闇の中――
エリオットの不安定な呼吸と
自分の空っぽな心だけが
夜を満たしていた。
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