「あーー!もう、やだっ!!」
ナタリーは、叫んだ。
いや、叫ぶしかなかった。
遊覧船から、海に落とされ、かろうじて救命ボートは、与えられた。
かろうじて──。
「な、なんで、この炎天下、オールを漕がなきゃいけないの!手の皮が、剥けちゃって、もう、無理!!」
初めて漕ぐボートのオールを、再び握りしめたが、とたんに、痛みに襲われる。
「ああ、ひどい。手のひらが!これじゃ、薬を塗っても、なかなか癒えないわ!この、ナタリー様の体に傷をつけやがって!あの男!!」
海上に、ぽつんと、取り残された状態から、早く抜け出さねば。太陽は、頭上の頂点から、少しずつ傾き始めている。
夕暮れへ、確実に向かっているということだ。
「まだ、今は良いけど……、早く、あの岬まで到着しないと、それに、館まで、どう行くのよ」
ボートを与えられた時に、岬の館へ避難しろと、指示を受けた。
逃げ場所を用意してくれているというのは、ありがたい。が、そこまでの道のりは、ナタリーにとって、至難の技に入るものだった。
そして、そもそも、そこへ行って、安全、なのか。
ただ、唯一助かったのは、この惨事を巻き起こした男、カイルの囮作戦なのかなんなのか、わからない行動のお陰のようで、ロザリー達には、見つかっていないということだろう。
あの執拗さ、と、いうよりも、おそらく、彼女も命令されて、ナタリーを追って来たのだろう。自分達の計画を崩されたのだ。実行させるために、ナタリーを捕らえるのか、はたまた、本当に、捕らえるのか……、そこまでは、分からない。
海上で、愚痴れると言うことは、結果、安全であるというだけど……。
「あーー!もう、日差しは、キツイし、そのわりに、濡れたドレスは、乾かないし、寒いし、重いし、もう!なんなのーーー!」
再び、ナタリーは、思いの丈を吐き出した。
ドレスは、海水をしっかり吸って、滴を落とす始末。
所々は、ギッと絞ってみたが、それで、間に合う話ではなかった。
差し込む日差しが、乾かしてくれるかと、望みをかけたが、真夏のそれではないだけに、乾かす威力は、ないのか、はたまた、たまに流れて来るそよ風が、乾かしてくれるかとも、思ったが、それは、海面に凪をおこすだけで、しかも、ナタリーの、体をしっかり、冷やしてくれる物だった。
「くうーーー!あの、大馬鹿、カイルの野郎!次、合った時は、覚えてろ!氷水、ぶっかけてやるわっっ!!」
幸いなことに、ここは海上。ナタリーしかいない。
今なら、どんな悪態をつこうが、醜態をみせようが、傾国のナタリーの、通り名を汚すことには繋がらない。
「まったく、こんな、情けない姿、見られたら、今後の依頼に響くじゃないの」
はあ、と、ナタリーは息をつく。
男に夢を与えて、取り崩す。それが、ナタリーの、本業なのだ。非日常、極上の女を演じてこそ、自身の立ち位置を守れるのだと自負している。
狙うは、すべにおいて目の越えた、王侯貴族の男達。
一筋縄ではいかない、人種の、その上をいかねば、コロリと転がし、手玉に取る事など無理な話で、依頼を完了することもできない。
まったく、因果な商売に、足を突っ込んだものだわと、愚痴りかけたナタリーは、異変に気がついた。
ボートが、かすかではあるが、進んでいる。
もしかして……。潮の流れに乗ったのだろうか。
これで、オールを漕がなくて良くなった。と、一瞬、手放しで喜んだが、果たして、この流れは、どこへ向かっているのだろう。
目的の岬へ、進んでくれればありがたい。
しかし、世の中、そううまい話は無いわけで、大海原へ、ぐんぐん進んで行く可能性もある。
「これって、どうなるのよ」
「そう、まったくもって、本当に」
と、ナタリーの呟きに答える者がいる。そして、ボートが、左右に揺れて、何かがその縁につかまりながら、ザブンと音を立てて、浮き上がって来た。
「ぎゃーーーー!!!!怪物!!!」
ナタリーの悲鳴が響き渡った。
「いや、ちょっ、ちょっと、待って、落ち着いて、ハニー!」
……ハニー?!
などと、ほざく野郎は、あいつしかいない!
ナタリーは、とっさに、片側のオールを取り外すと、大きく振りかぶった。
「カイル!あなたなのねっ!」
「そ、そうです。カイルですけど、ちょっと、ちょっと!!そのままでっ!!!動かないでっ!!!」
ボートの縁にしがみついているのは、頭から海草を垂らし、その上に、ヌメヌメとした、生き物を乗っけている、裏切り者だった。
海草のお陰で、顔は隠れ、ヌメヌメが、更に乗っかっているので、海から浮き上がって来た姿は、どう見ても、怪物だったが、かろうじて、喋る様子で、カイルと判断できた。
しかし、こいつの為に、こんな目にあっている。いや、さかのぼれば、こいつのせいで、騙され続け、拘束されて、海にほうり出されている、という最悪の状態なのだ。
許せるものか!
ナタリーは、オールを振り下ろした。バシンという音と、イテッと、いう、悲鳴がおこる。
ついでに、ギュッといったような、妙な鳴き声に近い物も聞こえたが……。
「ああ、逃げてしまうっ!!今夜の夕飯がっ!!」
一撃を食らいながらも、カイルは、ボートに掴まり、そして、頭を必死に押さえていた。
「な、何をやってるの、あなたっ!」
「何って、ちょうど、上手く乗っかってくれた、タコを逃さまいとしているのだが、君の一撃で、伸びてしまったか、どうなってしまったのかねぇー。なんだか、吸盤の吸い付く力が弱まっているのだけど?」
言いながら、カイルは、ぶるぶると、頭を揺らした。
勢い、タコは、カイルの頭から、ボートの中へ落っこちて、ゆるゆると、何本もある足を動かしながら、ナタリーに向かってやってくる。
「ぎゃーーーー!!!」
「ああ、叫ばないで、ハニー。君には、ちょっと、刺激が強いかもしれないけれど、この辺りでは、タコは、ご馳走なんだから」
「あーーー!!知ってる、知ってるけど、何、ヌメヌメしすぎてるっっ!!!」
「まあ、生きている姿は、多少、グロテスクかな?」
「ああ、カイル!!なんとかしてよっ!!」
「はいはい、わかりました」
言って、カイルは、縄でタコを縛ると、ボートの隅へ放り投げた。
ペチャリと、いやな音がした。
うっと、呻きつつ、ナタリーは、はたと、気がつく。
「あなた、なんで、いるのよ!」
ボートには、向かい合わせに、カイルが、座っている。タコを縛った縄をもって……。
「逃げちゃいけないからねー、縛ってても、気は抜けないんだよねー」
相変わらず、へらへらしているカイルだが、ナタリーの答えにはなっていない。
「だ、だからっ!!!」
「はい、そのオールを貸して。俺が漕ぐから」
固まるナタリーから、オールを奪うと、カイルは、これ持っててと、タコを縛っている縄を差し出してきた。
「えっ?!私が?!この、ヌルヌルが、襲ってきたら、どうするのよ!!」
あーと、カイルは、肩をすくめて、バシンと、オールで、タコを叩いた。
「どうせ、食べるんだから、生きてなくても、いいか……」
と、呑気に言っている。
しかし、どこから現れたこの男。そして、ボートにいつ、乗り込んで来た?ついでに、縄は、なぜかあったのだ?
「積もる話は、まっ、あの館へついてから、って、ことで、ねっ?」
カイルは、またもや、いつもの軽薄なウィンクを送ってきた。
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