テラーノベル
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赤い線が消えていた。
翌日の午後五時二十九分。 三〇七号室。 郵便受けの内側。
私はそこを見た。
線がなかった。
昨日、私が引いた赤い線。 まっすぐではなかった。少し震えていた。左端が濃く、右端が薄かった。私の指の震えまで含めて、あれは昨日の私と昨日の篠田さんを繋ぐ橋だった。
それが消えていた。
誰かが触れた。
誰かが、篠田さんに触れた。
管理人か。 郵便配達員か。 親戚か。 昨日電話していた相手か。 それとも篠田さん自身か。
篠田さん自身なら、もっと悪い。
自分で消したことになる。 自分で、昨日の篠田さんとの繋がりを切ったことになる。
私は廊下で立ち尽くした。
呼び鈴は押さなかった。 呼び鈴を押せば、篠田さんが出る。 篠田さんが出れば、私は尋ねる。 なぜ消したのですか、と。 すると篠田さんは困る。怖がる。怒る。もう来るなと言う。 そしてまた、私を昨日の人にする。
それはいけない。
私は救わなければならない。 怖がらせることと、救うことは違う。 違うはずだ。 違うと書いておく。
私は階段を降りた。
一階の集合ポストを見た。 三〇七。 郵便物はなかった。
ゴミ置き場へ行った。
正常な人間は、他人のゴミを見ない。 分かっている。 だが正常な人間は、他人を簡単に彼にする。 私は正常ではない。 だから見なければならない。
ゴミ袋は三つあった。 半透明の袋の中に、生活が詰まっていた。
弁当の容器。 折れた割り箸。 薬の空き袋。 新聞紙。 みかんの皮。
みかん。
私は息を止めた。
三つ分ではなかった。
皮は二つ分だった。 たぶん二つ。 いや、皮を数えるのは難しい。千切れている。重なっている。乾いている。 それでも、三つではない。
篠田さんは、みかんを一つ食べなかった。
なぜ。
食欲がないのか。 誰かに渡したのか。 腐らせたのか。 捨てたのか。 私が置いて帰った三つのうち、一つだけが、記録から外れた。
私は袋を開けた。
開けていない。
口が緩んでいた。 私は少し広げただけだ。 中を確認しただけだ。 確認は盗みではない。 記録のためだ。 救済のためだ。
薬の空き袋には名前があった。
篠田重吉。
私はそれを拾った。
薬袋は薄く、少し湿っていた。 篠田さんの手が触れたはずだった。 開ける時、指が震えたはずだった。 薬を飲む時、舌に苦味が残ったかもしれない。 水を飲んだか。お茶か。 ひとりで飲んだのか。
ひとりで。
私は薬袋を手帳に挟んだ。
これで少し戻る。
篠田さんは完全には消えない。
その時、背後で声がした。
「あんた、何してるの」
振り返ると、女が立っていた。
四十代くらい。 紺のエプロン。 右手にゴミ袋。 眉間に皺。 三〇五号室の女。 名前は知らない。
知らない。
しまった。
この女も、今この瞬間から消え始める。
「落とし物を」
私は言った。
女は私の手元を見た。
「それ、篠田さんのゴミじゃない」
篠田さん。
この女は知っている。
篠田さんを、知っている。
私は一歩近づいた。
「篠田さんを、どのくらい知っていますか」
「は?」
「いつから。何を。声は。若い頃の話は聞きましたか。奥さんの名前は知っていますか。みかんは三つでしたか」
女は後ずさった。
その顔を見て、私は失敗したと分かった。
まただ。 私はまた、救う相手を怖がらせている。
女は小走りで団地の中へ戻っていった。
私は薬袋を握ったまま、ゴミ置き場に立っていた。
夕方の空は薄く赤かった。 赤い線と同じ色ではなかった。 赤い線はもっと震えていた。 空は震えていなかった。
家に戻って、私は手帳に書いた。
赤い線、消失。 みかん、一つ欠落。 薬袋、回収。 三〇五号室の女、篠田重吉を「篠田さん」と呼称。 関係性、不明。 危険。
その下に、もう一行を書いた。
三〇五号室の女も、記録対象。
そこで私は初めて、自分の手帳が足りなくなるかもしれないと思った。
コメント
1件
読み終えました。第七話、すごく重くて、丁寧で、胸が苦しくなりました。 赤い線が消えていた——あの冒頭の一文で一気に引き込まれました。誰が触れたのか、篠田さん自身が消したのか。その可能性の一つ一つに「じゃあ私はどうなるんだ」という恐怖が滲んでいて、切なかったです。 特にゴミ置き場でみかんの皮を数えるシーン。「三つではない」と気づく瞬間の、息をのむ感じが鮮明に伝わってきました。普通ならしない行為だけど、この人にとっては“救い”の一部なんだな…と。 あと、三〇五号室の女に声をかけられたときの狼狽。せっかく集めた記録や繋がりが、また崩れるかもしれない——そんな震えが文章のリズムに乗っていて、ぞわっとしました。 有栖川さん、この不気味で優しい距離感、本当に天才的です。続きが気になって仕方ないです…!