国雄が紫野を連れて行ったのは、洒落た外観のフランス料理店だった。
紫野はその店の名前を、女学校時代の友人から聞いて知っていたが、まだ行ったことはない。
東京の人気店で、女性たちが憧れるレストランだった。
「ここでいいでしょうか?」
「はい」
「じゃあ、行きましょう」
慣れた様子で店に入る国雄の後を、紫野は追った。
店内は、紫野の想像を遥かに超える豪華さだった。
中央にはシャンデリアが輝き、白いテーブルクロスの掛かったテーブルが整然と並んでいる。
壁には西洋風の絵が掛けられ、至る所に美しく生けられた花々が彩りを添えていた。
まるで夢のような空間に、紫野は心を奪われた。
二人は窓際の席へ案内されると、向かい合って腰を下ろした。
そして、国雄がメニューを差し出した。
「どれにしますか?」
「国雄様は、このお店に来たことがおありなんですか?」
「何度もあるよ。おすすめは、ヒレステーキ、ハンバーグ、それとカニコロッケかな」
「わぁ……どれも美味しそう!」
「僕は、ヒレステーキにしようかな」
「じゃあ、私はカニコロッケにします」
国雄は店員を呼び、料理を注文した。
「久しぶりに東京へ来ることができて嬉しいです」
「気分転換になったなら良かったよ。これからも時々お供をしてもらうことがあると思うけど、よろしくね」
「あ、はい……。でも、本当に私なんかでいいのでしょうか? 婚約者だと嘘をつくのは、少し心苦しいような気がします」
「そう? だったら、嘘にしなければいい」
「えっ?」
紫野は驚きのあまり、思わず声を上げた。そんな彼女に、国雄は真剣な眼差しを向けた。
「さっきは婚約者の『ふり』をしてもらうようなことを言いましたが、実はあれは本心ではありません」
「え? それは、どういう……?」
「僕は、いずれあなたを妻に迎えるつもりです」
国雄の端的な言葉に、紫野は思わず身体を硬直させた。
しかし、懸命に力を振り絞り、国雄に聞き返す。
「あの……意味がよく……」
「通じなかったかな? では、率直に言いますね。紫野さん、どうか僕の妻になっていただけませんか?」
紫野は驚きのあまり、口をぽかんと開けたまま言葉を失う。
「驚かせてしまったかな?」
紫野のあまりの驚きように、国雄は少しバツが悪そうにつぶやいた。
そこで紫野はハッとして慌てて口を開いた。
「ど、どうして私なんですか?」
「再会してから、ずっと君のことが気になっていました。いや、もしかしたら、初めて棚田で出逢った時から、僕は君に恋をしていたのかもしれない。けれど、あの頃の君はまだ幼かったし、僕はすぐに留学してしまい、君に近付く機会を失っていました」
国雄は少し間をおいて、さらに続けた。
「あの日、役場の前で再会した瞬間、すぐに君だと分かったよ。君は想像以上に美しく成長していて、その姿に僕は一目で惹かれてしまった。だから、今日こうして結婚を申し込もうと思ったんだ」
紫野は、国雄の説明を聞きながら、まだ信じられない思いでいっぱいだった。
あの日、初めて棚田で国雄に出逢った時、実は紫野も彼に一目惚れをした。ただ、その感情が『恋』だと気付いたのは、ずいぶん後のことだった。その頃には、国雄はすでに遠い異国の地へ旅立っており、紫野の想いは片想いのまま終わる運命だと思っていた。
しかし、運命は二人を再び巡り合わせた。役場の前で国雄と再会した瞬間、紫野はすぐに彼だと分かった。
すっかり大人の男性へと成長した彼の姿を見て、紫野の胸に秘めた恋心は再び熱を帯びた。
彼のそばで働かせてもらえると聞いた時、紫野はそれだけで十分だと思った。一生、そばで彼を支えることができるなら、それで幸せだと思っていた。たとえ、国雄が別の人と結婚したとしても、紫野は二人を見守る覚悟を固めていた。
そんな彼女の覚悟を打ち砕くかのように、国雄は紫野に思いがけない言葉を投げかけた。
『どうか僕の妻になっていただけませんか?』
感激のあまり、紫野の視界が滲んでくる。大きな瞳にはみるみる涙が溢れ、今にもこぼれ落ちそうだ。
ぼんやりとした視界の向こうでは、亡き両親が穏やかな笑みを浮かべこちらを見ているような気がした。
(私が幸せになれば、お父様とお母様も安心してくれるのかしら……)
そう思った紫野は、意を決して国雄に尋ねた。
「本当に……傷ものの私でもいいのですか?」
紫野の問いかけに、国雄は眉間に皺を寄せながら、静かに答えた。
「自分のことを傷ものなんて言っちゃ駄目だよ。君は、素敵な人なんだから」
その言葉に、紫野の瞳からとうとう涙がこぼれ落ちた。
慌てて涙を拭い、恥じらうように微笑んだ紫野は、こう返した。
「もう何を言っても、国雄様にはかないません!」
「ようやくわかった?」
国雄は優しい笑みを浮かべながら、頬を緩ませる。
「分かりました。このお話、ありがたくお受けいたします」
にっこり微笑む紫野を見つめながら、国雄はホッとした表情を浮かべた。彼のこんな表情を見たのは、初めてだった。
「良かった。これで父と母にいい報告ができるよ」
「お二人はこのことをご存知なのですか?」
「たぶん察しはついていると思うよ」
「大丈夫でしょうか? もし反対されたら……」
「反対なんてするわけないさ。あの人たちは、ちゃんと分かっているからね」
その言葉に、紫野は少しホッとした。
すると、国雄は宝飾店の紙袋から指輪の入った小箱を取り出した。
「紫野、左手を出してごらん」
「え?」
国雄に初めて名前を呼び捨てにされた紫野は、少しドキッとした。
「婚約指輪は、正式に婚約した後また贈るよ。それまでは、これで我慢してほしい」
国雄はそう言いながら、小箱からアメシストの指輪を取り出した。
そして、紫野の左手を握り、薬指にその指輪をはめた。
その時、ちょうど店員が料理が運んできた。
国雄が紫野の指に指輪をはめる様子を見た店員は、一旦料理を近くの空いたテーブルに置き、大きな声で叫んだ。
「ご婚約、おめでとうございます!」
その声に店内の客や他の店員たちが一斉に振り返る。
状況を察した人々は笑顔になり、温かな拍手が店内に響き渡った。
紫野は、真っ赤な顔のまま周りの人々に軽く会釈をする。そして、左手の薬指にはめられたアメシストの指輪を、もう片方の手でそっとなぞった。
コメント
61件
お二人の婚約、素敵すぎます💓 紫野ちゃん、幸せ街道まっしぐらですね!! お父さんお母さんも天国から暖かく見守っていますね! さっ!これからは、進さんの大調査&事件の解明で嵐子とアイツを袋叩きに、マリコ先生お願いシャス🫡
紫野ちゃん良かったね😭💕ご婚約おめでとう御座います💗💗 紫野ちゃんはご両親が亡くなってから心細くて辛い日々だったから余計に身に染みるね。 これから夫婦として幸せな日々を送って欲しいなぁ( ˘͈ ᵕ ˘͈♡)
+゚。*キャ━(๑′ฅωฅ‵๑ )━。:* いきなりステーキよりも、いきなりプロポーズな国雄ちゃんに、 びっくりドンキーよりも、びっくりドッキリな私だよ!! この時代、やっぱり結婚へ辿り着くのは早いんでしょうね♡ 紫野ちゃん、ステーキのどんよりも、ドンと構えてパーティーに臨もうね! 肉食な私でした( ͜🍖 ・∀・) ͜🍖