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泡咲めろあ🫧🪄
843
りんご
904
墓地を吹き抜ける風は、冷たかった。
雲が月を隠している。
先ほどまで空に浮かんでいた巨大な瞳も、今は見えない。
月は、ただの月に戻っていた。
だが。
誰も口を開かなかった。
旅僧は振り返る。
無数の墓。
その間に立つ黒い影。
そして、白い衣を纏った人影。
人影は、何も言わず歩いていた。
「……本当に来るのですな」
旅僧が尋ねる。
「ああ」
短い返事。
「まだ終わっていない」
それだけだった。
名前を尋ねる者はいない。
尋ねる必要も、もうなかった。
佐衛門は先頭を歩いている。
刀を腰に。
肩の力を抜いて。
まるで、いつもの旅と変わらない。
ただ。
目だけが違った。
何かを探している。
山の向こう。
月の向こう。
そして。
自分自身の中にある、まだ見えない何かを。
その時だった。
ゴォォォォン――。
鐘が鳴った。
三人の足が止まる。
人影も。
お師さんも。
顔を上げた。
遠い。
だが、確かに聞こえる。
もう一度。
ゴォォォォン――。
人影が目を閉じた。
何かを数えるように。
「……あと十九」
旅僧が息を呑む。
「十九?」
「封印だ」
それ以上は言わなかった。
佐衛門は鐘のする方角を見る。
「また壊れたのか」
「ああ」
「誰かが?」
「そうだ」
人影は答えた。
「意図している」
佐衛門は刀の柄へ手を置いた。
「追うぞ」
旅僧が振り返る。
「追う?」
「ああ」
佐衛門は歩き出した。
「向こうから来ないなら」
一歩。
「こっちから行く」
人影が、ほんの僅かに笑った。
「……本当に変わらないな」
佐衛門が振り返る。
「何がだ」
「いや」
人影は首を振った。
「独り言だ」
旅僧は、その横顔を見ていた。
何かを知っている。
そう思った。
だが、尋ねなかった。
*
夜が更けても、三人は歩き続けた。
鐘は、時折聞こえた。
遠く。
近づいたと思えば、また遠ざかる。
そのたびに、佐衛門は足を止めずに方角だけを確かめた。
やがて月が西へ傾き始めた。
山の木々が黒く重なっている。
鐘はしばらく鳴らなかった。
旅僧が息を吐く。
「止みましたな」
「ああ」
お師さんが答えた。
「だが、止まったわけじゃない」
「どういうことです?」
「待ってる」
その言葉の意味を聞く前に。
ゴォォォォン――。
再び鳴った。
今度は、ずっと近かった。
佐衛門が顔を上げる。
「こっちだ」
夜明け前。
三人は山を下り始めた。
その途中。
佐衛門が足を止めた。
「どうしました?」
旅僧が尋ねる。
佐衛門は地面を見ていた。
泥。
轍。
それから、深く抉れた跡。
指先を添える。
「重いな」
「何がです?」
佐衛門は答えず、跡を辿るように目を向けた。
何かを引きずった跡だった。
道の先まで、真っ直ぐ続いている。
人影がしゃがみ込む。
土を指で撫でた。
「……鐘だ」
旅僧が顔を上げる。
「鐘?」
「ああ」
指先についた土を払う。
「かなり大きい」
お師さんが鼻を鳴らした。
しばらく黙ってから、
「死の匂いがする」
と言った。
冗談には聞こえなかった。
佐衛門は道の先を見る。
空が、僅かに白み始めている。
だが。
鐘の音は、まだ聞こえていた。
ゴォォォン――。
佐衛門は足元に落ちていた木片を拾った。
古い。
黒ずんでいる。
何かの札だったらしい。
残った文字は一つ。
――送。
人影の顔が変わった。
「まずいな」
「何がです」
返事まで、少し間があった。
「弔鐘だ」
風が止まる。
「死者を送る鐘」
人影は木片を見る。
「本来なら……鳴ってはいけない」
朝が近づいている。
それでも。
遠くで、また鐘が鳴った。
ゴォォォォン――。
誰かを送るように。
あるいは。
誰かを迎えるように。
*
夜が明けた。
山を下り切る頃には、朝の光が街道を照らしていた。
昼頃。
小さな茶屋が見えてきた。
街道沿いの、古びた店だった。
軒先に吊された暖簾が風に揺れている。
客はいない。
店主が一人、火鉢の前で茶を沸かしていた。
佐衛門たちが近づく。
「茶を頼む」
店主が顔を上げた。
湯呑を持つ手が止まった。
次の瞬間。
指から力が抜ける。
カラン。
湯呑が土間へ落ちた。
「……まさか」
店主の顔から血の気が引いていく。
「生きて……いたのか」
旅僧が佐衛門を見る。
佐衛門は首を傾げた。
「誰だ」
店主の唇が震える。
「覚えて……ないのか」
「知らん」
本当に知らないらしい。
店主は何かを言おうとした。
だが。
「言うな」
人影が遮った。
静かな声だった。
店主が凍りつく。
「しかし……」
「言うな」
今度は低かった。
店主は口を閉じた。
俯いたまま、拳を握る。
旅僧は二人を交互に見た。
知っている。
店主は佐衛門を知っている。
なのに。
佐衛門は知らない。
聞きたい。
だが。
聞けば何かが壊れる。
そんな気がした。
店主は震える手で、新しい湯呑を置いた。
「……どうぞ」
佐衛門は受け取った。
湯気が立つ。
一口飲む。
「うん」
それから、店主を見る。
「で」
店主が顔を上げた。
「鐘はどっちだ」
店主は目を見開いた。
やがて。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「……昔から」
小さく呟く。
「そういうところは、変わらないな」
佐衛門は聞こえなかったふりをしたのか。
本当に聞こえていなかったのか。
何も言わなかった。
店主は北を指差した。
「死人の村だ」
風が吹いた。
暖簾が大きく揺れる。
旅僧の手が止まった。
「死人の……村?」
「ああ」
店主は北を見たまま言った。
「昼でも、誰も近寄らん」
佐衛門は湯呑を置いた。
「そうか」
立ち上がる。
「なら、そこだな」
店主は何か言いたげだった。
結局、何も言わなかった。
佐衛門たちは茶屋を出る。
北へ向かって。
鐘の音は、まだ聞こえている。
ゴォォォォン――。
今度は近かった。
まるで。
死者のために鳴っているのではなく。
生きている者を。
呼んでいるように。
コメント
1件
ねえ、この第八話、重厚でいいですね。墓地の冷たさから始まって、「弔鐘」が鳴るたびに空気が変わっていく感じがすごく好きです。特に「死者を送る鐘」が「本来なら鳴ってはいけない」ってところ、ゾッとしました。佐衛門が刀の柄に手を置いて「向こうから来ないならこっちから行く」――この台詞のかっこよさ。それと茶屋の店主が「生きて…いたのか」って震えるシーン、伏線がじわりと効いてて。まだ完結してないなら、この先の展開が気になって仕方ないです。