その日仕事を終えた瑠璃子は病院前の大通りにあるバス停に並んでいた。
時折冷たい風が吹いてきて身体を冷やす。真っ暗な通り沿いに規則正しく並ぶ外灯には柔らかな黄色い光が灯っている。
瑠璃子はコートの襟元を手で塞いで寒さをしのぎながら本格的な冬の到来を感じていた。
バスに乗ると瑠璃子は一人掛けの椅子に座る。そして携帯を取り出すと家に帰るまで待てずに小説サイトにログインし『promessa』のページを開く。
『promessa』のプロフィール写真を拡大してもう一度よく見てみた。
そこに写っている物は今日大輔の机にあった物と同じだった。
中でもカレンダーの一致はかなり重要だ。なぜならそのカレンダーはこの病院に出入りしている製薬会社が病院関係者に個別に配る物なので誰でも入手出来る物ではない。つまりそれが一致しているという事は二人が同一人物である証拠になる。
今日一日悩んだ末、瑠璃子が大輔の小説の読者である事、そして『promessa』と大輔が同一人物なのを瑠璃子が知っている事は大輔には話さない事にした。
もし打ち明けたら大輔は小説を書くのをやめてしまうかもしれない。瑠璃子は『promessa』の純粋なファンなのでそれだけはどうしても避けたかった。
また大輔にとっても小説を書く事は忙しい毎日の息抜きになっているかもしれない。その大切な時間を瑠璃子が奪う権利はない。
だからこのまま何も告げずに知らないふりをしていようと心に決めた。
(それにしてもまさか本当に岸本先生が『promessa』だったなんて……)
あの日羽田空港のカフェで大輔とぶつかり、飛行機内で人命救助をし、そして今は同じ病院で働いている。瑠璃子はそこに運命の不思議を感じていた。
もしかしたら瑠璃子が岩見沢に強く惹かれた理由はこれだったのかもしれない……なんとなくそんな風に思えた。
翌朝起きるとまた雪が降っていた。昨日よりもさらに10センチほど積もっている。冷え込みは一層厳しくいよいよ本格的な冬へ突入したようだ。
この日も朝一番で大輔からメールが来た。しかし今日は昨日とは少し内容が違う。
今日は瑠璃子の車を瑠璃子自らが運転して病院へ行ってみようと提案してきたのだ。大輔は早速雪道の指導をしてくれるようだ。
途端に瑠璃子は焦る。
「えーっ、いきなりなんて無理よーっ」
心の準備が出来ていない瑠璃子は思わず叫ぶ。
しかし毎朝大輔の車に乗せてもらうのも申し訳ないし、かといって毎朝バスで行くのも面倒だ。
だったら早めに雪道を運転出来るようになった方がいいのかもしれない。そう思った瑠璃子は覚悟を決めて大輔の提案を受け入れる事にした。
瑠璃子は今日も大輔の弁当を作った。今日は運転の指導までしてもらうのだから昨日よりも手の込んだものを作る。
ご飯は焚き込みご飯にしておかずは竜田揚げに玉子焼き、それにほうれん草の胡麻和えを作る。隙間にはブロッコリーやプチトマトを散らして彩りを加えた。
そして時間になると瑠璃子はマンションの外へ出た。瑠璃子が外に出た時ちょうど大輔の車が到着した。
大輔はマンションの来客用スペースへ車を停めてから言った。
「おはよう。心の準備は出来てる?」
「おはようございます。緊張で手に汗が……とりあえず頑張ります」
自信がなさそうな瑠璃子の声に大輔が笑った。その笑顔を見ながら瑠璃子は思う。
大輔は出会った頃よりも随分笑うようになった。少なくとも瑠璃子と二人きりの時にはよく笑顔を見せてくれる。
笑った顔の大輔を改めて観察すると醤油顔の素敵なイケメンだ。瑠璃子はその笑顔にドキッとする。
しかし大輔はそんな瑠璃子に気付く様子もなくスノーブラシで瑠璃子の車の雪を払い落としていた。
そして二人は車に乗り込んだ。いよいよ瑠璃子の初雪道運転だ。
「スタートはゆっくりとね。アクセルを急に強く踏み込まないで、強く踏み込むと空回りして滑るから」
瑠璃子が言われた通りゆっくりとアクセルを踏み込むと車は静かに走り始めた。
「交差点で停まる時は急ブレーキは駄目だよ。スリップするからね」
車はしばらくの間問題なく進んで行った。今日は交通量も少ないので道も空いている。
その時少し先の信号が赤に変わりそうだったので大輔はゆっくりブレーキを踏むよう指示を出した。
瑠璃子は優しくブレーキを踏んだつもりだったがつい力が入り強めに踏み込んでしまう。すると車は急にスリップして斜めに進んで行き停止線を大幅に超え左側のガードレールにぶつかりそうになった。
その瞬間瑠璃子は「キャーッ」と声を上げる。
大輔がすかさず助手席からハンドルを操作し、車はなんとか衝突を免れた。
瑠璃子のハンドルを握る手は震えていた。東京生まれの瑠璃子にとって滑る雪道は恐怖でしかない。
大輔は横からハザードランプのボタンを押すと言った。
「運転を代わろう」
車を出た大輔が運転席側へ来たので瑠璃子が助手席へ移動し大輔が運転席に座る。
その時ちょうど信号が青に変わったので大輔はアクセルを踏み込む。すると車はいつものように安定して走り始めた。
「うーん、いきなりは無理だったかなぁ。恐怖心が出たら運転は無理しない方がいい。これからは毎朝迎えに行くから一緒に行こう。シフトがずれる日だけは申し訳ないけどバスを使ってもらえるかな?」
「でもさすがに毎日寄っていただくのは申し訳ないです」
「通り道だから問題ないよ。それに事故を起こしたら大変だからね。病院のベッドに空きはないし看護師が一人減っても困る」
大輔は笑いながら言った。
「本当にすみません」
「気にしなくていいよ」
車が病院へ着くと大輔がもう一度瑠璃子に言った。
「大丈夫? 怖い思いをしたので今日は仕事にならなかったりして?」
「先生、もう私死にそうです」
瑠璃子がぐったりした表情で言ったので大輔はまた声を出して笑った。思わず釣られて瑠璃子も笑う。
そこで瑠璃子は昨日と同じように弁当を大輔に差し出す。
「え? 今日も作ってくれたの?」
「はい。運転の指導もしてもらったので」
「ハハッ、あまり役に立たなかったけどね。でもありがとう、嬉しいよ。ちなみに昨日の凄く美味しかったよ」
褒められた瑠璃子は嬉しくなる。
「本日のお弁当は炊き込みご飯と竜田揚げがメインです」
「炊き込みご飯好きなんだ。ありがとう」
「これから毎朝乗せていただくなら、お礼にお弁当を作らせて下さい」
「いや……それは有難いけれど面倒だろうから申し訳ないよ」
「どうせ自分のを作るので面倒なんかじゃないです」
「本当に? じゃあお言葉に甘えようかな」
「承知しましたっ!」
瑠璃子は元気に答える。
そこでハッとした。
「ところで先生! 今日私の車はどうしたらいいのでしょう? 私乗って帰れません」
「車のキーを貸してくれたら僕がマンションまで乗って行くよ。キーはポストに入れておくから部屋番号を教えて」
「305です」
瑠璃子は車のキーを渡した。
「帰りは多分遅くなるから君は寝てていいからね」
「すみません、ありがとうございます」
瑠璃子は恐縮しながらペコリと頭を下げた。
それから二人は車を降りて病院へ向かった。
その時別の入口から二人を見つめている女性がいた。
女性は大輔がピンクの車から降りて来て瑠璃子と仲良さそうに病院へ入って行く姿をじっと見つめていた。
そして少し苛立ったような表情でくるりと踵を返すとカツカツとヒールの音を響かせて薬剤部へ入って行った。
そんな事には全く気付かずに瑠璃子はロッカールームへ入る。
着替えを始めると同僚の一人が瑠璃子に言った。
「見たわよー、デスラーと仲良くご出勤! なんだかいいわねぇー」
「ほんとほんと! そう言えば最近デスラーってなんだか人間味が増してきた気がしない? 以前よりも柔らかくなったっていうか話しやすいっていうか?」
「うんうん、するする。それは多分瑠璃ちゃんがデスラーを人間に戻したのよ」
同僚達はからかうように瑠璃子に言った。
それを聞いた瑠璃子は慌てて否定する。
「仲良く出勤なんかじゃないんです。あれは雪道運転の練習だったの」
そこで瑠璃子は先ほどの事故を起こしそうになった場面を皆に話した。
「キャー、大丈夫だったの?」
「気をつけなさいよ! 雪の降り始めは滑って危ないんだから」
そこで大輔にマイカー通勤を禁止された事を伝えると皆は一様にホッとしたようだ。
まるで家族のように心配をしてくれる同僚達の優しさに、瑠璃子は嬉しくて胸がいっぱいになった。
コメント
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瑠璃子ちゃんの言わないっていうのが ステキ✨😍大輔先生の自由を尊重してるし、もしかしたら瑠璃子ちゃんに対してのLoveメッセージが見れるものね❤気持ちを呟いてくれるから~知るのにイイわ(*´艸`*)❤ ナースと薬剤師は仲悪いのが多い💦し、ヒール👠を院内で履いてるならば仕事しないヤツやね。✋😅 🎶ロクなもんじゃねぇ~♬.*゚(長渕剛(笑)) ま、大輔先生は見向きもせんだろうけどね。
言わない選択… なるほど〜 瑠璃ちゃん流石です〜✨✨
雪道の運転は怖いよね💦 瑠璃子ちゃん、事故にならなくて良かっよ😱 大輔先生に想いを寄せている女性がいたんだね。 瑠璃子ちゃんと一緒に出勤して来たのが面白くないようだけれど、嫌がらせとかされないと良いなぁと思う。