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香苗から予想外の勧誘を受けてからしばらく、互いの公休日や休憩のタイミングがズレていたのか、社員食堂を含めた館内で顔を合わせることがほとんど無かった。勤務時間にバックヤードですれ違う可能性が無いこともないし、売り場が違っても更衣室は売り場関係なくみんな一緒なのに。
きっと以前もそんなことが普通だったのかもしれないけれど、あれ以来は職場のどこでも香苗の姿を探してしまう。前から気になっていた同僚のことが、彼女の秘密を知ったことでさらに気になる存在になった。なのに、とにかく全然会わない。
それは睦美の配属されている服飾雑貨が他の売り場に比べて、閉店間際に客が引くのが遅いから余計なのかもしれない。店舗の入口に近い場所にあるから店内の客が完全に退店するまで閉め作業を終われないのだ。他の売り場にいた客が帰り際にふらっと立ち止まって商品を手に取ることもあり、奥の売り場がさっさとレジを閉めて帰っていくのを遠目に眺めながらも、まだしつこく接客を続けていたりすることも珍しいことじゃない。ハンカチなんかの単価の高くない商品はついで買いされることも多い。だから、閉め作業後に売上金の入金の為に事務所へ向かうのはいつも最後から数える方が早い。
反対に香苗が勤務するフォーマル売り場は二階にある婦人服エリアの一番奥。元々から客足は多くはないし、閉店ギリギリに駆け込んでくるような人はあまりいなさそうな品揃え。冠婚葬祭に関するものはそう勢いで購入するものじゃないし当然だ。否、急に法事ができて慌てて買い求めてというのはあるかもしれないけれど、そうそうあることじゃない。
いつも閉店時間と同時にレジを閉めることができるのか、睦美が事務所に顔を出した時にはとっくにフォーマル売り場用の清算ファイルの提出は済んでいる。
これまでだって職場が一緒なのに社員食堂でしか見かけることは無かったのだから、別におかしなことじゃない。でも、彼女とは少し仲良くなったつもりでいたから、顔を見ない期間が長ければ長いほど香苗のことを思い出してしまう。
――なんか柿崎さんって、気になるんだよねー。
地味なのについ注目してしまう、隠れた魅力感のある女性。よく見れば美人だし、悪い噂は一切聞かない控え目な同僚。社内で彼女と一番親しいのは誰だろうと考えてみるが全く思いつかない。そもそも彼女の交友関係なんて知らない。でも、特に浮いていたり仲間外れにされたりしている訳でもない。自分の世界を上手に守っている人とでも言ったらいいんだろうか。
いつも人の顔色を伺って、愛想笑いばかりの自分には深く関わることのない人だと思っていた。食堂の一番奥のテーブルから、たまに視界に入ってくる彼女のことを眺め見ていただけで、きっと向こうは睦美のことなんて気にしたこともないと思っていた。
――まさか、あの時の動画が出回ってるとは思わないじゃない……ほんっと、夏目には一度ガツンと言ってやらないとっ!
社員旅行の時の演奏を香苗から話題に出された時は、心底焦って変な汗が出た。売り上げ低迷期にライバル社のCMソングを絡めてくるのはマズいと先輩たちからもこっぴどく説教されて、あれは完全な黒歴史になってしまっている。もちろん、同期の友人がスマホを構えて撮影していたのは気付いていたけれど、そんな何年も保存されているとは思ってもみない。
――あ、でも、私もまだ夏目達のコスプレ画像は残してるか。
場の雰囲気で撮影した後、一度も見返したことがなかったから、そんなデータがあったことすら頭から抜け落ちていた。きっと夏目も同じような感じで残してたままだったんだろうが、何をキッカケにして思い出し、わざわざ香苗に見せたんだろう?
香苗が言っていたように、確かにあの時は珍しく楽しみながら演奏できた記憶はある。入社後の社員研修以来ほとんど会うことの無かった同期達との久しぶりの再会もあったし、上司はお酒が入ってやたらテンションが高くなってて、宴会場全体が変な盛り上がりを見せていた。悪ノリというと語弊はあるかもしれないが、前日まではそれなりに緊張していたせいで寝不足だったってのもある。
結果的には怒られたけれど、それもまあ良い思い出にはなっている。練習不足で指がまともに動いてなかったのに、終わった後のやり切った感は確かにあった。
でも、人前でピアノを弾くのはもうこれで最後だと決めていた。
「あんな演奏、お母さんに見られたら何て言われるか……」
「ピアノの先生の娘なのにねぇ」小学校の時に同級生や保護者から何度言われたことだろう。思い出すだけでも胃の辺りがちくりと痛む。
学校の音楽会ではクラスで一番上手な子がピアノの演奏を指名されていた。学年が変わり、クラスが変わっても、六年間で睦美が選ばれることは一度も無かった。自分より上手に弾ける子が何人もいたからだ。その中には母が教えている子達も含まれていた。
他の子が演奏する曲に合わせて、その他大勢の生徒と一緒に合唱する娘のことを、母は決して褒めてはくれなかった。どんなに一生懸命に口を大きく開けて歌っていても、ピアノの前に座っていない娘には納得がいかないようだった。
「来年は選ばれるように、毎日ちゃんと練習しなさい」
クラスの代表としてピアノを弾かせて貰えない娘には興味がなかったのだろう。ピアノには嫌な思い出がたくさん詰まっている。