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第2話 不可視の伝染
朝の街は、まだ昨日の雨を抱えていた。
歩道の端に水たまりが残り、ビルの窓には薄い雲が映っている。
久世ミナトは、駅前の大型ビジョンを見上げていた。
そこには、昨夜の自分の顔が何度も流れていた。
K宣告を受けた男。
信用を守る活動家。
次の対象者。
逃げるのか。
守れるのか。
言葉は勝手に増える。
ミナトが話していないことまで、もう誰かの意見になっていた。
隣で、綾瀬レイナがスマホを見ていた。
短い茶色の髪が、朝の湿気で少し跳ねている。
丸い眼鏡の奥の目は、眠気より怒りの方が強かった。
緑のジャケットの袖をまくり、爪先で地面を小さく叩いている。
「ひどいね」
「うん」
「昨日の三分配信、もう百種類くらいに切られてる」
「僕が言ってないことも、言ったことになってる?」
「かなり」
ミナトは小さく息を吐いた。
吐いた息が、胸のあたりで引っかかった。
一日目からこれだ。
まだ、何も起きていない。
何も見つかっていない。
何も証明されていない。
それでも世界は、すでに物語を作り始めている。
ミナトのスマホが震えた。
知らない番号ではなかった。
小森リサ。
筒井晴彦の秘書だった。
ミナトは、画面を見てから通話を押した。
「久世です」
向こう側で、紙がこすれる音がした。
「小森です。今、大丈夫ですか」
声は落ち着いていた。
けれど、その落ち着きが作られたものだと分かるくらい、息が浅かった。
「大丈夫です。何かありましたか」
「筒井が、宣告されました」
駅前の音が、一瞬だけ遠くなった。
レイナがミナトの顔を見た。
「今ですか」
「はい。十分前です」
「配信は」
「もう保存しました。会社にも問い合わせが来ています」
ミナトは目を閉じた。
ボスは早い。
ミナト自身に宣告した翌朝、別の対象者を出した。
自分だけを守っている暇はない。
そう言われているようだった。
「内容は」
小森は少し黙った。
「筒井晴彦さんに[K]を持たせます。それだけです」
「理由は」
「ありません」
「会社の状況は」
「社員がざわついています。取引先から確認の電話が来ました。あと、昨日の会議欠席の件が広がっています」
「会議欠席?」
「はい」
小森の声が、そこで少し揺れた。
「昨日、筒井は午後の定例会議を欠席しました。理由は体調不良です。ただ、それだけです」
ただ、それだけ。
ミナトは、その言葉の重さを知っていた。
Kは、派手な事件より、小さな穴を好む。
誰かが理由を知らない。
誰かが少し遅れる。
誰かが黙る。
誰かが部屋を出る。
そこに、人々は想像を流し込む。
やがて、何もなかった場所に、何かがあるように見えてくる。
「すぐ行きます」
「お願いします」
通話が切れた。
レイナはスマホをしまった。
「社長?」
「筒井晴彦。医療支援アプリを作ってる会社の代表」
「知ってる。最近よくテレビに出てた」
「誠実な人だよ」
「その言い方、危ないよ」
ミナトはレイナを見た。
レイナは眉を寄せていた。
「誠実そうな人、ならいい。でも、誠実な人だよって決めると、裏切られた時に折れる」
ミナトはうなずいた。
「そうだね」
「疑うの?」
「確認する」
「それでいい」
二人は駅へ向かった。
改札を抜ける前に、ミナトは自分の行動記録を更新した。
何時何分、駅前。
小森リサから連絡。
筒井晴彦の会社へ向かう。
記録するたびに、自分が人間ではなく、証拠の束になっていくような気がした。
けれど、記録しなければならない。
K宣告を受けた後の生活は、ただ生きるだけでは足りない。
生きていることを、何度も示さなければならない。
電車の窓に、ミナトの顔が映った。
疲れた目。
少し乱れた茶色の髪。
伸びたパーカーの袖。
その隣に、レイナの横顔が映る。
レイナはスマホで情報を追っていた。
「もう出てる」
「何が」
「筒井社長、昨日の会議を欠席。K宣告前から異変か、だって」
「早い」
「違う。待ってたんでしょ」
ミナトは何も言わなかった。
昨日、自分が言った言葉だ。
みんな、待っている。
誰かが落ちる理由を。
電車が揺れた。
吊り革が小さく鳴る。
向かいの席に座っていた女性が、ミナトを見て、すぐに目をそらした。
そして、スマホを見る。
その指が止まる。
もう、顔を知られている。
ミナトは視線を窓へ戻した。
Kは、見えない。
だからこそ、どこにでもある。
筒井の会社は、駅から歩いて五分の場所にあった。
入口のガラス扉の前には、記者が数人集まっていた。
マイク。
カメラ。
スマホを構えた一般の人。
その中に、ただ騒ぎたいだけの人も混じっている。
ミナトが近づくと、ざわめきが起きた。
「あ、久世だ」
「本人?」
「宣告されたのに動いてる」
「筒井と関係あるのか」
レイナが前に出た。
「通してください」
「久世さん、今のお気持ちは」
「筒井社長は本当に無実なんですか」
「Kはもう持ってるんですか」
レイナの爪先が、強く床を叩いた。
ミナトは立ち止まった。
逃げると、逃げたと言われる。
怒ると、焦っていると言われる。
笑うと、反省していないと言われる。
表情一つが、Kになる。
「確認中です」
ミナトは短く言った。
「確認が終わるまで、断定しません」
「信じてないんですか」
記者の一人が言った。
ミナトは、その記者を見た。
若い男性だった。
髪をきれいに整え、灰色のコートを着ている。
目はまっすぐだったが、声には答えを急ぐ響きがあった。
「信じるために、確認します」
それだけ言って、ミナトは中へ入った。
受付の女性は、顔がこわばっていた。
社員証を下げた人々が、遠巻きにこちらを見ている。
会社の中は静かだった。
静かすぎた。
仕事中の静けさではない。
誰も余計な音を立てないようにしている静けさだった。
小森リサが奥から歩いてきた。
ベージュのブラウスに、細身のパンツ。
髪を肩の高さでまとめている。
目元に疲れがあったが、姿勢は崩れていなかった。
「久世さん、綾瀬さん。こちらです」
案内された会議室には、筒井晴彦がいた。
背が高く、薄茶のスーツを着ている。
髪はきっちり整えているのに、顔だけが少し遅れて疲れているようだった。
目の下に濃い影があり、指先がテーブルの端を何度もなぞっている。
「来てくれて、ありがとうございます」
筒井は立ち上がり、頭を下げた。
ミナトは、その角度を見た。
深すぎる。
すでに謝っている人の角度だった。
「まず、座ってください」
筒井はうなずいて座った。
レイナは部屋の隅を確認し、窓、扉、机の上を見た。
「録音していいですか」
小森が言った。
「こちらも記録します」
「もちろん」
ミナトもスマホを出した。
「僕たちも記録します。後で共有しましょう」
筒井が、かすかに笑った。
「まるで取り調べですね」
「そうならないためです」
ミナトは椅子に座った。
「昨日の会議欠席について、最初から教えてください」
筒井は指を組んだ。
「昨日、午後三時から定例会議がありました。私は出席予定でした」
「欠席理由は」
「頭痛です」
「病院には」
「行っていません。少し休めば戻れると思っていました」
「誰に伝えましたか」
「小森に」
小森がうなずく。
「午後二時四十二分です。社内チャットに記録があります」
「その後は」
「筒井は休憩室にいました。午後四時半ごろ、私が様子を見に行きました」
レイナが聞いた。
「誰か他に見た人は?」
小森は少し考えた。
「清掃スタッフが廊下を通ったはずです」
筒井の指が止まった。
「たったそれだけなんです」
彼は、苦く笑った。
「会議を欠席した。それだけで、何か隠していると言われている」
ミナトは答えなかった。
筒井は続けた。
「私は、会社のことを公開してきたつもりです。経営状況も、開発の進み具合も、失敗も。できるだけ話してきた」
「はい」
「それでも、足りないんですね」
ミナトはテーブルの上の水を見た。
未開封のペットボトルだった。
誰も手をつけていない。
この部屋の全員が、何かを警戒していた。
「足りないんじゃありません」
ミナトは言った。
「K宣告の後は、事実の量ではなく、不安の量が勝つんです」
筒井は顔を上げた。
「では、どうすれば」
「公開します」
「何を」
「出せるものを、全部です」
小森がわずかに眉を動かした。
「全部、ですか」
「はい。昨日の予定。欠席連絡。休憩室にいた記録。社内チャット。会議の議事録。会議で決まったこと。欠席しても問題がなかった理由。体調不良の説明。今日の対応方針」
レイナが補足した。
「ただし、社員の個人情報は守る。取引先に迷惑がかかる部分は伏せる。公開する理由も書く」
筒井は両手を見た。
「それで、疑いは晴れますか」
ミナトは、正直に答えた。
「晴れません」
筒井の顔が、少し歪んだ。
「でも、疑いが育つ速度は落とせます」
「それだけですか」
「今は、それが大事です」
会議室の外で、誰かの足音が止まった。
社員が聞いているのかもしれない。
ミナトは声を落とさなかった。
「無実を証明しようとすると、人は相手の疑いに合わせて動くことになります」
筒井は黙って聞いていた。
「でも、透明性で対抗するなら、自分の生活と仕事を守りながら動けます」
「透明性」
「隠していないと見せることです。でも、裸になることではありません」
小森が、その言葉に反応した。
「守る部分は守る」
「はい」
「公開すればするほど、また別の疑いが出ませんか」
「出ます」
「では」
「出た疑いを、さらに記録します」
ミナトはノートを開いた。
「Kは、消そうとすると広がります。だから、広がり方を見る。どこで生まれ、誰が強め、何が足されたのか」
レイナがスマホを差し出した。
「今、一番伸びてる投稿」
画面には、短い文章があった。
筒井社長、K宣告前日に謎の会議欠席。
なぜ欠席したのか。
その会議では何が話される予定だったのか。
筒井は唇をかんだ。
「謎ではない」
「でも、知らない人には謎です」
レイナは冷たく言った。
「そして、謎は売れる」
小森が深く息を吐いた。
「広報を呼びます」
「お願いします」
動き出すと、会社の静けさは少し形を変えた。
社員が集められた。
広報担当が資料を出した。
昨日の会議の議題が確認された。
欠席連絡の時刻が整理された。
休憩室の利用記録が確認された。
筒井は何度も同じ説明をした。
昨日、頭痛があった。
会議の内容は、開発中アプリの画面改善について。
重要な決定はなかった。
代理で担当役員が出席した。
議事録も残っている。
欠席は社内チャットに記録されている。
ただ、それだけ。
本当に、ただそれだけだった。
けれど、ただそれだけを信じてもらうには、山のような記録が必要だった。
昼前、会社は公式発表を出した。
昨日の会議欠席に関する説明。
当日の時系列。
議事録の一部。
社内連絡の記録。
今後の対応。
K宣告を受けた社員や関係者への嫌がらせを控えるよう求める文。
筒井は動画にも出た。
薄茶のスーツの襟を直し、カメラの前に立つ。
背は高い。
声も、最初は落ち着いていた。
「本日、私はK宣告を受けました」
社員たちが、別室で見守っている。
「昨日の会議欠席について、さまざまな憶測が広がっています。事実をお伝えします」
筒井は、用意された原稿を読んだ。
途中で、一度だけ目線が下がった。
ミナトは、その瞬間が切り抜かれると思った。
案の定、動画公開から十五分後には、その部分だけが広がった。
目をそらした。
やっぱり何かある。
原稿を読まされている。
顔が固い。
声が震えている。
レイナがスマホを机に置いた。
「出た」
小森は画面を見て、肩を落とした。
「全部出したのに」
「全部出したから、次は表情を見られる」
ミナトは言った。
筒井は椅子に座ったまま、両手を握りしめていた。
「私は、どう話せばよかったんですか」
「どう話しても、何か言われます」
「では、意味がない」
「あります」
ミナトはすぐに言った。
筒井が顔を上げる。
「意味がなかったら、今ここで黙っている方がずっと簡単です」
会議室に沈黙が落ちた。
ミナトは続けた。
「透明性は、人々を全員納得させるためじゃありません」
「では、何のためですか」
「あなたの周りにいる人が、あなたを信じる理由を持てるようにするためです」
小森の目が揺れた。
レイナは静かに腕を組んだ。
「世界中の全員を相手にしたら負けます。でも、社員、家族、取引先。近い人が踏みとどまれる材料にはなる」
筒井は、ゆっくりと息を吸った。
「近い人」
「はい」
「私は、遠くの人ばかり気にしていました」
筒井は会議室の外を見た。
ガラス越しに、社員たちの姿が見える。
誰もこちらをまっすぐ見ていない。
でも、完全に離れてもいなかった。
それが今の距離だった。
午後二時。
社内説明会が開かれた。
社員は大きな会議室に集まった。
筒井は前に立った。
小森が横に控え、ミナトとレイナは後ろの壁際にいた。
筒井はマイクを持ったが、少し迷ってから置いた。
自分の声で話すことにしたのだ。
「迷惑をかけています」
その一言で、何人かが顔を上げた。
「昨日の会議を欠席した理由は、先ほど公開した通りです。頭痛でした。大きな理由はありません」
会議室は静かだった。
「K宣告を受けたことについて、私にも分からないことばかりです。怖くないと言えば嘘になります」
筒井の指先が震えていた。
その震えを、彼は隠さなかった。
「ただ、私は会社を止めたくありません。皆さんの生活まで、私一人の宣告で揺らしたくありません」
社員の一人が、手を挙げた。
若い男性だった。
黄緑のシャツに灰色のカーディガン。
表情は硬いが、声は震えていた。
「社長を信じたいです。でも、家族に言われました。この会社にいて大丈夫なのかって」
筒井は、その社員を見た。
いつもの社長なら、安心させる言葉を選んだだろう。
大丈夫だ。
問題ない。
心配しなくていい。
けれど、今の筒井は違った。
「不安にさせてすみません」
社員の目が揺れた。
「大丈夫だと、私が一言で言っても、今は足りないと思います。だから、会社として確認できる情報を出します。疑問があれば聞いてください。答えられることは答えます。答えられないことは、なぜ答えられないかを伝えます」
別の社員が手を挙げた。
「退職した方がいいですか」
空気が固まった。
小森が一歩動きかけた。
筒井は、それを手で制した。
「それは、私が決めることではありません」
声が少しだけ低くなった。
「でも、K宣告だけを理由に、あなたの人生を急いで変えないでほしいです。考える時間を会社として作ります」
社員は下を向いた。
ミナトは後ろで、そのやり取りを見ていた。
これが透明性だ。
疑いを消す魔法ではない。
人が逃げ出す前に、立ち止まる場所を作ること。
それでも、外の世界は待ってくれなかった。
説明会の途中で、別の噂が広がり始めた。
筒井社長の会社、社員に口止めか。
社内説明会は洗脳では。
公開資料に不自然な塗りつぶし。
塗りつぶし。
ミナトはその言葉で、スマホを確認した。
公開資料の一部、社員名と取引先名を伏せた部分が問題にされていた。
人々は、守るための伏せ字を、隠すための伏せ字として見始めていた。
レイナが小さく言った。
「来たね」
「うん」
「次、どうする」
ミナトは答えられなかった。
透明にしようとすればするほど、人々は見えない部分を探す。
見えない部分がある限り、想像は育つ。
でも、全てをさらせば、誰かの生活が壊れる。
どちらを選んでも、Kは残る。
説明会が終わった後、筒井は疲れた顔で椅子に座った。
「久世さん」
「はい」
「私は、社員名を出すべきですか」
小森がすぐに言った。
「駄目です」
筒井は小森を見た。
「でも、隠していると言われている」
「社員を守るためです」
「そのせいで、会社全体が疑われる」
小森の唇が震えた。
「それでもです」
ミナトは、二人の間にあるものを見ていた。
透明性は、簡単な正義ではない。
誰かを守るために見せない部分がある。
けれど、見せない部分は疑いになる。
この矛盾の中で、人は立っていなければならない。
「出さないでください」
ミナトは言った。
筒井がこちらを見る。
「社員名は出さない。取引先名も出さない。その代わり、第三者に確認してもらう」
「第三者」
「弁護士、外部監査、記録確認をする人。公開できない部分を、信頼できる別の目で確認してもらう」
レイナがうなずいた。
「全部を世界に見せる必要はない。世界は責任を取らないから」
小森が、初めて少しだけ力を抜いた。
「手配します」
筒井は静かにうなずいた。
その時、会議室のモニターが勝手に切り替わった。
誰も触っていない。
画面が暗くなる。
数字が表示された。
十。
九。
八。
レイナが立ち上がる。
「まさか」
七。
六。
五。
小森がリモコンを探す。
四。
三。
二。
一。
画面に、ボスが現れた。
顔の見えない輪郭。
加工された声。
感情のない座り方。
筒井の顔から血の気が引いた。
ボスは言った。
「本日の追加観察を始めます」
会議室の外でも悲鳴が上がった。
社内の端末にも、同じ配信が流れているのだ。
「筒井晴彦さんは、透明性を選びました」
コメント欄が画面の端を流れる。
公開したぞ
でも怪しい
伏せ字だらけ
守ってるふり
ボスは続けた。
「では、問いましょう」
一拍。
「見せない部分がある人を、あなたは信じられますか?」
会議室が凍った。
筒井は立ち上がりかけ、また座った。
ミナトは画面を見つめた。
この問いは、筒井だけに向けられていない。
社員へ。
視聴者へ。
世界へ。
そして、ミナトへ。
ボスの声が、静かに刺さる。
「透明とは、どこまでを言うのでしょう」
コメントは加速した。
全部見せろ
見せられないなら怪しい
社員名を出せ
取引先を出せ
守るとか言い訳
小森が震える声で言った。
「切ります」
「切らないで」
ミナトが止めた。
「でも」
「今切ったら、逃げたことになる」
「見せ続けるんですか」
「はい」
ミナトは、社員たちが集まる外へ出た。
廊下のモニターにもボスが映っている。
社員たちは立ち尽くしていた。
怖がっている人。
怒っている人。
スマホで撮っている人。
泣きそうな人。
ミナトは、近くの会議机に置かれていたマイクを手に取った。
社内放送につながっているか、小森が急いで確認する。
小森がうなずいた。
ミナトは息を吸った。
「久世ミナトです」
社員たちがこちらを見た。
ボスの配信は続いている。
「今、ボスは見せない部分がある人を信じられるかと聞きました」
ミナトの声は、社内に流れた。
「答えます」
レイナが廊下の端でスマホを構える。
記録のためだ。
「信じられます」
ざわめきが起きた。
「人には、見せない部分があります。守らなければならない人もいます。見せないことが、全部悪いわけではありません」
ボスの配信画面の中で、コメントが荒れ始める。
「大事なのは、見せない理由を説明することです。確認する仕組みを作ることです。そして、見えない部分を想像で埋めないことです」
ミナトは、筒井を見た。
筒井は立っていた。
震える手を、もう隠していなかった。
「筒井さん」
ミナトはマイクを向けた。
筒井は一瞬だけ迷った。
それから、歩いてきた。
薄茶のスーツの背中は、少し曲がっていた。
けれど、足は止まらなかった。
筒井はマイクを受け取った。
「社員名は出しません」
その声に、ざわめきが重なる。
「取引先名も出しません」
小森が目を閉じた。
「それは、隠すためではなく、守るためです。確認が必要な情報は、外部の専門家に預けます。私一人の判断にはしません」
筒井は一度、言葉を切った。
「疑問がある人は、会社に聞いてください。私に聞いてください。でも、社員個人を追いかけないでください」
マイクを持つ手が震えている。
それでも、声は続いた。
「私がK宣告を受けました。社員が受けたわけではありません」
その言葉で、廊下にいた何人かが顔を上げた。
小森の目に、涙が浮かんだ。
ボスの配信は、何も言わなかった。
ただ、コメントだけが流れている。
かっこつけてる
でも社員守ったな
まだ怪しい
これでいいのか
全部出せよ
いや出さなくていい
流れが割れ始めていた。
完全な勝ちではない。
けれど、一方向ではなくなった。
ミナトは、それを見た。
Kは、人々の想像で育つ。
ならば、その想像が一方向へ流れないようにする。
疑いだけで満たされないようにする。
小さな杭を打つ。
流れを止められなくても、少し曲げる。
それが今日の戦いだった。
夕方。
会社の外に出ると、記者たちはまだいた。
だが、朝とは少し空気が違った。
怒りだけではない。
好奇心だけでもない。
迷いが混じっていた。
ミナトは、それを見逃さなかった。
迷いは弱さではない。
断定を止める、最初の隙間だ。
レイナが隣に立った。
「今日は、勝ち?」
「分からない」
「またそれ」
「でも、壊れなかった」
レイナは少し笑った。
「それなら今日は十分か」
ミナトのスマホが震えた。
筒井からのメッセージだった。
社員が数人、残ると言ってくれました。
短い文だった。
ミナトは、それをしばらく見つめた。
世界中の疑いより、近くにいる数人の踏みとどまり。
今日は、それでいい。
そう思おうとした。
その時、別の通知が鳴った。
匿名のアカウントからだった。
次は、あなたの透明性を見せてください。
添付されていたのは、ミナトの過去の投稿だった。
まだKという言葉が広がる前。
一人の被害者を助けようとして、怒りのままに書いた短い文章。
危険で、怖くて、正体が分からないもの。
それを、Kと呼ぶ。
ミナトの指が止まった。
レイナが画面をのぞき込む。
「これ……」
ミナトは答えなかった。
夕方の街の音が、急に遠くなる。
K。
その一文字が、画面の中で静かに光っていた。
誰が作った言葉なのか。
誰が広げたのか。
誰が最初に、持たせたのか。
ミナトはスマホを握りしめた。
透明性。
今日、彼はそう言った。
見せない理由を説明すること。
確認する仕組みを作ること。
見えない部分を想像で埋めないこと。
では、自分はどうなのか。
自分の過去を、どこまで見せられるのか。
レイナが静かに言った。
「ミナト」
「分かってる」
ミナトは画面を閉じた。
けれど、閉じたところで消えない。
Kは、そういうものだった。
見えないところで育つ。
忘れたふりをした場所から、芽を出す。
駅へ向かう道で、ビルの大型ビジョンがまた切り替わった。
ボスの配信ではない。
誰かが作った短い動画だった。
今日の筒井晴彦。
透明性で対抗。
しかし疑惑は残る。
最後に、赤い文字が出た。
K-2
レイナが顔をしかめた。
「また勝手なランク」
「うん」
「誰が決めてるの」
「誰も」
ミナトは歩きながら言った。
「だから怖い」
K-1。
K-2。
K-3。
そんな基準は存在しない。
けれど、人々は名前をつけたがる。
名前がつけば、分かった気になる。
分かった気になれば、裁ける気になる。
ミナトは足を止めた。
ビジョンの光が、濡れた地面に揺れていた。
レイナが隣で言った。
「明日、どうする」
ミナトはしばらく黙っていた。
「自分の記録を整理する」
「過去の?」
「うん」
「全部見るの?」
「見なきゃいけない」
レイナは何も言わなかった。
ただ、少しだけ近くに立った。
ミナトは、その距離に救われた。
近すぎない。
離れすぎない。
疑いの世界で、人が人のそばにいるには、それくらいの距離が必要なのかもしれない。
夜。
ミナトは自室に戻った。
机の上にノートを開く。
第2話。
社長。
不明瞭な会議欠席。
透明性。
人々は事実より想像を好む。
そこまで書いて、ペンが止まった。
次に、自分のことを書いた。
過去投稿。
Kという言葉。
自分が最初に使った可能性。
文字が少し歪んだ。
認めることは怖い。
でも、認めないことはもっと怖い。
スマホが震えた。
ボスの配信通知だった。
ミナトは画面を見た。
本日の観察結果
指先が冷えた。
配信を開く。
画面の中で、ボスが座っていた。
顔は見えない。
声も変えられている。
けれど、その沈黙が、少しずつ近く感じる。
ボスは言った。
「透明性は美しい」
ミナトは息を止めた。
「では、久世ミナトさん」
レイナから着信が来る。
ミナトは出なかった。
画面を見続けた。
「あなたは、どこまで自分を公開できますか?」
コメント欄が流れる。
見せろ
過去を出せ
信用を守る人ならできるよな
次はミナトだ
ボスは、最後に静かに言った。
「人は、自分の隠したものだけを、他人に持たせたがる」
配信は終わった。
部屋に、時計の音だけが残った。
ミナトはノートを見た。
そこには、自分の文字があった。
Kという言葉。
ミナトはペンを握った。
そして、新しい行に書いた。
透明性は、他人に求めた瞬間、自分にも返ってくる。
窓の外で、街の明かりが揺れていた。
K宣告二日目。
見えない伝染は、もう始まっていた。
コメント
1件
お疲れさまです、第2話拝読しました。 冒頭の駅前ビジョン、すでに“自分の顔が何度も流れている”って一文で、K宣告の重さが一気に伝わってきました。筒井社長の「たったそれだけなんです」という台詞が胸に刺さりますね。「会議を欠席した。それだけで」――本当に、ただそれだけなのに。 一番好きだったのは社内説明会の場面です。「不安にさせてすみません」と謝れる筒井さんの人間らしさ。そしてミナトが「近い人が踏みとどまれる材料」と言うところ――透明性を“勝つため”ではなく“踏みとどまるため”と定義したのが、とても誠実で響きました。 最後の自分の過去が返ってくるラストも、続きが気になります。今日は「壊れなかった」――それだけで十分な一日だったと思います。素敵な物語をありがとうございました🌷