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アドラル皇国
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1,373
#日常
寿命㌫(主) 🔮🖤ᩚ
2,231
「やられた……」
ムスチラフは、ようやく悟った。
街道には、敵が捨てていった戦利品が転がっている。
金貨。
絹。
酒樽。
武器。
家畜。
それを拾い集める兵士たち。
我先にと敵を追い、隊列を離れていく騎兵。
敵が見えなくなったのをいいことに、
戦利品を巡って味方同士で殴り合う者までいた。
「それは俺が拾った!」
「離せ!」
怒号が飛び交う。
その横を、別の部隊が勝手に通り過ぎていった。
もはや誰がどの隊に属しているのかすら分からない。
九日前。
追撃を始めた時には、四万の大軍だった。
整然と隊列を組み、号令一つで動く軍だった。
だが今は違う。
兵は疲れ果てている。
隊列は伸びきり、部隊同士の間隔はばらばら。
先頭と最後尾がどれほど離れているのかさえ分からない。
敵が逃げ続けたことで、いつしか誰もが思い始めていた。
――モンゴリア軍は恐れている。
――もう戦う気はない。
――あと少し追えば、完全に逃げ去る。
その油断が、軍全体に染みついていた。
「九日……」
ムスチラフは呟いた。
九日間。
敵は一度もまともに戦わなかった。
逃げて。
捨てて。
逃げて。
また捨てた。
そして自分たちは、そのたびに拾い、追い、争った。
ようやく分かった。
敵は逃げていたのではない。
自分たちを――
壊していたのだ。
(気をつけたつもりだったのだがな……)
皇帝セヴェリウスも警告していた。
罠だ、と。
自分自身も、その可能性を疑っていた。
にもかかわらず。
目の前で敵が逃げれば追った。
財宝が落ちていれば兵は拾った。
あと一歩で追いつけそうなら、騎兵を先へ出した。
その一つ一つは、致命的な失策には見えなかった。
だが九日も積み重なれば――。
軍は、軍ではなくなる。
その時だった。
遠くから、地鳴りのような音が聞こえてきた。
ムスチラフが顔を上げる。
ドドドドドドドド――。
最初は雷かと思った。
だが違う。
大地が震えている。
「……まさか」
丘の向こう。
地平線から、無数の騎馬が姿を現した。
さきほどまで逃げていたはずのモンゴリア軍だった。
だが今度は逃げていない。
隊列を整え。
槍を揃え。
一直線にこちらへ向かってくる。
ムスチラフの顔から血の気が引いた。
こちらは四万。
敵は二万。
兵数では、まだ圧倒的に勝っている。
だが――。
敵の二万は、軍だった。
こちらの四万は。
もはや軍ではなかった。
「全軍、戦闘態勢!」
ムスチラフは叫んだ。
「隊列を組め! 騎兵を戻せ!」
伝令が駆け出す。
だが遅い。
「大公! 右翼騎兵が戻りません!」
「中央軍の一部がまだ体制が……」
「後続部隊がまだ到着しておりません!」
次々と飛び込んでくる報告を聞きながら、
ムスチラフは剣を抜いた。
後悔している暇などなかった。
九日間かけて仕掛けられた罠は、
すでに閉じようとしていた。
そして――。
カルカン河畔の戦いが始まった。
「さあ狩りの始まりだ」
スブタイは笑った
ムスチラフもまた、幾多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦の将だった。
崩れかけた軍を前にしても、判断は早かった。
「ユーリー!」
「はっ!」
「先頭の兵を集め、第一軍とし、貴官が統率せよ!」
「ダニール!」
「ここに!」
「第二軍を任せる。散っている兵を呼び戻せ!」
そして自ら、後続の兵をまとめて第三軍を編成した。
完全な立て直しなど不可能だった。
それでも、わずかな時間で三つの軍団を作り上げる。
第一軍、ユーリー。
第二軍、ダニール。
第三軍、ムスチラフ。
三軍は縦に並び、カルカン川を前面の防御にして陣を敷いた。
追撃によって伸びきった軍を、一度に横へ広げることはできない。
ならば三段にする。
第一軍が敵を受け止める。
崩れれば第二軍が支える。
その後ろに自らの第三軍を置く。
ムスチラフは馬上から陣形を見渡した。
完璧ではない。
だが、戦える。
「来るなら来い」
ムスチラフは剣の柄に手を置いた。
「そう簡単にはやらせんぞ」
その頃。
対岸の丘からそれを眺めていたスブタイは、わずかに目を細めた。
「……早いな」
ジュベが隣で笑う。
「さすが大公というところか?」
「ああ」
スブタイは素直に認めた。
「いい将だ」
九日間追い回され、軍紀は乱れ、部隊は散り散りになっている。
普通なら、立て直すだけでも半日はかかる。
それを短時間で三軍にまとめた。
「だから――」
スブタイは静かに言った。
「先に一つ、崩す」
手を上げる。
「軽騎兵を出せ」
号令とともに、数百のモンゴリア軽装騎兵が駆け出した。
カルカン川へ突っ込む。
水飛沫が上がった。
ユーリーは目を疑った。
「渡ってくるぞ!」
敵騎兵はほとんど速度を落とさない。
浅瀬を駆け抜け、そのままこちらへ迫ってきた。
「弓兵、構え!」
矢が飛ぶ。
だがモンゴリア騎兵は左右へ散りながら矢を放ち返した。
短い交戦。
互いに数人が馬から落ちる。
そして――。
「退け!」
モンゴリア騎兵が突然、馬首を返した。
「逃げるぞ!」
再び川へ飛び込み、そのまま対岸へ戻っていく。
ユーリーは追わなかった。
最初は。
だが同じことが、もう一度起きた。
モンゴリア騎兵が川を渡る。
攻撃する。
そして退く。
さらに三度目。
また渡ってきた。
また退いた。
そのたびに、ユーリーの目の前で敵騎兵は難なく川を往復した。
川は深くない。
流れも、それほど速くない。
馬ならば簡単に渡れる。
そして何より――。
敵は逃げている。
九日間、ずっと見てきた光景だった。
「……臆病者どもめ」
ユーリーの横で、一人の騎兵将が吐き捨てた。
ユーリーも同じことを考えていた。
目の前では、モンゴリア騎兵がこちらに背を向けて川へ入っている。
今なら追いつける。
川の中では速度が落ちる。
背後から叩けば、一気に潰せる。
「騎兵隊!」
ユーリーが叫んだ。
「追うぞ!」
部下が一瞬ためらった。
「しかし大公からは、陣を崩すなと――」
「見ろ!」
ユーリーは川を指した。
「奴らは三度も渡っている!」
その通りだった。
敵にできて、自分たちにできない理由などない。
「今なら背後を取れる!」
剣を抜く。
「第一軍、前進!」
歓声が上がった。
九日間逃げ続けた敵を、ようやく捕まえられる。
ユーリー軍が一斉に動き出す。
先頭の騎兵が川へ飛び込んだ。
続いて歩兵。
さらに後続の兵が殺到する。
対岸へ逃げるモンゴリア兵の背中が、すぐそこに見えていた。
そして。
その光景を遠くから見ていた第2軍ダニールの顔色が変わった。
「……待て」
何かがおかしい。
敵は逃げている。
だが――。
綺麗すぎる。
「ユーリーを止めろ!」
ダニールが叫んだ。
「川を渡らせるな!」
伝令が駆け出す。
しかし、もう遅かった。
第一軍の半数以上が川へ入っている。
そして対岸。
逃げていた軽装騎兵が、左右へ大きく割れ始めた。
その奥から。
整然と並んだモンゴリア騎兵の大軍が姿を現した。
スブタイは静かに手を下ろした。
「かかった」
コメント
1件
うわあ、読んでて息が止まりました……! 九日間かけてじわじわと軍を“壊す”スブタイの策が、本当に冷徹で美しくて。ムスチラフが気づいた時にはもう手遅れな感じ、将としての判断力の速さは見事だったけど、ユーリーがつい追ってしまう心理もすごく分かって、苦しかったです。「かかった」のラスト、痺れました。