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春が終わった。
新学期の緊張や慌ただしさも消えて、教室には“慣れ”が漂い始めていた。
昼下がりの窓からは、湿った風が入り込む。
梅雨の前触れのように空は曇りがちで、少しずつ制服の袖も暑く感じられるようになった。
だけど、ふたりの間に季節の移ろいはなかった。
春が終わっても、夏が近づいても、屋上だけは“止まったまま”だった。
まるで時間も、気温も、世間も――関係ないかのように。
「暑くなってきたね」
「うん。屋上に出るのもしんどくなるかもね」
「でも、やめたくない。ここだけは」
「うん、私も」
美咲は水筒を取り出して、ひと口飲んだあと、優羅に渡した。
ふたりで水を回す。唇が触れたかどうかなんて、もうどうでもよかった。
「ねえ、美咲」
「ん?」
「最近、少しだけ、怖い夢を見た」
「どんな?」
「美咲がいなくなる夢。私の前から急に消えて、どこを探してもいないの」
「……怖いね」
「怖かった。夢の中なのに、ちゃんと息ができなくなった」
美咲は目を伏せ、手を強く握った。
「私も、そういう夢、見たことある。優羅さんが、急に普通の子になって、私を忘れる夢」
「……そんなわけないのにね」
「うん、そんなわけないのに、涙が止まらなかった」
ふたりは目を合わせた。
ほんの数秒間。
けれど、それは“永遠”に近い時間だった。
その週末、美咲は久しぶりに母親と食卓を囲んだ。
「最近、あんた…顔色悪いんじゃない?」
「……そう?」
「学校の話、しなくなったし。進路のことも何も言わないし…もしかして、なにか悩んでる?」
“悩んでる”
その言葉に、美咲は思わず笑ってしまいそうになった。
「大丈夫だよ。いつも通りだし」
「……そう」
母親はそれ以上何も聞かなかった。
いつも通りだった。
聞かれないことに安堵しながら、どこかでまた、心の一部が死んでいく。
“話せるわけないじゃん。私の今の世界に、あなたはいない”
部屋に戻ってから、美咲は鏡の前で制服を脱いだ。
胸元から腕にかけて、傷跡がいくつもある。新しいもの、少し癒えかけたもの。
そのひとつひとつが、優羅との“しるし”だった。
「……もう戻れないね、私たち」
誰にともなく呟いて、薄いシャツをかぶった。
月曜日。
梅雨入り前の晴れ間。
屋上に並んで座るふたりの背中に、強い日差しが当たっていた。
「なんか、変だよね。世界はちゃんと夏に向かってるのに、私たちだけ置いていかれてるみたい」
「置いていかれてるんじゃなくて、私たちが置いてきたんじゃない?」
「……そうかもね」
ふたりは静かに目を閉じた。
セミの鳴き声も、体育の笛の音も、グラウンドの笑い声も、すべて遠くなっていく。
“この初夏は、誰のものでもない”
それは、ふたりだけの“失われた時間”。
誰にも見つからないまま、
誰にも知られないまま、
誰にも愛されないまま、
それでも確かに、“ふたりだけの世界”はここにあった。
それは、いつか必ず終わるものだと分かっていても――
今だけは、失わないように、そっと目を閉じた。
そして、ふたりは知らない。
この“止まった季節”が、もうすぐ
終わりを迎えようとしていることを。