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朝の光は、まるで何もなかったかのように穏やかだった。だが、遥の歩く速度は明らかに遅かった。シャツの襟元を少し引き上げ、指先で押さえるようにして歩くその仕草を、日下部はすぐに見逃さなかった。
「……おい、どうした」
声をかけた瞬間、遥はびくりと肩を跳ねさせた。
一瞬、振り向いた瞳の奥に、かすかな怯えが走る。
「……なんでもねぇよ」
そう言いながら、遥は笑おうとした。けれど、その笑みは、どこか形だけのものだった。
教室に入ると、朝のざわめきが遠く聞こえた。
日下部は机の間を抜け、遥の隣に腰を下ろす。
「昨日……お前、あれから家、帰ったよな」
問いかけながら、彼は視線を落とす。
襟の奥、シャツの隙間から覗いた皮膚に、紫色の痕が薄く滲んでいた。
「……その跡、どうした」
静かに尋ねたつもりだった。だが、遥は無言のままノートを開いた。
指先が震えている。
「颯馬か?」
言葉が漏れた瞬間、遥の目が鋭く動いた。
その動きだけで、日下部は確信した。
図星だった。
「違うって言ってんだろ」
遥は低く吐き捨て、ペンを握る手に力を込める。
筆圧が強すぎて、インクが紙を汚す。
「なあ、俺に隠すなよ」
「……隠してねぇ」
「なら、ちゃんと見せろよ」
日下部が手を伸ばそうとした瞬間、遥は椅子を引いて立ち上がった。
ガタン、と音が響く。教室の視線が一斉に二人に集まる。
遥は歯を食いしばりながら、日下部を睨んだ。
「やめろよ……頼むから」
声は震えていた。怒鳴り声ではない。
――懇願の声だった。
日下部は何も言えず、その場に立ち尽くした。
彼の胸の奥で、何かがゆっくりと軋む。
触れようとするたび、遥は逃げる。
守りたいと思えば思うほど、彼を傷つける結果になる。
放課後。
人気のない廊下を歩く遥の背中を、日下部はもう一度呼び止めた。
「……俺、もう見てらんねぇよ」
その言葉に、遥の足が止まる。
「見てらんねぇなら、見んなよ」
「違う、そうじゃねえだろ」
「じゃあ、どうしろってんだよ!」
振り返った遥の声が、ようやく本音をにじませた。
「どうすりゃ、お前が納得すんだよ。俺が泣いて、助けてくださいって言えば満足か? そんなの、できるわけねぇだろ」
日下部の手が、わずかに震えた。
怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ悔しさで。
「……颯馬に何されたか、言えないなら、せめて俺に嘘つくな」
「嘘じゃねぇよ。ただ、言っても意味ねぇだけ」
遥は視線を逸らした。
その瞳の奥には、痛みよりも深い“諦め”が沈んでいた。
沈黙の中、外の風が窓を叩いた。
白いカーテンがふわりと揺れる。
日下部は唇を噛み、ただ一言だけを落とした。
「……逃げんなよ」
遥は答えず、背を向けた。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、日下部は立ち尽くしていた。
窓の外では、夕陽が校舎を赤く染めていた。
その光の中で、彼の拳の中には、遥のシャツの小さな布切れが握られていた。
それは、彼が止めようとして掴んだときに、わずかに裂けたものだった。
薄い布の端に残る、うっすらとした紫の痕が、焼きつくように残っていた。