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三日ぶりに戻って来た森の館で、帰って来たという実感を一番強く感じたのは浴槽にたっぷりのお湯に浸かった時だった。歩き疲れた足がじんわりと温まって、張り詰めた緊張がほぐれて行く。ふぅっと大きく息を吐いて目を閉じると、瞬く間に眠りの世界へと誘われる。
気を抜くと本当に眠ってしまいそうになり、両手でお湯を掬ってバシャバシャと顔に浴びせかけた。程よく身体が温まるとマーサが用意してくれていた着替えに袖を通し、風魔法を使って髪を乾かす。ドライヤー無しの生活にも随分と慣れてきた。
今日は早めに夕食を用意しますとマーサからは聞いていたけれど、その前に少しだけ横になろうとベッドに身体を預けた。そしてそのまま、葉月が起きる気配は無かった。
いつまでも降りて来ない少女の様子を見に二階へと上がって、ぐっすりと眠る姿を目にし、小さく笑いながらベルは部屋の灯りをそっと落とした。
「よく眠ってたわ」
「お疲れなんでしょうね」
ベルの分の夕食を運びながら、木箱に入って戻ったばかりの葉月の顔を思い出して、マーサは微笑んだ。マーサとしては何度か見慣れた光景だったが、初めて乗せられた葉月はよっぽど怖かったのだろう、涙ぐみながら必死で箱の淵にしがみついていたのだから。
大きなダイニングテーブルの上に地図を広げると、ベルは最後に居た地点を確認して印をつけた。空から見た川の曲がり方を思い出して導き出したポイントは、中心街から西南の川沿いだった。父がトラ猫と出会ったという洞窟とは少しズレるが、かなり近い場所までは辿り着いていたことになる。
「ここから、どう行くのかしら?」
ほぐしたささ身をテーブルの下で味わっていた猫に問いかけてみるも、素知らぬ顔で食事を続けているだけだった。
次にまた探索に出る時は今日の最終地点からのスタートになる。そう、今はすごろくでいうところの一回休みの状態だ。疲れたら休み、心身共に復活したらまた続きから進む作戦だった。
再スタート地点へは勿論、ブリッドに運んで貰うつもりでいるのだが、そのことはまだ葉月に説明していない。
皿を完全に空にした猫は、ソファーに移動して毛繕いを始めた。戻ってきてすぐにマーサに濡れタオルで念入りに拭かれていたので、毛並みの埃っぽさはすっかり消えて本来の艶を取り戻している。
「そうそう、昨日の午後に薬店の方がいらっしゃいましたので、明日以降に出直してくださるようお伝えしてありますわ」
「あら、どんな様子だった?」
薬の粉末化の件だろうか。是非とも店主の反応が知りたいと、ベルは目を輝かせた。試行錯誤の末に生み出した粉薬だが、薬店側からすると計量の手間が掛かってしまう。商品化できるかどうかは店主の捉え方次第だし、場合によっては店に人手が要るだろう。
「機嫌は良さそうでしたわ」
「じゃあ、粉薬の反応は良かったのかしら」
中に入っていきなり土下座だった前回とは違って別人のように明るい表情だったので、決して悪い知らせでは無さそうだ。マーサの話では翌日にまた飛んでくるのではないかと思っていたら、まさに予想通りだった。
翌朝、完全復活した葉月と一緒に朝食後のお茶を味わっていると、館の結界が揺らぐのを感じた。しばらく後に入口扉を叩く音がし、世話係がいそいそと対応に出ると、見知った薬店店主が満面の笑みで佇んでいた。
「おはようございます。森の魔女様に御目遠しをお願い致します」
上機嫌とはまさにこのことといった風に、ベルらが居るソファーへと案内される最中もニコニコと顔を綻ばせている。右手を胸に当てて深々と頭を下げて丁寧に挨拶を済ませると、勧められるがままに二人とはテーブルを挟んだ向かいの席へと腰を下した。
顔を見るなり床に頭を擦り付けた人物とは思えないほど、今回はとてもスマートな立ち振る舞いだった。
「それで、粉末の薬はどうだったかしら?」
「あれは画期的です! 店に出した途端、飛ぶように売れました」
最初はまず、見知った冒険者数人にサンプルとして勧めただけだったが、すぐに彼らから話を聞いた者達がこぞって店を訪れて来て、薬の計量が間に合わないくらいの大騒ぎとなった。中には液体の薬を下取りに出して粉末の物に買い直したいと言う者まで現れる始末。さすがにそれは断ったが。
「軽量化され、割れる心配もなく、さらには長期保存も可能と言えば、誰もが粉末の方を欲しがります」
「お店での計量の手間は?」
「それぐらいは何とでもできます。今後も粉末を納品いただけるのなら、人を増やすことも視野に入れております」
正直、粉末化は乾燥の工程が増えるのでベルとしては面倒だ。けれど、利用者にメリットが大きく、さらに雇用拡大につながるとなると考えなくもない。唯一危惧するのは瓶を卸していた工房のこと。傷薬などのゲル状の物は引き続き瓶入りとなるが、それ以外の注文が大幅に減るのは死活問題だろう。新たな薬を考えるなどしなければと、ベルは顎に指を当てた。