「次の授業なんだっけ?」
ろくに時間割表も見ないで聞くと、真帆は呆れながら振り返った。
「と、う、げ、い!」
「ああ」
紫音は目を細めた。
彼女たちが通う辰見美術専門学校では、1、2年生までは共通の授業があり、コースに関わらず美術と名のつくものは全部受けさせられる。
油絵も陶芸も映像メディアもデザインも全てを、だ。
そこで新たな世界との出会いがあり、コースを変更する生徒も珍しくはない。
しかし紫音にはその共通の授業が苦痛だった。
絵を描くのは好きだ。
キャラを創造するのが好きだ。
でも手が汚れるのが嫌いだ。
だからデジタルのキャラデザコースに入ったのに。
「粘土か」
教室について席に座るなりため息をつく紫音を真帆が笑う。
「あんたのプチ潔癖症、どうにかなんないの?これからの人生それだけでハードモードじゃね?」
「いいのー。普通に生きてれば粘土をベタベタ触る必要ないし。ドアノブさえハンカチで覆えば。普通にエレベーターのボタンだって押せるし」
ふと脳裏に、昨日の朝、1階のボタンを押してくれた長い指が蘇った。
「どしたの?ポーッとしちゃって」
真帆が覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない」
紫音は頬杖をついた。
(婚約。婚約かあ……)
ゆっくりと目を閉じ想像する。
あの柔らかな眼差しで彼女を優しく見つめるのだろうか。
あの長い指で、彼女の髪を愛でるのだろうか。
あの逞しい腕で彼女を抱き寄せて、それで―――。
「あ」
見上げるとそこには、
「キャラデザの授業で一緒だったよね」
紫の髪の毛をした“4年生”が、粘土を持って立っていた。
「あ……」
見上げると今日は長い髪を垂らした彼は、紫音の前にプラパイプとアルミ芯、穴の開いた木台を置いていく。
「これ、材料ね」
彼はそう言うと、真帆の前にも同じキットを置いていく。
「先輩は講師の手伝いをしてるんですか」
真帆が挑発的な目で言う。
「まあねー」
男は短く答えるとキットを持って後ろの席に行ってしまった。
つやつやの髪の毛が光の加減でピンク色に煌めく。
「綺麗な髪……」
思わず呟いた紫音の肘を真帆がつっつく。
「ちょっと!昨日笑われたの忘れたの?」
「え。でも本当に私のこと笑ってたかわかんな―――」
『はーい、それではー』
ピンマイクをつけた講師が教卓に立った。
『これからの8時間をかけて、アートハンドを作ります』
紫音は並べられたキットを見下ろした。
『今日はポーズ決めと芯づくりです。時短の為にやり方の説明は省きまーす。スクリーンに手順をリピで流しておくので、各自見てやってみてください。でもその前に―』
男性講師は皆を見回した。
『ええと、オスが18人、メスが20人』
ふざける講師に生徒たちから媚びの混じった笑いが漏れる。
「それいうなら|人《にん》じゃなくて匹でしょ、センセー」
講師と仲のよさそうな男子生徒から野次が飛び、
『はい、バカ1匹』
講師が笑う。
「………私、陶芸コースの雰囲気、嫌いかも」
真帆が眉をしかる。
「まあまあ」
紫音はそう宥めながらも、講師の横で微笑んでいる男を見つめていた。
『はい、じゃあね。自分の見飽きた手なんか作ってもつまらないから』
講師は大きな手をパンと叩いた。
『男女でペアを作って』
「えー」
真帆が迷惑そうな顔をする。
「どうする?」
「ああ、でも……」
紫音は後ろを見回した。
「女の子の方が2人余るから、いいんじゃない?私たちはその二人ってことで」
「ああ、なるほど」
そうと決まると、真帆は我関せずというように前を向いて目を瞑ってしまった。
突然のムチャぶりともいえる提案に戸惑いながらも、そこはさすが芸術を志す生徒たち。講師の指示に何らかの意図を汲み取り、素直に男女ペアを作っていく。
「あの、よかったら……」
そこにはもちろん不安や困惑が混じる。
「あ、はい。よろしくお願いします」
ただそれ以上の期待と欲望も滲み出している。
「…………」
ああは言ったものの紫音は少し焦りだした。
癖のありそうな講師だ。余ったという理由だけで本当に女同士のペアを許してくれるのか。
単位落としたらどうしよう。3年の就職活動が忙しい時期に、製作に時間のかかる彫刻の授業は受けたくない。
「ーーあのさ真帆、やっぱり……」
言おうとしたところで、講師の隣に立っている男と目があった。
「!」
慌てて目を逸らしたのだが、彼は教壇から下りて、こちらに近づいてきた。
「君、ペアは?」
「え……」
言い淀んでいると、真帆が顔を寄せた。
「私たち余っちゃったので、2人でやります」
動じずに言う真帆に一瞥をくれると男は講師を振り返った。
「センセー、出番です」
「んー?」
講師は、少しわざとらしい動作でスクリーンを避けながら教壇から降りてきた。
「彼女たち、ペアからあぶれてしまったので、センセー、その子をお願いします」
「おっけ」
講師は軽く言うと。眉間に皺を寄せた真帆を見下ろした。
「じゃ、君は俺が」
「――え?」
男は近くにあったパイプ椅子を引っ張ってくると、紫音の正面に座った。
「俺、雨宮深雪(あまみや みゆき)。よろしく」
深雪はそう言うと、男の手を差し出した。
『木台に5つの穴が開いてますー。そこにプラパイプを通したアルミ芯を差して、まずは手のポーズを決めまーす』
そう言いながら講師は真帆のキットを使って実際にやって見せる。
それを横目で見ながら紫音は羨ましく思った。
講師と一緒に作る。
講師の手を見ながら、直々にアドバイスを受けながら。
(ーー真帆、絶対“優”じゃん。この授業。だからと言って、生徒をオスとメスで数える中年講師の節くれだった手にさわるのは嫌だけど)
「ポーズ、どうする?」
と、深雪はテーブルに両肘をついて覗き込んできた。
「あ、ええと……!!」
紫音は慌てて、自分の手を見ながら握ったり開いたりしてみた。
「いやいや」
深雪は笑いながら自分の手を深雪に差し出した。
「モデルはこっちね?」
「――は!」
どこぞの軍隊のような返事に、深雪が笑う。
(何やってんだろう……もう!!)
「とりあえず、右手にする?左手にする?」
そんなの考えていなかった。
紫音は深く考えずに「じゃあ、右手で」と言った。
「ん」
深雪はそう言うとパイプ椅子の向きを変え、左側にいる紫音に向き直った。
(………しまった!!)
右側から至近距離で見つめられながら、右手が差し出される。
「……どうぞ?触りながら考えていいよ」
陶芸コースだからこういうのには慣れているのか、それともどぎまぎしている紫音が楽しいのか、深雪は笑いながら指をくいくいと曲げた。
(真帆ぉ……!!)
視線でSOSを出すが、
「そもそも男女っていうのは、骨格から違うからねー?」
「ふむふむ」
根は真面目な真帆は講師の言葉に小刻みに頷く。
「オスってのは、骨格が大きくて重い。また筋肉質で、関節周りの骨もそれらの筋肉を支えるため太い。触ってごらん?」
他意のない講師が自分の手を真帆にさわらせる。
「本当だ。関節が太い!」
この調子じゃ、とても気づいてくれそうにない。
「――――」
手を翳したまま待っていた深雪は、紫音の手を取ると、自分の右手の上に置いた。
「え!?」
「君も触ってみなよ」
「!!」
紫音の手に逆に指を這わせてくる。
「ほら、わかる?」
「…………!!」
「君の手よりずっと、硬くて」
唇を結んで耐える。
「ずっと、太い」
(早くこの時間よ、終われ……!!)
目を瞑ったところで、深雪はパッと手を離した。
「え?」
思わず顔を上げると、彼は身体をこちらに向けたまま頬杖をつき、楽しそうに微笑んだ。
「そろそろ教えてよ」
「……え?」
「君の名前」
「……紫音です。紫の音で、紫音」
「紫音ちゃんか……」
深雪は少し考えるように目を細めると、
「いい名前だね!」
と紫色の髪の毛を肩に滑らせながら笑った。
◆◆◆◆
「あの……」
「んー?」
「ごめんなさい、お忙しいのに!」
「いやー?そうでもないけど」
夕陽が翳る陶芸コースの一室で、紫音は深雪と向かい合って座っていた。
「今日はコースの奴らとさ、駅前の美術館でやってる日本絵画展を見に行く予定だったんだけど、俺、全然興味なかったから逆に助かったわ」
紫音は泣きそうになりながら、机の上で組み立てたアルミ芯を弄りまわしていた。
いわゆる“居残り”というやつだ。
真帆を含めて他の生徒はみんな帰ってしまい、講師も「来週からは粘土に入るから、ポーズは終わらせとけよー」とだけ言って帰ってしまった。
「なかなか関節の感覚がつかめなくて……!」
もう照れている場合ではない。
紫音は深雪の手をこねくり回すように確かめながら、それを忠実にアルミ芯に再現していく。
「あー、ね」
深雪はというと、右手を紫音に提供しながら楽しそうに紫音を見つめている。
「難しいでしょー」
「はい、すごく!!」
紫音は眉間に皺を寄せていった。
「私、空間把握が苦手で!」
「じゃなくてさ」
深雪は机に置いた腕に、自分の顎を乗せながら、一生懸命手を見つめている紫音を上目遣いに見た。
「これだけ自分の手との大きさに違いがあると、感覚掴みずらいだろうなーってこと」
(視線の破壊力ヤバい……!)
「ほらね、力も全然違う」
深雪はぎゅっと紫音の手を握ってきた。
(……もう限界っ!!)
「……あのっ!!」
思わず声が上擦る。
「もしよかったら、写真撮らせてもらってもいいですか?その……いろんな角度から!それを参考に作るので、先輩はその、行ってきていいですよ。日本絵画展!」
「えー」
深雪は言い終わらないうちに不満そうな声を出した。
「ダメダメー。紫音ちゃんは空間把握が苦手なんでしょ?じゃあ、猶更だめー」
「………」
そんなこと言われても―――。
(心臓が持たない……!)
「俺は別に今日予定ないからさー。ゆっくりでいいよー」
深雪はそのまま腕に顔を突っ伏してしまった。
「………」
ここぞとばかりに紫音は改めて目の前の男を見つめた。
美しい鎖骨と片方の肩が出ている緩めのニットセーター。
その白色が、胸のあたりまである紫の髪の毛とよく似合っている。
そして黒いスキニーパンツ。
足が細い。
そして長い。
ある意味自分の服装より女子力が高い。
それでいて、首から見え隠れするネックレスも、右手の人差し指に嵌めている指輪も、フェンディのものだ。
(この人もボンボンなのかなあ……)
生きている世界が違う男の手を掴んだまま、マジマジと見ていると、
「…………」
頭がコロンと転げて、こちらを見上げた。
その底がないような瞳に、吸い込まれそうになる。
変な期待を、
してはいけない勘違いを、
しそうになる。
「あ、あの……!」
紫音は意を決して口を開いた。
「昨日、キャラデザの教室で、私のこと、笑ってましたよね!」
そう言うと、彼はキョトンとこちらを見上げた。
「笑った?」
「笑ってました……!」
「……ああ」
深雪はやっと思い至ったようで、クククと笑った。
「ごめんごめん、傷ついちゃった?」
その言葉にかっと顔が熱くなる。
(やっぱり、こういう人だ……!)
先ほどまで手を触り、握られたことにいちいち反応していた自分が恥ずかしくなる。
「そうだね。確かに“笑った”よ。でも君を笑ったわけじゃない」
「うそ。ちゃんと私のことを指さして笑ってましたよ!?」
「あー、それは……」
「もう大丈夫です!」
何かを言われる前に立ち上がった。
「ポーズは大体できたので、あとは兄や弟にモデルになってもらって家でやってきます」
「ええ?」
立ち上がった紫音を深雪が茫然と見上げる。
「先輩は“4年生”の皆さんと、絵画展に行ってきてください。お時間ちょうだいしてすみませんでした!」
紫音はバックと材料を手繰り寄せると、逃げ出すように陶芸の教室を後にした。
少しでもときめいた自分に腹が立つ。
20年間、ずっとこの上なく“いい男”と一緒にいたはずなのに、
(あんな男にカモにされるなんて……!)
紫音は唇を結びながら、バス停まで走った。
◆◆◆◆
「あ」
「また会った」
マンションのエレベーターに乗ると、すでに乗っていた城咲が振り返った。
「……こんな時間にお帰りなんですか?」
少し嫌味を込めて言うと、
「ええ。実は今日は休みなんです」
城咲は悪びれずに答えた。
そうか。
ホームセンターもサービス業。土日が出勤の代わりに休みは平日なわけか。
妙に納得しながら、エレベーターの壁に背中をつけつつ、文字盤を見上げる。
「……ふふ」
城咲が背を向けたまま笑った。
(……どいつもこいつも……!)
「何かおかしいですか?」
ついつっかかって聞いてしまった。
「え?」
城咲は笑いながら振り返った。
「だから!私の何かがおかしかったですか?って聞いてるんです」
「――いえ、僕はそんな……」
「昨日、学校でも男たちに笑われたので、何かおかしいところがあったら教えてください!」
つい口をついた八つ当たりに、こちらを見下ろすと、優し気に目を細めた。
「じゃあ、正直に言いますね」
「……はい」
思わず身構える。
「今日はプリプリしてるなって思って」
「―――は?」
予想外の返答に、紫音はあんぐりと口を開けた。
「学校で嫌なことでもあったのかなって思ったら、若いっていいなとただ純粋に羨ましかっただけです」
「……………」
紫音は男を睨み上げた。
(たかがホームセンターでアルバイト程度の仕事をしてる人に何がわかんのよ!)
しかし次の男から出た言葉で、紫音は硬直した。
「……可愛らしいなって思って」
「ーーえ」
「紫音さんたち女性にはわからないと思いますが、男はかわいいなって思うときにも笑みがこぼれるものなんですよ」
城咲は少し長めの横髪を垂らしながら微笑んだ。
「あなたを笑ったその男性たちがそうだったかはわかりませんが……」
ポン。
エレベーターが止まった。
「何かあなたが思いもよらない理由があったのかもしれませんね」
そういうと城咲は僅かに会釈をしながら、エレベーターを出ていった。
(……私が思いもよらない理由?)
紫音は深く息を吸い込んだ。
花咲が今しがたまでいたあたりから、花のような匂いがした。
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