すぐにあの家に帰りたくなくて、晴子は少し遠回りをして帰った。
新しい花器も欲しくなり、雑貨屋に寄って陶磁器で出来たアンティークな花瓶も買ってきた。
背が低いブラウンカラーの花瓶だから、ピンク色の花にも合うし、大きさも少し小ぶりな花束にもちょうどいい。
別に城咲にもらったこの花束のために買ったわけじゃないが。
花束とカポック。そして花瓶を両手に抱えた足は軽やかで、晴子はエントランスで危うくターンを決めそうになった。
「んん」
誰も見ていないのに小さな咳払いをしてからエレベーターのボタンを押す。
すぐに開いた扉に乗り込み箱が動き出すと、両手に持っていた荷物が途端に重く感じた。
バレエも幼い頃、手足が長いというだけの理由で母親に強制的に連れていかれて始めたが、月数万にも及ぶ衣装代を捻出できなかったことと、晴子自身が飽きてしまったことで、すぐにやめてしまった。
しかし大人になった今、もし悠仁が言うように本当にボディラインが崩れてきているとすれば、また趣味の範囲内で初めてもいいのかもしれない。
そうすれば、
悠仁は、あんな疲れた顔を自分に向けなくなるだろうか。
婚約者がいるくせに手を握り花まで送ってくる城咲は、どんな反応を示すだろうか。
そして、最近めっぽう家に寄り付かなくなった輝馬は、
自分を女と意識してくれるだろうか。
「あ」
口から漏れた声があまりに年を感じさせて、晴子は取り繕うようにもう一度「んんっ!」と咳払いをした。
ピンク色の撫子の花言葉。
まだ調べてなかった。
ピンク色のカーネーションの花言葉ならわかる。
「感謝」「温かい心」。
幼い輝馬がなけなしのお小遣いで買ってきてくれたそれを、花カードと共に長い間飾っていたからよく覚えている。
紫音がくれた赤いカーネーションの花言葉は覚えてないが。
そう思いながら晴子は鼻で笑うと、扉の開いたエレベーターを降りた。
「あ」
そこには制服姿の凌空が立っていた。
「……お帰り」
凌空は驚いた様子で言った。
「あなた、またどこかに出かけるの?」
眉間に皺を寄せると、
「違うって。帰ってきたんだよ。今」
凌空はそう言いながら口の端を引くつかせた。
「帰ってきたって……」
晴子はエレベーターを振り返った。
このマンションにエレベーターは一つしかない。
その箱は今、他でもない晴子自身が乗ってきた。
晴子より一周早いエレベーターで上がってきたなら、どうして今、晴子の目の前にいるのだろう。
「電話がさ」
晴子の困惑を悟ったのか、凌空が苦笑いをした。
「電話がかかってきて、ちょっとここで話してた」
そう言いながら手の中のスマートフォンを振って見せる。
「あー、腹減った。夕飯、肉にしてね」
そう言いながら凌空は踵を返すと、猫背でだるそうに部屋のドアを開けた。
「…………」
晴子は凌空が目をこすりながら部屋の鍵を開けて入るのを、ただじっと見つめていた。
幼い頃、彼がくれた白色のカーネーションの花言葉も思い出せないことに、晴子は今度こそ笑えなかった。
◇◇◇◇
いつもは早々に部屋に入ってく凌空だが、なぜかダイニングチェアに座り、足を組んでスマートフォンをいじりだした。
――怪しい……。
これは母の予感といえばいいのか、それとも女の勘とい呼ぶべきなのか。
イスに座りゲームをしているのか「うわ、くそ」とか「あー、もうちょっとだったのに!」などと悪態をついている。
聞かれたくない電話。
驚いた顔。
言い訳がましい口。
母親にやましいことでもあるのだろうか。
別に凌空がどんな仲間と付き合おうが、どんな彼女ができようが、自分には興味も関係もないのだが。
「ただいまー」
紫音の声に壁時計を見上げる。
18時。
今日もデートの予定はないらしい。
「おかえり」
息を吐くついでにそう言ってやると、それでも紫音は満足したようにダイニングに入っていった。
そしてテーブルになにやら重そうなものをでんと置いた。
「じゃじゃーん!」
袋を開ける。
そこには高価そうなガラスケースに入った、黒いバラが輝いていた。
「なにそれ。すご」
凌空が立ち上がりながらのぞき込む。
「ブリザードフラワーだって」
得意気に花を鳴らす紫音。
だってということは、誰かにもらったのだろうか。
「プリザーブドでしょ。凍らせてどうする。Preserved、つまり、保存されたって意味ね」
凌空が笑いながら頬杖をつく。
晴子は横目でそれを見つめた。
自分は、花本来の色彩が好きなので、塗料を花弁に流し込んだ人口の花は嫌いだ。
だが質の良し悪しはわかる。
薔薇の一本刺し。
形や大きさからみて、かなり高級なものだろう。しかし、
(どうして黒……?)
不吉にしか感じない。
「んで?これどうしたの」
「お隣さんがくれたんだ」
その言葉に体が硬直した。
城咲が紫音にこんな高価なものをーー?
晴子は包丁を持ったまま紫音を見下ろし口を開いた。
「それって、高価なものなの?」
「え」
紫音が口を開けた横で、「ちょい待ち。ええとね……」凌空がスマートフォンで調べ始める。
「こんくらいかな!11000円!」
そう言いながら確かにテーブルの上にある花と同じ大きさくらいの薔薇を見せてくる。
11000円。
城咲が勝ってくれたカポックはせいぜい4000円。小さな花束は3000円だとして、7000円にしかならない。
それなのに紫音には11000円相当のプレゼントを渡したというのだろうか。
「…………」
晴子は包丁を置き、キッチンから回り込んだ。
そしてガラスドームを持ち上げた。
重い。
ただのガラスケースじゃない。
ちゃんとクリスタルを使っているケースだ。
花弁の形も美しい。
相当高級な代物だ。
「――なんで、くれたの?」
図らずも声が低くなる。
「ああ、それはね、城咲さんって私の学校のそばのホームセンターの花屋さんで働いているんだけど、それを知らずに画材を買いに行って、そこで偶然出会って、これただのサンプルだからあげるって」
何でもない話をしているはずなのに、紫音の口調がどんどん早くなる。
何を焦っているのだろう。
それそれ以外の何かがあるのだろうか。
それともまさか、
それ以上の何かがあるのだろうか。
「へえ」
沈黙が続く女2人の間で、凌空が気の抜けた声を出した。
「サンプルっつってもさ、こんな高価なものをくれるなんて、お隣さんって姉貴に気があるんじゃないの?」
ぐっと息が詰まる。
城咲が触れた手が、城咲が見つめた瞳が、城咲が微笑んでくれた顔が、表面からチリチリ燃えていくような熱を覚える。
「そ、そんなわけないじゃん!」
凌空を見下ろしながら慌てて否定する紫音を、晴子は横目で睨み落とした。
「だって、婚約者もいるのに!」
そうじゃない。
「私なんて、10歳くらいも年下なのに!」
そうじゃないのよ。
そうじゃなくて、あなたは、
手にしたクリスタルが割れそうなほど力が入る。
「冗談だよ。本気にしてだっさ。着替えてこよっと」
凌空が立ち上がる。
「ねえ」
紫音が何事もなかったかのように凌空と会話を始めた。
「あんたの首元のそれってもしかして……」
「返してきなさい」
晴子は紫音の言葉を遮り、冷たく言い放った。
「なんで?嫌だよ、せっかくもらったのに」
キッチンに回った晴子に、紫音が一丁前に口ごたえしてくる。
「いいから。そんな高価なものもらったら、こっちだって何かお礼しなきゃいけなくなるでしょ」
自分のことを棚に上げて、とは思わなかった。
美人な自分へのプレゼントは城咲の好意。
ブスな紫音へのプレゼントは城咲の厚意。
そこには歴然とした差がある。
「よく知りもしない男性からそんな高価なものをずうずうしくもらってきたりなんかして、恥を知りなさい!あなたもう20歳でしょ?」
言っているうちにどんどん怒りが込み上げてきた。
自分が20歳のときなんて、とっくに将来を見据えていた。
自分が20歳のときなんて、とっくに輝馬を身ごもっていた。
自分が20歳のときなんて、とっくにーーー。
「図々しくもらったわけじゃないもん。1回は遠慮したけど試作品だからいいって城咲さんが!」
汚らわしい。
お前が馴れ馴れしく、城咲の名前を口にするな……!
「城咲さん、城咲さんって、あなたは城咲さんの何なのよ!」
「お隣さんだよ!」
「ぷっ」
ずっと傍らで聞いていた凌空が両手で口を押える。
本当にどいつもこいつも。
輝馬以外は一人も可愛くない。
「私は絶対に返しに行かない!そんなに嫌ならママが自分で返しに行ってよね!」
紫音がキッチンカウンターに手をつく。
「ーーーー」
この子はいつからこんな目で自分を睨むようになったのだろう。
いつから母親の言うことを聞かなくなり、いつから他人を優先するようになったのだろう。
育ててもらった恩も忘れて……。
(あなたも……)
絶対に口にしてはいけない言葉が、唇のすぐ内側までせり上がってくる。
「なんだ、騒々しい」
振り返るとそこには、普段はこんな時間に帰宅しないはずの健彦が立っていた。
「あなた!見てくださいよ。紫音がこんな高価なものをお隣からただでもらってきたっていうんですよ?」
晴子はここぞとばかり健彦に縋った。
紫音は黙って晴子と父親を睨んでいる。
いつも父親のことを蔑ろにしている彼女と健彦の関係性は悪い。勝負あったも同然だ。
それを察したのか、楽しそうに観戦していた凌空も椅子から立ち上がろうとしたそのとき、
「せっかくご厚意でいただいたものをつき返すなんて失礼だろ!」
「―――――」
晴子は目を見開いた。
今まで自分に対して一度も怒ったことがないーー否、怒る権利のないはずの夫が、自分に罵声を浴びせた。
「これから長く付き合っていくご近所さんとの間に、こんなことで亀裂が入ってどうするんだ!」
(ご近所さん……ですって?)
マンションの集まりには自分が必ず出た。
保育園の保護者会だって、学校のPTAだって、集まりという集まりに出席し、周囲の人達と人間関係を保ってきたのは自分だ。
それなのに、朝に偶然会ったら挨拶を交わす程度しかしていない健彦に、近所付き合いのことでとやかく言われるいわれはない。
プルルルルルルル。
そのとき、ダイニングの沈黙を破ったのは、凌空のスマートフォンだった。
「おっと。電話電話―」
凌空がちょっとおどけながらスマートフォンを片手に自室に入っていく。
「……まったく」
健彦はそう言い残すと、洗面所の方に歩いて行ってしまった。
晴子は紫音を一瞥した後、ニンジンとピーラーを手にした。
しつけ直さなければならない。
紫音のことではない。
あの男のことだ。
色と欲望におぼれ、
妻子ある身でありながらそれを隠し、
若い女と不倫をしていた、あの男を、だ。
健彦が浴びているシャワーの音がキッチンまで漏れてくる。
晴子はその音をかき消すようにニンジンに包丁をトンと突き刺した。
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