テラーノベル
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帝辛はすぐに声を整える。
「だが、止まらぬ」
まっすぐに、縫季を見る。
「祭祀を変えた。制度を変え始めた」
「十年後、二十年後に、この国がどう見えるか」
一拍。
「そなたに、見せたかった」
その声は静かだ。だから重い。
「見せられぬなら」
帝辛は、薄く笑った。王の笑みではない。もっと、素の顔に近い。
「せめて、信じていてくれ」
「どこにいても」
縫季は息を止める。止めても、胸が鳴る。
「そなたがいてくれたから、ここまで来られた」
帝辛の目が、わずかに細まる。記憶を撫でるみたいな瞳。
「清朗を失った時」
「孤独に、押し潰されそうになった時」
「そなたが、側にいてくれた」
「それだけで、十分だ」
(……十分じゃない)
胸の奥で、声が暴れる。俺はもっと、と思う。もっと、という言葉の中身が怖い。
「だから」
一拍。
「そなたが去る時、私は引き止めぬ」
帝辛は、また薄く笑った。その笑みは、慰めじゃない。許しでもない。決断の形だ。
縫季は碗を握る。指が少し痛い。その痛みだけが、いまの自分を繋いでくれる。
掌を確かめる。
冷たい。
去ると決めた。世界線から、自分を切ると決めた。
なのに。
この線は、まだ太いままだ。
(……分かっている)
いずれ細くなる。縫季がいなくなれば、帝辛の孤独が戻る。孤独が戻れば、黒闢が入れる。線は保存記録上の強い収束へ寄っていく。
縫季は、掌を握りしめた。
帝辛は立ち上がった。衣擦れの音が、短い。
「そろそろ、朝議の時間だ」
いつもの声。いつもの所作。何事もなかったように、扉へ向かう。
でも。扉の前で、一度だけ振り返った。
「縫季」
「……はい」
帝辛は静かに言う。
「そなたと茶を飲めて、良かった」
一拍。その一拍が、長い。
「最後に」
縫季の胸が、ひとつ沈む。沈んだまま、戻らない。
縫季は何も言えない。頷くことしかできない。
帝辛は扉を開ける。廊下の光が、室内へ流れ込む。帝辛の背が、その光の中へ消えていく。
扉が閉まる。静かな音。さっきより、少し重い。
縫季は一人になった。卓の上に、二つの碗。まだ温かい。
縫季は自分の碗を持ち上げる。残った茶を、一口。
湯の温度を確かめる指先。碗の向きを変える手。名を呼ぶ声の落ち方。
――全部、覚えてしまった。
縫季は立ち上がり、扉へ向かった。振り返らない。振り返れば、戻れなくなる。
扉を開ける。廊下の冷たい空気が、頬を打つ。縫季は、そのまま歩き出した。
去る側の足取りで。
冷えたままの掌を、袖の中に収めて。
朝の光は、変わらず廊下に伸びていた。
◆
朝の光は、もう白くなっていた。
縫季は王太子府の裏門を出る。見慣れたはずの道が、今朝は少し遠い。
去ると決めた。だから、今日の足取りは軽くあるべきだった。
だが実際は逆だ。体は前へ出るのに、胸の内側だけが、何かを置き忘れたみたいに重かった。
(……残りを片づける)
声にしない。声にすると、言い訳になる。
帝辛に告げるべきではないことが、まだ残っている。黒闢の火種。狂楽香に触れた民。医官府の裏に残る、細い流通の経路。
去る前に、それだけは切る。
縫季は市井へ向かった。
朝の市場は半分だけ生きていた。店を開く者。荷を運ぶ者。笑う子。泣く子。
その端で、男が座り込んでいる。
縫季は足を止めた。
男は壁にもたれ、口元を押さえていた。指の隙間から白い泡がこぼれている。
吐いているのは食べ物ではない。胃の中身は、もう出尽くしている。なのに喉だけが、何かを求めて痙攣していた。
「……配給……」
男が呟く。
誰も近づかない。近くの女は子を抱き寄せ、視線を逸らして足を速めた。果物を並べていた商人は、見ないふりで籠の位置を直した。
見慣れてしまった顔だ。
縫季はしゃがみ込んだ。男の首筋に指を当てる。
脈が速い。浅い。香の渇きで身体が先に暴れている。
「水だ」
近くの井戸番へ声をかける。老人は渋い顔をしたが、桶を寄越した。
縫季は男の口元を拭い、少しだけ水を含ませる。喉が鳴る。だが飲み方が下手だ。焦って、咳き込み、水が胸元へこぼれた。
「慌てるな」
男は縫季の腕を掴んだ。力はない。だが爪だけが食い込む。
「……少しでいい」
「少しで、楽になるんだ……」
コメント
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第49話「渇き」、読了しました。 帝辛の「せめて、信じていてくれ」という台詞がすごく胸に刺さりました。王としての立場を超えた、一人の人間としての願い……あの静かな強さと脆さの両方が滲む感じ、本当に巧みだなと。 縫季の内面も細かく描かれていて、特に「この線はまだ太いままだ」という感覚、すごくリアルでした。去る決意をしながらも、まだ完全には切れていない。そのもどかしさが伝わってきます。 最後の狂楽香に蝕まれた男の描写も、物語の根底にある「渇き」のテーマを象徴しているようで、次が気になります。
#BL
#ヒューマンドラマ
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