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日下部は、あのやりとりのあともしばらく動けずにいた。遥の「慣れてる」という言葉が、何度も胸の内で反響する。
それは、突き放した言葉じゃなかった。
むしろ──
“救いようがないほどの、本気”だった。
(……慣れてるって、なんだよ)
拳がまた、じんわりと汗ばむ。
次の日、教室の空気は妙にざらついていた。
遥が席に着くと、すでに机にはペンで書かれた小さな文字があった。
──「みっともねぇ」
──「見せつけんじゃねぇよ」
──「日下部にまた媚びた?」
誰かの字じゃない。
そう思わせる程度に、雑で、曖昧で、けれど、はっきりと“伝わる”。
遥は何も言わなかった。
言葉を飲み込んで、ノートを開いた。
隣の席──日下部はまだ来ていない。
昼休み。
教室の後ろ、数人の男子が集まっている。
その中に、蓮司の姿があった。
「なあ、なんかさ……最近、あの二人、空気読めてなくない?」
「うわ、出た。蓮司の“正義感”」
「ちがうちがう。俺、別にどうでもいいのよ? ただ……やっぱそういうのって、ちょっとさ。空気壊すじゃん」
「空気……?」
「だってさ、遥が何されてんのか、アイツ見てて何も言わねーんだよ?」
「まぁ……確かに」
「見てるのに助けないの、いちばんズルくね?」
蓮司の口ぶりは、あくまで飄々としていた。
怒りも軽蔑もない。
ただ“誰でも思いつきそうなこと”を、そのまま口にしてるだけのような軽さで。
でも、その場の誰もが無意識に──「それを正論」として飲み込んでいた。
「やっぱさ、傍観者ってさ、共犯と一緒でしょ?」
ぽつりと、蓮司が付け加えたその一言が、
ジワジワと空気に染みこんでいく。
午後の授業。
日下部が教室に戻ってきたとき、
女子数人が、意味ありげに目配せしていた。
「ねぇ、日下部って、何も言わないけど……」
「見てるくせに、何も知らないふりしてんの、マジでムカつかない?」
「遥と仲良しごっこしたいだけじゃん」
「同情で近づくとか、いちばん下品」
声は小さく、直接的ではなかった。
でも、日下部の耳には確かに届いていた。
そして──
放課後。
下駄箱の前。
遥の靴が、片方だけ見当たらなかった。
もう片方の靴には、何かが詰められている。
小さく折られた紙。
その中央に──
「“あいつ”が見てる前でまた鳴け」
震える指で紙を広げた遥の手から、
それが静かに滑り落ちた。
背後から、誰かが肩をぶつけて通り過ぎた。
日下部だった。
「……なぁ」
声をかけようとして──やめた。
日下部の背中は、何も見ていないようにまっすぐだった。
遥はそれを見て、
ふっと笑った。
「……そういうことか」
その声は誰にも聞こえなかった。
“曖昧な線”は、そこでまたひとつ、
静かに、音もなく──裂けた。
※ 日下部は「どう声をかけるべきか、どう接するべきか」で立ち止まってしまっている、という描写です。
ただ、遥の側がそれを「自分が拒絶された」と解釈してしまう。
遥は常に「自分こそが原因で誰かを汚す/傷つける」という“核”を持っているため、日下部の“まっすぐな背中”さえも、自分を否定しているように感じ取ってしまった、という構造です。
蓮司の罠によって、「信じようとしていたもの」にまたひびが入る。
それがこの「静かに、音もなく──裂けた」の意味です。