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放課後の光が傾いて、相談室のドアの影が長く伸びていた。 古びた机と、壁際に置かれた観葉植物。窓の外では部活の声が遠く響いている。
そこへ、ひとりの生徒が入ってきた。
制服の袖を指で握りしめたまま、目を合わせようとしない。
「……入って、いいですか」
小さな声に、日下部はペンを置いた。
「どうぞ。座って」
椅子の脚が床を引く音がして、沈黙が落ちた。
生徒は何かを言いかけては、言葉を飲み込む。その様子を見て、日下部は机にもたれ、少しだけ声を和らげた。
「話したくないなら、無理に話さなくていい。ただ、ここにいるだけでもいいから」
その言葉に、わずかに肩が揺れた。
しばらくして、ようやく声がこぼれる。
「……自分だけ、止まってる気がするんです」
視線は机の木目に落ちていた。
「みんな進んでて、頑張ってて……楽しそうで。
自分だけ、何もできないまま時間が止まってるみたいで、怖くなる」
その“怖さ”という言葉には、必死に抑えた感情が滲んでいた。
日下部は少しだけ目を伏せ、ゆっくり言った。
「止まってるように見えるのは、きっと周りが早すぎるだけだよ」
生徒が顔を上げた。
日下部は続けた。
「みんな同じペースで進んでるように見えて、実は全然違う。焦って走ってるやつもいるし、立ち止まって息してるやつもいる。
でも、止まることを『遅れ』って思う人が多いんだ。……本当は、それが一番大事な時間なのに」
机の上に沈む光が、ゆらりと揺れる。
生徒は黙って聞いていた。
「止まってるようで、心は動いてるんだよ。考えたり、悩んだりしてるなら、それはちゃんと“進んでる”。
焦りも迷いも、動けない時間も、全部“生きてる証拠”だ」
日下部は少し笑った。
「俺もな、前にそう感じたことがある。
みんなが進んでくのを見て、置いてかれた気がして……苦しかった。
でも振り返ると、あの止まってた時間が、いちばん自分の中を動かしてた」
生徒はその言葉を反芻するように、ゆっくりとつぶやいた。
「……止まってても、動いてる」
「ああ。焦んなくていい。時間の速さは、人の数だけある」
沈黙の中、時計の針が小さく鳴った。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと色を変えていく。
日下部は立ち上がり、ドアの方を見た。
「今日の帰り、空見てみな。どんな色でも、自分の歩幅で見えるから」
生徒は小さく頷き、席を立つ。
扉の向こうに消える背中を、日下部は静かに見送った。
その顔には、ほんの少しの優しさと、どこか遠い記憶の影があった。