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掠れた低い声に、わたしは固まってしまった。
たしかにこの体勢は、覆い被さろうとしているように見えるけど…!
「わぁああ!ち、ちがうんですこれはっ…!」
弾けるようにソファから離れた。
「ジャ、ジャ、ジャケットがしわになるといけないと思って…!」
「ふぅんそうなの?でも今の方がしわになりそうだけど」
「あ」
いけない。ついジャケットを手元でぐしゃぐしゃに…!
課長はニコと王子様スマイルを浮かべた。
「ありがと。でも、可愛い女の子のキスでお目覚めってのも、悪くなかったな」
キ…キス…!
こういう時、気の利いた切り返しができれば大人な女なんだろうけど…もう「キス」という単語を聞いただけでわたしの頭はショート寸前。
けど、課長は別にわたしの返事なんか期待していないように、うーんとのびをして立ち上がった。
「ま、悪かったよ。ちょっと休憩と思って目を閉じたら、いつの間にか寝入っちゃったみたいだ」
「お、お疲れなんですね」
「そうでもないけど、ただこう生活リズムがずれるとなんだかねぇ」
生活リズム?
時差呆けじゃないのかな?
「ところで」
ジャケットを羽織ってデスクに腰を落とすと、課長はいたずらめいた表情を浮かべてわたしを見た。
「おどろいたでしょ?今朝は」
「え…あ…」
「キミの顔サイコ―だったな。噴き出さずにいれたのが奇跡だったよ」
「ひ、ひどいですよ!どうして昨晩は教えてくれなかったんですか」
「だってまだ公に発表になってなかったからね」
ううーやっぱりね…って、この課長のしてやったりな顔を見ると、絶対に面白がって言わなかっただけでしょ?って気もしてくる。
「まぁそんな怖い顔しないでほしいな。ミステリアスでおもしろかったでしょ?魔法とか妖精とか、キミはそういうカワイイことが好きみたいだから。でも、昨晩のことは内緒にしてくれていたみたいでうれしいよ」
「…一応、約束ですから」
課長はうれしそうに表情をほころばせた。けれど急に元に戻して、まっすぐにわたしを見つめた。
「その調子で、これからも内緒にし続けてほしいんだけどな」
「それはもちろんかまいませんけど…でも、どうしてですか?時差ボケくらい、誰だってあることでしょうに」
「え?」
課長はきょとんとした表情を浮かべた。
「ふふ…っあ、ははは…!」
かと思うと急に笑い出した。
「やっぱりキミ、サイコ―だな」
「え、え?わたしなにかおかしなこと言いました?」
「いや…ふぅん、なるほど、時差ボケね…。そっか、そっか。俺もそう言ってごまかせばよかったんだな」
ごまかす…?
「でもま、後の祭りだ。…やっぱいいかな、キミになら」
ひとりごちるように言いながら、課長は目尻の涙をふいている。
どういう意味だろう?
「わたしになら?」って?
課長は怪訝に思っているわたしに近づくと、のぞきこむように見てきた。
「まさかとは思うけど、この再確認のためだけに呼びだしたとは思ってないよね?」
「え?ちがうんですか…?」
ふふふと課長はまた楽しげに笑った。
「こんなことを頼むためだけに、わざわざ呼び出したりなんかしないよ。大事な回答がまだだったから、さ」
不安が芽生えてきておそるおそる見上げると、課長は意味深な微笑を浮かべた。
「昨晩の答え、まだ聞いてなかったよね。キミの手料理をごちそうしてくれる?って話」
「え…っ、それは…てっきりからかってると…」
わたしを困らせて楽しんでいるだけかと思ったんだけど…。
「からかう?そんなわけないでしょ?俺はすっごい本気だったよ」
まっすぐに見つめられて、顔が熱くなるのを感じながら、わたしはしどろもどろに返した。
「作れるといっても、ほんとにたいしたものではないんです…。家庭料理程度でお洒落なバーやレストランで出されるものなんてそんな…」
「そんなもの求めていないよ。俺が食べたいのは、その家庭料理だから。よし、じゃあこれからついてきてほしい場所があるんだけど」
「え…?どこですか?」
「俺のオフィス」
「オフィスって…オフィスはここじゃ…」
戸惑うわたしをよそに、課長は部屋の奥へと進んだ。なにをするのかと目を凝らすと、奥にはもうひとつドアがついているのが見えた。
…非常口かなにかかな。
課長がポケットから出したカードキーをかざすとセンサーが鳴った。
押し開けると、課長がぴしゃりと強い調子で言ってきた。
「早くおいで」
拒否なんかできない口調に、わたしは仕方がなく足を進ませる。
課長が開いたドアの奥は、来た道よりもさらに真っ暗で、まるで白壁の中にぽっかりと空いた穴のようだった。
「怖くないよ。さ、行くよ」
「あっ…」
手を握られて強く引かれた。
不安に胸をいっぱいにさせて、わたしは課長の後をついて、暗闇の中へ進んだ。
夢だと思っていた不思議な出会いには、まだまだ続きがありそうだった…。