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奏の勤め先である湯川製薬は国内でも五本の指に入るトップクラスの大手企業である。奏はそこで新薬の開発に関わっており、彼女の両親もここに勤めている。四月の頭からは、昨年度に大学を卒業したばかりの弟・椿原圭までもがこの会社への就職を決め、一家揃って同じ会社勤めをする身となった。
同じ家に住んでおり、じゃあみんなで仲良くご出勤かというと、残念ながらそこは今まで通りにバラバラだ。『研究がいいところなの』と言っては会社に泊まったり、『切りのいい所まではやりたい』と前日にかなり遅くまで残業をして、翌日は遅めに出勤したりするからである。
「おはようございます」
正面入口から社内へと入った途端、奏は男性に声をかけられた。
斜め後ろからの声だった為、相手が誰だかわからず、訝しげな顔になる。弟の圭ならば、もう少し後に出勤するはずなので彼ではない。社員数の多い会社だし、奏の部署は結果重視で出勤時間は大雑把な設定なので、同僚とロビーで会う可能性は極めて低い。しかも、わざわざ出勤したてで声をかけてくる元気なタイプの者もいないので、そのような表情になってしまうのも無理はなかった。
「朝から可愛いね、義兄さん」
「…………」
少しだけ相手の顔を見て、奏はやっと声の主が近々義弟となる陽であるとわかった。出来るだけ、訝しげな顔から普段の顔になるように努める。 だがしかし、圭とは違って奏は表情の乏しいタイプである為、残念ながら、どちらもそう大差はなかった。
「……おはようございます。昨日は弟の為に、わざわざ貴重な御時間を作ってくださり、ありがとうございました」
きちんと振り返り、肩にかけてある鞄が落ちないよう手で掴みながら、奏が丁寧に頭を下げる。すると陽は少し困った顔をして、奏の肩にぽんっと手を置いた。
「いずれ私は、奏義兄さんの義弟になるんだから、もっと普通に話して欲しいな」
キラキラとした笑顔でもっともな事を言われて『まぁ確かに』とは思うも、『いや、やはりそれは出来ない』と頭の中で奏が必死に首を横に振る。
確かに彼はいずれ義弟になるかもしれない相手でも、ここは職場だ。そして彼はこの会社の最高責任者にもっとも近い立場でもあり、むしろ彼が社長ではないかと思われてしまう程、実権を握っている存在だ。
陽にその気は無くても、実質的には社長同然の存在である相手に普通に話すなど、とてもじゃないが恐れ多い。
それ以前に、奏はそもそも敬語っぽい言葉遣いがデフォルト側の人間なので、『これ以上どうしろと?』とも思った。
「……それは、要努力という事でいいですか?」
「うん、もちろんだよ。私の為にありがとう。あぁ……『私の為』かぁ……ふふふ」
爽やかな笑顔を向けられたのに、不思議と奏の背中にザワッと寒気が走る。
言葉の奥に眠る『真意』を読み解くのが苦手な彼女だが、多少は陽が何を思っての発言だったのか伝わったみたいだ。
「これから仕事だから、ここではあまり長く話せないよね」
会社というのはその為の場所であり、今さっき出勤して来たのだから当たり前ではないか、と近くを通った人達が無言でそっとツッコミを入れる。
でも奏は「そうですね、すみません」と素直に謝った。
「だから、義兄さん、私と一緒にお昼ご飯食べない?」
「お昼を、ですか」
どうしよう?と一瞬迷うも、捨てられそうな子犬のような視線がビシビシと奏に突き刺さり、『断る』という選択肢を完全に抹消しようとしてくる。
直属ではないとはいえ、陽は奏にとって上の立場でもある為、愛想笑いを作るまでには至らなかったが、奏は『これも仕事だ』と考えて「わかりました」と返事をした。
その途端、陽が、その名に相応しい明るい笑顔になり、奏の胸の奥がちょっとだけくすぐられた。
(名前の通りの人だ。自分とは大違いだな)
そう思った事で奏の口元が少し緩み、それを目敏く見付けた陽の笑顔の輝きが一層増した。
「待ち合わせはここでいいかな?——じゃあ、お昼にね」
#溺愛
桜咲かな
974
桜咲かな
645
#百合
「あ、はい」
ざっくりと約束して、陽は笑顔を撒き散らしながら去って行く。
その笑顔に当てられた女性社員が多数胸を押さえて尊さにやられていたのだが、『明るい人が義弟になるみたいで良かった』くらいに思った奏には効果が薄かったのだった。
いくつかのセキュリティーを通過し、早めに職場へ来た奏だったが、もう既に研究室内はバタバタと同僚達で賑わっていた。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
「検査結果まとめておく作業いつまでに終わりそう?」
「今日中にはやっておきます」
「わかった、ありがとう。あ、宮本さん治験の方なんだけど——」
私服の上に白衣を着用した奏も、挨拶をそこそこに席へと座った。
時間的にはまだまだ基本的な就業開始時間ではないし、結果さえ出せば自由なタイミングで出勤しても問題ないのに、もうチームメンバーの全員が揃っている。
『お前らどんだけ仕事好きなんだよ』
と別の部署に指摘される事もあるほど、ここのメンツは研究人間ばかりだ。もちろん、奏も含めて。
「椿原さん、おはよう」
「おはようございます」
「そっちは試験結果とかまとめるのいつになりそう?」
「自分も今日中には」
「りょうかーい。んじゃお願いね」
二、三言ほど軽く状況を確認し、パソコンを起動して早速作業を始める。
弟の結婚相手に会う為に休みを取ってはいたが、結局その後、どうしても気になって職場に戻って来て試験をした結果を殴り書きしたメモと出力したデータを元にせっせとまとめ始めた。
——二時間、三時間……と時間が淡々と過ぎていく。 そういえば空腹だなと感じ、奏が顔を上げ、時計を見てサーッと血の気が引いた。
室内の壁掛け時計の針が、既にもう午後三時を指していたからだ。
(オカシイ……前に時計を見た時は、まだ十一時だったのに。だからまだ作業が出来ると思って、再度取り掛かったのに何故もうこんな時間に?)
「……お、お昼」
ボソッと奏が呟くと、隣に座って同じくデータの入力作業をしていた同僚の佐々木が「あ、昼飯?いいよ、行っておいでよ」と言いながら時計を見て、
「うお!いつの間にこんな時間に⁉︎」
と慌てだした。 どうやら彼も無心でデータと睨めっこしていたらしく、その間にこんな時間になっていたとは全く思っていなかったみたいだ。
「佐々木さんはいいんですか?お腹、空いてますよね?」
「あ、俺はいいのー。コレ食べるし。腹一杯になると眠くなるタイプだから、まともには夜飯しか食べないんだ……って、まさか知らんかった?」
そう言って、佐々木が白衣のポケットから固形の栄養補助食品を取り出し、奏の方へ団扇のように振ってみせた。
二人が同じ研究室になってから、かれこれ一年程経っている。それなのに、奏がその事に気が付いてすらいなかった事に少し驚き、切なくもあった。
「す、すみません」
固い表情で謝られ、佐々木が「あ、ごめんごめん。深い意味は無いんだ。事実を確認したかっただけで」と言い、まぁまぁと言いたげな仕草をする。
責める気は全く無かったので、むしろそう勘違いさせる発言をしてしまった事を彼は申し訳なく思った。
「まぁ、ってな訳だから行っておいでよ。今なら絶対にどこも混んでないだろうから、むしろラッキーなんじゃない?」
「そのかわり、ランチセットは終わってますけどね」
「あ、確かにな」
そんなやり取りをしてお互いに微笑み合った。
でも奏の方は内心、『遅刻どころの話じゃ無い……』と冷や汗をダラダラとかいている。
待ち合わせの約束をした相手は、立場的には『秘書』とはいえ、仕事をしない代表取締役の代わりに全てを仕切っているので、実質『社長』みたいな存在だ。
そんな相手を三時間近く待たせたままでいるかもしれないと思うと、今すぐにでも走って確認しに行きたい気持ちでいっぱいだ。
しかも、よりによって相手は、あの陽である。
(絶対に、待ってる……!)
だが奏は表情の乏しいタイプである為、雑談を始めた佐々木には一切気が付いてもらえていない。
そのせいで、彼女がロビーへ向かうことが出来たのは、更に十五分も後になったのだった。
コメント
1件
わあ、第7話読みました!お昼ご飯の約束、楽しみにしてたのに……奏さん、研究に没頭しすぎて3時間も遅刻しちゃうなんて(笑)。でも、そういうところがもう完全に「研究人間」で、キャラが立ってますよね。陽さんの「私の為に」って含み笑い、ゾクッとしました。あの意味深な感じ、絶対待ってそうですよね……次どうなるんだろう、気になります!