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潮風に混じって、
血と汗の臭いが漂っていた。
城塞都市アッコム。
聖地奪回の要として知られるその港を、
連合軍は幾重にも取り囲んでいた。
だが――
「……静かすぎますな」
ガイロが低く呟く。
本来なら、
聖戦を掲げる大軍には熱気がある。
勝利への欲望と、
神への狂気が渦巻くものだ。
しかし、この包囲陣地にはそれがなかった。
兵たちは疲れ切り、
泥の中でぼんやり焚火を見つめている。
旗は風に垂れ、
酒臭い怒鳴り声だけが夜気に響いていた。
サイラスはゆっくりと周囲を見渡した。
「包囲軍の指揮官はギ―前国王ですね」
隣を歩くエスカミオへ、
静かに説明する。
「なるほど、道理で」
エスカミオは肩をすくめた。
「厭戦気分がみなぎってますな」
「勝てる戦の空気ではない」
ガイロも周囲を見回しながら、
吐き捨てるように言った。
連合軍は巨大だった。
だが巨大であることと、
統率されていることは別である。
各国の思惑。
諸侯同士の対立。
補給不足。
疫病。
そして何より、
“誰も勝利を確信していない”。
それが陣営全体を蝕んでいた。
サイラスは遠くに見える城壁へ目を向ける。
アッコムの城壁には、
なおアルー軍の旗が翻っていた。
幾度攻めても落ちない難攻不落の港。
「長引けば長引くほど、こちらが崩れます」
「兵は希望より先に、飢えますからな」
エスカミオが苦笑した。
その時、
伝令の騎士が駆け寄ってくる。
「グラツィア王国のサイラス殿ですね」
「レイナ女王陛下が到着を聞き及ばれました」
サイラスはわずかに目を細めた。
「レイナ女王も先日合流したらしいです」
「会われますか」
ガイロが尋ねる。
エスカミオは短く頷いた。
「そうしよう」
その声は静かだった。
レイナ女王の陣は、
連合軍の中でも異質だった。
無駄な装飾はなく、
兵は少ない。
だが、
張り詰めた空気だけは、
どの諸侯の陣営より鋭い。
赤銀の甲冑を外したレイナ女王は、
粗末な机の上に地図を広げると、
サイラスたちを見回した。
「連合軍は総大将たるバルバロッサ皇帝の到着待ちじゃ」
低く落ち着いた声。
「だが、この都市も、もう一年ほど囲んだまま動かぬ」
女王は呆れたように鼻を鳴らした。
「攻めても落ちぬ」
「かといって退けば、聖地奪回そのものが崩れる」
「ゆえに皆、ここで腐っておる」
サイラスは黙って耳を傾ける。
「続々と各国から騎士がこの包囲に加わってきておる」
「最終的には公称二十万――実質は八万ほどになるかの」
「いつの時代も、兵数とは見栄で膨らむものですな」
エスカミオが肩をすくめる。
レイナ女王は苦笑した。
「違いない」
サイラスは陣の外へ視線を向けた。
整然と並ぶ、
スパルーニャ騎兵。
数は千騎ほど。
どの兵も武具の手入れは完璧で、
馬も痩せていない。
だが――
(攻城戦では出番なしで、くすぶっておいでだな)
騎兵は野戦の華だ。
敵陣を裂き、
追撃し、
戦場を決める存在。
城壁相手では、
その力を発揮しづらい。
レイナ女王ほどの武人なら、
なおさら退屈だろうと、
サイラスは思った。
その時、
女王はふと思い出したように口を開く。
「知っておるか」
「実は近くにサラディンもおる」
ガイロが眉をひそめた。
「ほう……」
「だが、警戒をバルバロッサの軍へ向けておるようじゃ」
「まあ、どうも向こうも厭戦気分に満ちておるようでな」
天幕の中に、
わずかな静寂が落ちる。
サラディンもまた、
この消耗戦に付き合わされていた。
勝てぬ。
だが、
退けぬ。
それは連合軍も同じだった。
サイラスは地図へ目を落とした。
アッコム。
その背後。
内陸部。
補給線。
そして、
まだ姿を見せぬ皇帝軍。
ゆっくりと、
彼は口元を歪めた。
「……なるほど」
「つまり今、この戦場には」
「“決定打を打てる者”が誰もいないわけですね」
「ところでもう一つ、面白い話がある」
重苦しい空気を払うように、
レイナ女王は愉快そうに口を開いた。
「すぐそこのケプロス島――」
「つい先日、滅んだ」
「!」
ガイロが目を剥く。
「カルドのところのバカ息子がな」
「ここへ来る途中に、二つほどの国で暴れてきておる」
女王は呆れ半分、
面白がるように肩を揺らした。
「おおかた取り巻き連中に――」
そこで、
後ろに控えていたエレンが、
大げさな身振りで割って入る。
「おおっ、若は竜か獅子の生まれ変わりなのではぁ!」
「神に選ばれし英雄ぉ!」
わざと裏返った声で、
芝居がかった物真似を始めた。
「などと持ち上げられて育った」
「ただのバカ息子なんですよ、きっと」
ガイロが吹き出す。
エスカミオも口元を押さえて肩を震わせた。
「これ」
レイナ女王はたしなめるように言いながらも、
自分も笑いをこらえきれていない。
「まあ、退屈な陣中なのでな」
「今やどの陣営も、この話でもちきりじゃ」
“島を五日で落とした若獅子”。
噂だけが独り歩きし、
本人の姿を見た者はまだ少ない。
だが、
サイラスだけは笑わなかった。
「……ケプロス島」
その言葉に、
彼の視線がわずかに揺れる。
(偶然か……まさかね)
かつて北で、
戦場の空気そのものを変える男を見たことがある。
理屈を踏み越え、
人を熱狂させる存在。
もし、
カルド王の息子が、
それに近い類の人間だとしたら――
その時だった。
天幕の外から、
激しい足音が響く。
「大変です!」
「申し上げます!」
伝令兵が転がり込むように膝をついた。
「バルバロッサ皇帝が」
「ビザン国領内で崩御されました!」
場の空気が凍りつく。
「……何だと」
レイナ女王の目が細まる。
「水死だそうです!」
「皇帝軍は解散されたとのこと!」
誰も、
すぐには言葉を発せなかった。
つい先ほどまで、
連合軍最大の希望だった。
数万の精鋭。
欧州最強と謳われた皇帝軍。
それが、
戦う前に消えた。
「サイラス」
エスカミオが低く尋ねる。
「どうなるのだ」
サイラスはしばらく黙り込み、
やがて静かに答えた。
「神聖ロウム帝国皇帝は――」
「ロウム教皇の認可なくして即位できません」
「皇帝の軍もまた、個人の私兵ではない」
「ゆえに……」
彼は地図へ目を落とす。
そこに描かれていた巨大な軍勢は、
もう存在しない。
「皇帝軍を、誰かがそのまま引き継ぐことはできません」
「つまりどういうことだ!」
ガイロが叫ぶ。
サイラスは顔を上げた。
その瞳だけが、
異様なほど冷静だった。
「つまり――」
「連合軍の主力は、たった今」
「壊滅しました」
連合軍は、
戦う前から総大将を失った。
そして同時に、
最大の主力軍も消滅した。
数万の皇帝軍。
欧州最強とまで呼ばれた軍勢は、
剣を交えることなく歴史から姿を消したのである。
沈黙が天幕を支配していた。
誰もが理解していた。
この報は、
すでにサラディンの元へ届いているはずだと。
ならば、
動く。
包囲軍が混乱するであろう今。
士気が崩壊するであろう今。
砂漠の王は、
必ず動く。
「……なんじゃ」
重苦しい空気の中、
レイナ女王は椅子へ深く腰掛けた。
「戦う前から負けてしまったのう」
その声には、
皮肉と諦めが半分ずつ混じっていた。
エレンも空気を察したのか、
無言で荷をまとめ始める。
この戦は終わった。
誰もが、
そう思い始めていた。
だが――
「策がないわけではありません」
静かな声が、
場を切り裂いた。
レイナ女王が目を向ける。
サイラスだった。
彼は地図を見つめたまま、
穏やかな声で続ける。
「もうすぐ、サラディンに対抗できる英雄が来ますよ」
「……ほう?」
女王の目が細まる。
「来なければ――」
サイラスは、
ゆっくり顔を上げた。
その瞳には、
戦場を前にした軍師特有の光が宿っていた。
「作ってしまえばいい」
エスカミオが眉をひそめる。
「何を企んでおる」
サイラスは答えず、
懐から一通の手紙を取り出した。
カルド王から預かったものだった。
そこには、
粗雑で豪快な筆跡が並んでいる。
――うちのバカ息子をよろしく頼む。
サイラスは思わず苦笑した。
そして、
悪戯を思いついた少年のように、
口元を歪める。
「ケプロスへ参ります」
その瞬間、
レイナ女王だけは気づいた。
この男は今、
絶望しかけていた戦場を、
“盤面”として見始めていると。
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