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紫道
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第5話 再利用
朝の教室は、少し乾いた紙みたいだった。
触れば音が出そうで、
曲げれば跡が残りそうで、
なのに見た目だけは何も変わっていない。
ミチルは扉の前で一度だけ指を握った。
右手の親指が左手のあかぎれをなぞる。
そこだけが、自分の手の中で確かな痛みを持っている。
扉を開ける。
机。
いす。
窓際の列。
黒板の上の時計。
みんな同じ場所にある。
でも、誰がどこを見るかだけが少しずつ変わっている。
「おはよー」
サエの声が先に飛んだ。
耳の下で切られた髪が軽くはねる。
丸い目はもう、ただの朝の目ではない。
なにか起きそうなほうへ向く目になっている。
「……おはよ」
ミチルは返した。
返した声が、自分の口から出たものなのに、教室の中で少し浮く。
ユウタは後ろの席で椅子を引きながら、鼻で笑った。
笑った理由はわからない。
わからないのに、その笑いはこっち側へ来る。
ナナカは頬杖をついていた。
肩より少し下まで落ちる髪。
前髪の下の視線だけが先に動く。
口元はやわらかいのに、そこへ出てくる言葉にはいつも置き場所がある。
「ねえ」
その一言だけで、まだ開ききっていなかった朝がぱたりと閉じる。
「なに」
ミチルが言うと、ナナカは少しだけ首をかしげた。
「ミチルってさ、前からそうだったよね」
前から。
その言葉が教室の中へ落ちる。
新しい話のはずなのに、すぐ古くなる。
前からと言われた瞬間、もう前からになる。
「何が」
「人のこと見て、変な顔するの」
変な顔。
またそこへ戻る。
「してない」
「してたよ」
「昨日の話?」
「昨日だけじゃないけど」
ナナカはそこで教室の後ろを見た。
「リオのときもそうじゃなかった?」
リオ。
その名前が出た瞬間、教室の空気がわずかに揺れる。
リオは少し前まで、この教室の真ん中にいた。
髪はあごの少し下で切られ、毛先が少し外へ向く。
笑うと片目だけ先に細くなる癖があって、口元も少しだけ斜めになる。
シャツの袖を少しまくりがちで、手首にうすいペンの跡がついていた。
今も同じ教室にいる。
いるのに、名前が出た瞬間、その存在だけが少し離れた感じになる。
ミチルは言葉を探した。
リオ。
何のことだ。
何かあっただろうか。
思い出そうとしても、細かい休み時間の音ばかりが先に浮かぶ。
机を引く音。
笑い声。
窓の外の風。
「……何それ」
やっと出たのはそれだけだった。
ナナカが小さく笑う。
「え、覚えてないんだ」
サエがすぐに口元を押さえる。
「うわ」
ユウタが椅子にもたれたまま言う。
「それはやば」
覚えてない。
その言葉が、もう悪い。
ミチルはリオのほうを見た。
リオはノートを出す手を止めていた。
あごの少し下で切られた髪の毛先が、動きをやめる。
片目だけ先に細くなるあの笑いは今日は出ていない。
「何のこと」
ミチルが聞くと、ナナカはほんとうに不思議そうな顔をした。
「前、リオが発表で詰まったとき」
「ミチル、横で笑ってたよね」
「それで、あとからもずっと見てたじゃん」
三つ。
短い。
並べやすい。
そのまま周りへ渡せる形。
「笑ってない」
ミチルはすぐ言った。
「え、笑ってたよ」
サエが入る。
「見たもん」
ユウタも言う。
「発表のあともさ、なんかニヤってしてた」
ニヤって。
その言い方が、もう顔を決めてくる。
ミチルはリオを見た。
リオは一度だけ眉を寄せた。
でも、すぐ戻した。
はっきり怒るほどでもなく、否定するほどでもない顔。
その曖昧さが、いちばんいやだった。
「リオ、覚えてない?」
ナナカがやわらかく聞く。
リオは少し考えるように視線を落とした。
指先でノートの角を押す。
袖をまくりかけて、やめる。
「……なんか、見られてた気はする」
その言葉が出た瞬間、教室の中で小さな音がした。
声ではない。
みんなが同じほうを向くときの、空気の音だった。
「ほら」
ナナカが言う。
「やっぱり」
やっぱり。
その一言で、昨日までが前へ伸びる。
ミチルは喉の奥が急に乾くのを感じた。
見られてた気はする。
それはたぶん、誰にでもある。
教室にいれば、だれかを見るし、だれかに見られる。
でも、いまその言葉は、もっと狭い形をしている。
「普通に見ただけでしょ」
言った瞬間、ユウタが笑った。
「出た、普通」
サエも続く。
「便利」
ナナカは首をかしげる。
「普通に見ただけで、ああなるんだ」
「ああって何」
「リオが詰まったとき、口元ゆるんでた」
ナナカ。
「そのあともずっと見てた」
サエ。
「リオ、嫌だったよね」
ユウタ。
最後のそれは、もうリオの中身を先に決めている。
リオはすぐには答えなかった。
窓のほうを見て、それから前を見る。
片目だけ先に細くなる癖のない顔で、今日はただまっすぐ考えている。
「……嫌、だったかも」
その「かも」が、教室の中ではすぐ削られる。
「だよね」
ナナカがうなずく。
「前からそういうのあるよね、ミチル」
前から。
また置かれる。
ミチルは、自分の記憶の棚を急いで探るみたいに考えた。
発表。
リオ。
詰まったとき。
そんな日があったかもしれない。
たぶんあった。
でも、そのとき自分が笑っただろうか。
口元がゆるんだだろうか。
何を思っていただろうか。
思い出そうとすればするほど、教室の音ばかり浮かぶ。
発表の紙がめくられる音。
椅子の脚。
誰かの咳。
窓際の風。
そのどこにも、自分の顔はない。
「覚えてないならさ」
ナナカが言う。
「余計ひどくない?」
ミチルは顔を上げた。
「何で」
「人を嫌な気分にさせたのに覚えてないんだよ」
教室の後ろで、誰かが小さく「たしかに」と言った。
それが誰かはわからない。
わからないほうが広い。
担任が入ってきて、朝の会が始まった。
出席。
提出物。
係からの連絡。
普通の声が、教室の真ん中を通る。
でもミチルの耳には、前からそうだったよね、が残っていた。
前から。
それは便利だ。
一度つけば、昨日も一昨日も、まだ起きていない明日も、その形へ寄っていく。
一時間目は社会だった。
歴史の年号が黒板に並ぶ。
ノートに写す。
ペン先が紙をこする。
リオは前の列で、細い指でノートの端を押さえていた。
髪の毛先が、首を少し動かすたび外へ小さく揺れる。
ミチルは見ないようにしていた。
でも見ないようにすると、その不自然さが自分にわかる。
見てもだめ。
見なくてもだめ。
もうそこへ糸が張られている。
休み時間、サエがリオの席の横で立ち止まった。
「前からちょっとあったよね」
その声は、ミチルに向けてではない。
だから余計に届く。
リオが顔を上げる。
サエは口元を手で隠したまま、丸い目で困ったように笑う。
「なんか、見下してるみたいな」
見下してる。
また一つ、過去へ札が増える。
ユウタも来る。
「発表のときだけじゃなくて、前にノート見せたときもさ」
「うわ、みたいな顔してなかった?」
うわ、みたいな顔。
そんな言い方なら、どんな顔にもなれる。
リオは少し考えて、それから言った。
「……あったかも」
その瞬間、過去が一つ増える。
なかったかもしれない過去が、あったかも、で形を持つ。
ミチルは席から動けなかった。
なかった、と言いたい。
でも、なかったことをどう証明するのかがわからない。
ナナカが頬杖のまま言う。
「ミチルってさ」
「前のこと、すぐ忘れるよね」
「自分がやった側だからじゃない?」
やった側。
また線が引かれる。
ミチルは立ち上がった。
「やってない」
声は思ったより強く出た。
教室が少しだけ静かになる。
ナナカは目を細めた。
その細まり方が、待っていたみたいでいやだった。
「何を」
「笑ったりしてない」
「発表のとき?」
「そう」
「ノートのときは?」
「それも」
「じゃあ、何でリオは嫌だったかもって言ったの」
答えがすぐ来る。
切れ目がない。
「それは……」
「それは?」
サエが聞く。
「何」
ユウタが重ねる。
ミチルは口を閉じた。
たった一拍だけ、考えようとした。
でもその一拍がもう長い。
「ほら」
ナナカが言う。
「またそうやって止まる」
止まる。
言えない。
覚えてない。
だから悪い。
短い道がまたできる。
リオが小さく言った。
「私、前からちょっと嫌だったのかも」
その声は自分でも確信していない声だった。
なのに、出た瞬間、教室の中では確信の顔をする。
ナナカがやさしくうなずく。
「だよね」
ユウタが鼻で笑う。
「やっぱり」
サエも続く。
「前からじゃん」
前からじゃん。
その一言で、今の嫌な感じが、昔から続いていたものに変わる。
積み木みたいに、あとから下へ差しこまれていく。
ミチルは、記憶の中でリオを探した。
ノートを見せてもらった日。
発表の日。
廊下ですれ違った日。
掃除当番が一緒だった日。
ある。
いくつかある。
でも、そのどこにも、自分がそんな顔をした確かな場面はない。
ないのに、教室の中ではもうある。
給食の時間、リオが同じ班になった。
偶然だ。
ただの席順だ。
でも、今の教室では偶然も形を持つ。
リオはトレイを置くとき、ミチルのほうを見なかった。
その見なさが、前より少しだけ深い。
前にはなかった深さだ。
それはたぶん、さっき作られた。
「ねえ」
ナナカが言う。
「ちゃんと謝ったほうがよくない?」
謝る。
そこまで来る。
ミチルは箸を持つ手に力が入った。
味噌汁の表面が揺れる。
「何を」
聞いた瞬間、まただと思う。
「何を、じゃないでしょ」
サエが言う。
「前から嫌な思いさせてたこと」
「だから、してないって」
「でもリオは嫌だったんだよ」
ユウタ。
「それは事実じゃん」
事実。
その言葉は重い。
ここでは、感じたかも、も、見られてた気はする、も、すぐ事実になる。
リオはトレイの上のごはんを見ていた。
髪の毛先が少しだけ外へ向く。
片目だけ先に細くなる笑いは、今日も出ない。
「私、別に大ごとにしたいわけじゃない」
小さな声だった。
けれど、その小ささが余計にミチルを追い込む。
大ごとにしたいわけじゃないのに、こうなっている。
じゃあ原因はどこか。
すぐ、こっちへ向く。
「だったら謝れば終わるじゃん」
ナナカが言った。
「簡単だよ」
簡単。
またそれだ。
ミチルは、簡単という言葉がどんどん嫌いになっていくのを感じた。
簡単なものほど、ここでは形が決まっている。
形に合わないと、すぐ変になる。
「覚えてないのに謝れない」
言ってしまってから、教室の空気の薄さが変わるのがわかった。
ナナカの口元が少しだけ上がる。
「覚えてないなら謝れないんだ」
ユウタが笑う。
「うわ」
サエも口元を押さえる。
「それ言うんだ」
リオは少しだけ顔を上げた。
その目の中に、困った色と、傷ついたみたいな色が混ざる。
その混ざり方を見た瞬間、ミチルは自分の言葉がもう自分のものじゃなくなったとわかった。
「違う」
「何が」
ナナカ。
「覚えてないって、なかったってことじゃないし」
ミチル。
「じゃああったかもしれないってこと?」
ユウタ。
「でも謝れないんだ」
サエ。
「ひど」
だれか。
短い言葉が、もう誰のものでもなく飛ぶ。
ミチルは箸を置いた。
机のふちに指をかける。
木の角が指先に当たる。
「そうじゃなくて」
「じゃあどういうこと」
ナナカがすぐに入る。
「説明してみてよ」
またそれだった。
説明。
ここまで来ると、その言葉はもう口ではなく床に近い。
踏めば音が出る。
どこを歩いてもその上にいる。
ミチルは息を吸った。
「覚えてないから、本当にそうだったか分からない」
「でも、もし嫌な気分にさせてたなら」
そこまで言ったところで、ユウタが笑った。
「もし、ね」
サエも重ねる。
「うわー」
ナナカは頬杖を解かないまま、ただ言う。
「そういうとこなんだよね」
その一言で、途中の言葉が全部薄くなる。
もし。
分からない。
嫌な気分にさせてたなら。
全部、逃げに見える。
リオは何も言わなかった。
でも言わないことが、こっちに不利な沈黙になっていく。
それが見える。
昼休みの終わり、ミチルは廊下の手洗い場で手を洗った。
水は冷たかった。
流れていく。
そこに残らない。
流れるものはいい。
説明しなくていいから。
教室へ戻ると、後ろの席の女子が別の子に言っていた。
「ミチルって、前の子のときもあったよね」
前の子。
リオの前に、もう一人いたのだろうか。
それとも、もっと曖昧な「前」なのか。
名前が出ないぶん、広くなる。
「なんか、毎回そういう感じ」
「わかる」
その会話は、ミチルへ向けられていない。
だから余計に深く入る。
向けられていない話は、もう止めようがない。
五時間目の英語で、担任がペアを作らせた。
リオとミチルが近くの席になる。
それだけで、教室の何人かが目を上げる。
リオは教科書を開いた。
細い指が紙の端を押さえる。
「……ここ、読んで」
声はふつうだった。
でも、そのふつうの下に少しだけ距離がある。
ミチルはそこを読んだ。
発音を間違えた。
小さく。
自分では気づかないくらいに。
サエが笑う。
ユウタも鼻で笑う。
「今のもさ」
ナナカの声が入る。
「わざとじゃないなら便利だよね」
わざとじゃないなら便利。
その言い方は、過去にも今にも使える。
リオが視線を落とす。
その目の落とし方すら、ミチルには自分のせいに見えた。
放課後、教室に残ったのはいつもの顔ぶれだった。
ナナカ。
サエ。
ユウタ。
リオ。
タクミ。
ヒナ。
そしてミチル。
窓から入る夕方の光が机の脚を長くする。
黒板の端だけが少し明るい。
ナナカが言う。
「ちゃんとしようよ」
その声は責めるより、整えるみたいだった。
「前のこと、あやふやにしたままだとさ」
「また同じことになるじゃん」
「リオのためにもよくないし」
リオのため。
それを聞いた瞬間、リオの顔に少しだけ迷いが出た。
けれど、否定はしない。
ミチルは机に手を置いた。
椅子の脚。
床。
窓。
黒板。
逃げる先のない四角い教室。
「……ごめん」
やっと出た。
その一語は軽かった。
軽すぎたのかもしれない。
ナナカが少しだけ首をかしげる。
「何に対して?」
そこまで来る。
「え」
「何に対してのごめん?」
ユウタが笑う。
「たしかに」
サエも言う。
「そこ大事じゃない?」
リオは黙ったまま、ミチルを見た。
待っているような、困っているような、どちらでもない目。
ミチルは喉がきしむのを感じた。
「嫌な思いさせたなら」
「なら、ね」
ナナカが静かに繰り返す。
「また、なら」
「だって」
「だって何」
「覚えてないし」
「でも謝った」
「……」
「何に対してかも分からないのに?」
問いがまた閉じていく。
ミチルは息を吐いた。
吐いたはずなのに、胸のあたりが狭いままだ。
「発表のとき、笑ったって言われたこと」
やっとそう言うと、ユウタがすぐに言った。
「言われたこと、なんだ」
サエも口元を押さえる。
「自分のことじゃないんだ」
ナナカが小さくうなずく。
「そういうとこなんだよね」
また、それだった。
「ノートのときもあったよね」
「見られて嫌だったって言ってたし」
「前からちょっとずつそうだったんでしょ」
三つ。
もう過去が整理されていく。
なかったかもしれない細い出来事が、横へ並べられて、一つの性質になる。
リオが小さく言う。
「……たぶん」
たぶん。
それすら、ここでは充分だ。
ミチルは、リオを見た。
リオの髪の毛先が外へ向いている。
片目だけ先に細くなる癖は出ない。
シャツの袖だけ少しまくられて、手首に薄いペンの跡が見える。
その細部がやけにくっきりして見えるのに、その人との過去だけが曇っている。
「私、そんなつもりじゃなかった」
ついにそれを言ってしまう。
ナナカは、待っていたみたいに笑った。
口元だけが、やわらかく。
「つもりじゃなかったなら何してもいいんだ」
「そういう意味じゃ」
「じゃあどういう意味」
またそこへ戻る。
サエが机に手を置く。
「毎回それだよね」
ユウタも続く。
「覚えてない」
「つもりじゃない」
「普通」
並ぶ。
もう、教室の中で使い慣れた言葉になっている。
タクミがそこで初めて声を出した。
「……まあ、嫌だったなら」
それだけだった。
全部ではない。
庇いでもない。
ただ、嫌だったなら、の一言。
でもその一言が、もう十分だった。
ナナカがやわらかくうなずく。
「だよね」
タクミはそれ以上何も言わなかった。
前髪を手の甲で払って、目をそらす。
ミチルは、その一言が決定打になるのを見ていた。
だれか一人でも、曖昧なままそちらへ重さを置けば、それで足りる。
「ねえ」
ナナカが最後みたいに言う。
「リオに前からしてたこと、ちゃんと認めたら?」
認める。
その言葉の前で、ミチルの中の記憶はますます曇る。
発表の日。
ノートの日。
廊下の日。
どれも、あるようなないようなまま揺れている。
でも、教室の中ではもう揺れていない。
リオが嫌だった。
ミチルは前からそう。
覚えてないのは、やった側だから。
謝っても中身がない。
つもりじゃないで逃げる。
きれいに並ぶ。
「……ごめん」
ミチルはもう一度言った。
今度は軽くないように言おうとした。
けれど、重くしたぶんだけ、自分の中身から遠くなる。
リオは少しだけ間を置いて、うなずいた。
「うん」
その一音は、許しというより終わらせるための音だった。
ナナカがそこで微笑む。
ほんの少しだけ。
「よかった」
その言い方が、整った教室を見る人の顔だった。
サエがほっとしたみたいに息をつく。
ユウタも肩をすくめる。
ヒナは何も言わない。
でも、顔だけが少し曇る。
ミチルは、自分の口から出したごめんが、何に触れたのか分からないまま立っていた。
謝った。
なのに、謝った先が見えない。
窓の外では部活の声がしていた。
ボールの音。
走る足音。
誰かの笑い。
ただの夕方。
ただの放課後。
なのに、この教室の中だけ、少し古いものが新しく塗り直されていた。
前のこと。
前の子。
前からそう。
その全部が、いまの証拠として机の上に置かれる。
帰り道、ミチルは階段の踊り場で立ち止まった。
窓に自分が映る。
肩口で切りそろえた髪。
力の入った口元。
目の下の影。
その顔のうしろに、リオの発表している姿を思い出そうとした。
思い出せない。
紙を持つ手。
詰まった声。
教室のざわめき。
そこまではある。
でも、そのときの自分の顔だけがない。
ないものなのに、教室ではあったことになった。
あったことになったものを、自分まで少しずつ信じかけている。
それがいちばん怖かった。
次の日の朝、教室へ入ると、後ろの席で誰かが言った。
「前の子のときもそうだったらしいよ」
「やっぱり」
「最初からそういう人なんだ」
最初から。
もうリオのことだけではない。
前の子、というぼやけた形で、もっと広く使えるようになっている。
ミチルは席へ向かった。
椅子を引く。
座る。
ナナカが頬杖をついたまま、こちらを見る。
前髪の下の目だけが先に動く。
「ねえ」
やわらかい声。
「また前みたいにしないでね」
前みたいに。
もう、何の前なのかすら曖昧でいい。
曖昧なほうが使いやすい。
サエが笑う。
ユウタも鼻で笑う。
後ろの席の子が、聞こえるか聞こえないかくらいで、ほんとそれ、と言う。
リオは何も言わない。
でもミチルと目が合うと、少しだけ先にそらす。
そのそらし方は、昨日までなかったものだった。
ミチルは自分の机に手を置いた。
木の表面の冷たさが、ほんの少しだけ指先へ戻る。
過去は終わったはずなのに、
この教室では終わらない。
終わったものは、形だけ残して、
また今日のために使われる。
ナナカが静かに言う。
「ほらね」
その一言に、もう説明はいらなかった。
前の悪者は、こうして何度でも再利用されるのだと、
教室の空気が先に覚えていた。