そして一月いっぱいで綾子は退職した。
退職の日には世話になったお礼に職場仲間へ菓子折を持って行った。すると綾子が退勤時に有志から小さな花束が贈られる。綾子は思いもかけないプレゼントに感激していた。
綾子は工場を出る際光江に小さなフレームに入った猫の刺繍を贈った。
この刺繍は綾子が感謝の気持ちを込めて光江に作ったものだ。光江は自宅で3匹の猫を飼っていると言っていたので猫の絵柄にした。
「この子うちのタマにそっくりだよぉ。嬉しいねぇ、ありがとう、大事に飾らせてもらうよ」
「光江さんが声をかけて下さったから元気になれた気がします。本当にお世話になりました」
「東京へ帰っても身体大事にね。結婚式で会えるのを楽しみにしてるよー」
「ありがとうございます。ではまた!」
笑顔で手を振り車へ向かった綾子の頬には涙が伝っていた。
思えば光江に話しかけられてからが全てのスタートだった。光江のお陰で綾子の死んだような毎日に光が差し込む。
名前の通り光江は光を人に分け与えてくれる女神だ。綾子はこの工場で光江に出会えた奇跡に感謝した。
別荘へ戻ると仁が出迎えてくれた。
仁は明日の綾子の引越しの為に軽井沢に迎えに来ていた。
引越しと言っても荷物はそれほどない。
家具や日用品は別荘にあったものを使っていたので持って帰るのは衣類と身の回りの物くらいだ。
だから仁の車に充分積み込める。
綾子が帰るとすぐに中古車買い取り業者がやって来た。軽井沢へ来て綾子がずっと乗っていたジムニーも手放す事にした。
仁が車を二台持っているので結婚したら綾子はいつでも車を使える。
この日の夜、二人はレストランへ出かけた。
軽井沢での最後の夜はクリスマスイブに二人で訪れたレストランで過ごす事にする。思い出のレストランだ。
そこで仁は綾子の退職祝いをしてくれた。仁はお祝いにエンジェルのモチーフがついたブレスレットを綾子にプレゼントしてくれた。
以前来た時に接客をしてくれた男性スタッフが綾子の婚約指輪に気付きすぐに機転を利かせる。二人の婚約祝いにと店からキャンドルのついたケーキをプレゼントされる。今日は綾子の退職祝いで来たと告げるとスタッフ達は拍手もしてくれた。
心のこもったおもてなしを受け素敵な夜を過ごす事が出来た。
食事を終えると二人はスタッフに礼を言ってから店を後にした。
道路には夕方から降り始めた雪がうっすらと積もっている。
「今夜は積もりそうね」
「そうだな。だいぶ冷え込んできたしな」
そして二人は別荘へ戻った。
最近仁はなぜか無性に子供が欲しくなっていた。
今まで女性と交際していて子供が欲しいなんて一度も思った事はない。しかし最近やたらと子供が欲しくなる。
子孫を残そうとする『オス』としての無意識の本能なのか? それとも綾子を愛し過ぎるあまりに綾子の分身が欲しいと思うからなのか? なぜかわからないが綾子を抱く度にそう思う自分がいる。
その夜二人は綾子のシングルベッドで愛し合った。もう二人で愛し合う事は当たり前の日常になっている。
これまでは避妊具をきちんとつけていた仁だがこの夜は一度つけた避妊具をあえて外した。
そしてそのまま綾子の中へ入って行く。
綾子は深い快感の波に溺れていて気付いていないようだ。
そして二人が絶頂へ上り詰めた瞬間仁は神に祈っていた。
(神よ……俺はこれまで神頼みなんて一度もした事がないんだ……だから初めての頼みだ……綾子の元へ理人を返してくれ!)
その時綾子が切ない声を上げる。それと同時に仁も綾子の体内に全てを放出した。
二人はこれまでにないほどの深い快感を得て同時に果てた。
荒い呼吸をしながら意識がボーッとする中で綾子は異変を感じていた。
綾子は耳元に誰かの息を感じた。
それは仁のものではない。その息はもっと弱く小さくまるで天使の息づかいのように優しかった。
次の瞬間綾子の脳裏に懐かしい記憶が蘇る。
「マーマ、マーマ、お耳にフーってするよ、フーって……ちっちゃな息は天使の息だね」
あの頃理人は天使が出て来る絵本が好きで、よく天使の真似をして綾子の耳に息を吹きかけていた。
「フフッ、理人くすぐったいわ」
「マーマ、僕にもやって、天使のフーフーって」
「はいはい、いくわよ理人、フーッ、フーッ」
「キャハハハハッ」
理人が声を出してはしゃぐと綾子も笑う。母と息子の幸せなひと時だった。
そこで綾子はハッとした。
(理人? 理人がいるの? 大丈夫よ、東京にはあなたもちゃんと連れて帰るから。ママと一緒に帰りましょう。ママが迎えに来たからもう大丈夫よ……)
綾子は心の中で息子に語りかける。その瞬間耳元に息を感じなくなった。
そして綾子は切ない声で泣き始める。
「どうした?」
「うっ…うぅっ……今、理人がいたような気がしたの。理人の息遣いを耳に感じたの……」
仁はホッと息を吐くと綾子をギュッと抱き締める。
そして綾子の頭を優しく撫でながら言った。
「綾子、明日東京へ帰る前に事故現場に行こう。理人君が事故に遭った場所に。理人君を迎えに行くんだ。そして一緒に連れて帰ろう」
仁の言葉に綾子はわんわんと泣き始める。
「行く…迎えに行くわ……理人を一緒に連れて帰りたい……」
「うん、そうしよう、二人で迎えに行こう」
「うんっ、うぅっ……ありがとう……ありがとう……」
仁は綾子を更に強く抱き締めた。綾子は肩を震わせて大声で泣き続ける。そんな綾子の髪を仁は優しくそっと撫で続けた。
翌朝二人は理人が交通事故に遭った現場へ向かった。
昨夜から降り続いた雪は10センチほど積もっている。
事故現場へ着くと行き交う車は一台もいない。
静かな森に挟まれた道路には真っ白に雪が降り積もっている。雪はまだ降り続いていた。
「ここか」
「そう。ちょうどこの辺りで事故を起こしたの」
「大丈夫だ。きっと理人君は俺達と一緒に帰ってくれるさ」
来る途中で買った花束を綾子が道路脇に置くと二人は目を瞑って手を合わせる。
その瞬間無風だったはずの道路に強い風が吹き抜けた。
二人はびっくりして目を開ける。その時二人の目の前には雪に紛れて何かがフワフワと舞っている。
綾子が慌てて手を伸ばしてそれを掬うと手のひらには小さな白い羽根が乗っていた。
それはあの日綾子が見つけた羽根と同じ羽根だった。
「鳥の羽根? にしては小さいな」
「これはね、多分天使の羽根よ」
「天使? そう言えば理人君の写真立てにもこんな羽が挟まってたな」
「フフッ、そう。これはあの子からの合図なの」
綾子はその小さな羽根を愛おしそうに見つめた後ハンカチの間に挟んでバッグへしまう。
「あの子は合図をしてくれたわ。だから大丈夫。私達と一緒に東京へ帰るつもりよ」
「そっか、羽根は理人君からの合図だったのか」
「うん。だからもう大丈夫。さあみんなで帰りましょう」
「よし、じゃあ行くか」
二人は笑顔で車に乗り込むと事故現場を後にした。
それから一ヶ月が経過した。
結婚式は5月だったが綾子は既に仁のマンションで新しい生活をスタートしていた。
軽井沢から持って来た荷物と実家から持って来た荷物はもうすっかり片付いている。。
仁のマンションは広いので使っていない部屋がいくつもある。仁はその一つを綾子のプライベートルームにしてくれた。
綾子が一人になりたい時はその部屋を使えばいいと言ってくれた。
仁は綾子を家具店へ連れて行き必要な家具を買ってくれた。
綾子はプライベートルームを刺繍部屋にしようと思い、刺繍の道具をしまえるチェストと窓辺に置くテーブルセットを買ってもらった。
仁は刺繍の合間に休めるようにとソファーも買ってくれる。
この日綾子はプライベートルームで刺繍に夢中になっていた。今仁は新作の執筆に集中しているので邪魔しないようにと自分もこの部屋で刺繍を楽しんでいた。
しかしあまりにも熱中し過ぎてすっかり日が暮れている事にも気付かなかった。
その時部屋にノックの音が響く。
「綾子、入るぞ」
「あ、ごめんなさい、すっかり夢中になっちゃった! もうこんな時間だったのね」
綾子が慌てて針を置くと入って来た仁が綾子の向かいに座る。
そしてテーブルの上の刺繍を手に取って言った。
「なんか随分と難しい絵柄にチャレンジしてるなー」
「もう楽しくって仕方がないわ。なんにもしないで刺繍だけやっていたいくらいよ」
「おいおいそれは勘弁してくれー。たまには俺の事も構ってちょーだい」
仁は笑いながら綾子の手を握る。
「フフッ、毎晩構ってるじゃない」
「それだけじゃ足りないよ。俺は一日中綾子とくっついていたいんだー」
「ダーメ、新作書かなくちゃでしょう?」
「あちゃーそうだったー、でも不思議だよなー、綾子と一緒に住むようになってからの方が筆が乗るなんてさ」
「普通は一人の方が集中出来るのにね」
「いーや、俺の場合は綾子がいない方が集中出来ないんだよー。だからもう買い物にも行くな」
「そんな事したら飢え死にしちゃうわ」
綾子がクスクス笑うと仁は自分の膝を指差して綾子に座るように合図をする。
綾子が立ち上がって膝の上に座ると仁は綾子をギュッと抱き締めて言った。
「さーて、刺繍に夢中のお嬢さんは夕飯を作るのも面倒だろうからなんかデリバリーでも頼むか?」
「なんか作るわよ」
「いーや無理するな、疲れてるだろう? なんなら食べに行く?」
「大丈夫よ、作るから……うっ……」
そこで綾子が手で口を押える。
「どうした?」
「ちょっと……ごめんなさい……」
綾子は急に立ち上がると慌てて洗面所へ走って行く。
心配になった仁は綾子の後を追い洗面所の前で綾子に聞いた。
「大丈夫か? 綾子?」
静かだった洗面所に水の流れる音がした。そしてドアが開く。
「大丈夫か? 風邪でもひいたか?」
仁が心配して綾子のおでこに手を当てる。しかし熱はないようだ。
すると綾子が神妙な面持ちで言った。
「ねぇ、まだはっきりはわからないんだけれど、もしかしたら赤ちゃんが出来たかも……」
仁はびっくりした顔をする。そしてもう一度綾子が言った言葉を頭の中で繰り返す。
(こ、子供? 俺の子供が? おお神よ! あなたは俺の願いをすぐに叶えてくれたのか?)
仁は感動で胸がいっぱいになる。そして大声で言った。
「でかしたぞ綾子! 俺はすぐに子供が欲しいと思ってたんだ! ありがとう、ありがとうなー綾子!」
「本当に?」
「ああ本当だよ。君と一緒に住み始めてから急に子供が欲しくなってね…俺ももう若くはないからなー」
「うん……それなら良かった…」
綾子は感動のあまりすすり泣く。そんな綾子を仁はギュッと抱き締めた。
「男の子だったら理人君の生まれ変わりだな。で、女の子だったら理人君の妹になるんだぞ」
「うん……」
「良かったな綾子」
「うん……」
涙を流しながら綾子はギュッと仁にしがみついた。
翌日二人揃って産婦人科へ行った。そこで綾子ははっきりと妊娠の診断を受ける。
妊娠がわかった途端仁は今まで以上に綾子を甘やかした。
綾子が家事をしようとするとそれを止める。仁は家政婦を雇うと言って聞かない。そして家政婦派遣会社をネットで調べ始める。しかし綾子は家事くらい自分で出来るわと言い張る。
妊娠しても家事をした方が運動になっていいのよと綾子が言っても仁は駄目だと言って聞く耳を持たない。
そんな二人を見るに見かねた綾子の母がほぼ毎日手伝いに来てくれるようになった。
時には綾子の義理の姉を伴ってやって来る。そして仁が書斎で執筆中に三人でお喋りをするのが日課となる。
こういう時実家が近いと助かる。
仁は二人が毎日来ても全然気にしない。むしろ綾子の母が作ってきてくれる美味しい料理にご満悦だ。
一方綾子の方はしっかりとつわりが始まってしまいすっかり食が細くなっていた。
そんな綾子の為に仁は外出する度に綾子が好きなフルーツを山のように買ってくる。あまりにも凄い量を買って来るので母や義姉におすそ分けをする毎日だ。
そしてこの日は綾子の母親が用事があって来られないので仁がデリバリーを頼んだ。
しかし綾子は食欲がないのかグレープフルーツだけを食べている。
「果物しか食べないなんて動物のおサルさんくらいじゃないか?」
「あら、サルはお芋とか昆虫も食べるんじゃなかった?」
「いやー、サルと言えばバナナだろう」
「えー、確かサルは雑食だから草とかも食べるはずよ?」
そこで二人はムキになってスマホでサルの餌について調べ始める。
その時テレビが突然ニュース速報を伝えた。
ピコンピコン
『脚本家の松崎隼人氏が覚醒剤取締法違反の容疑で緊急逮捕されました。他にもいくつか余罪があるようで現在原宿署で取り調べを受けています』
そのニュースに二人は驚く。そして仁が口を開いた。
「やっぱり捕まったか」
「…………」
「悪い事をすると天罰っていうのは下るんだな」
「うん……」
「大丈夫か? 綾子」
「うん……大丈夫よ…これでやっと区切りがついたわ。やっと…やっとよ……」
綾子は言い終えるとぽろぽろと涙を流し始める。
「おいおい綾子、泣くとお腹の子に良くないぞ。子供の為にも母親は常に精神状態を安定させないとな」
その時綾子が立ち上がって仁の傍まで行き膝の上に座った。そして仁の首に両手を巻き付けるとこう言った。
「あなたは子供が生まれる前から素敵なパパだわ」
綾子は初めて自分から仁にキスをした。仁はびっくりしていたが徐々にキスの主導権を握り始める。
そしてしばらくキスが続いた後仁が唇を離して言った。
「綾子からキスされるのも悪くないな。是非毎日頼むよ」
「もうっ」
「ハハハ」
「フフフ」
笑いが収まると二人は再び唇を重ねた。
愛し合う二人の心は目には見えない強い絆でしっかりと結ばれていた。
コメント
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『返してくれ』…この切実な表現を何度も見返してしまう! 天使は本当に素晴らしい父を選んだ!思い返せば最初の事故も、ママの幸せは、この父ではない。と悟った理人くん想いから起きた幸せへの奇跡だったのかも知れない…。
理仁くん、綾子ママと仁パパと一緒に お家に帰れて良かったね👼✨ そして生まれ変わって 、今度はパパとママと ずっとずっと一緒だよ....💖 綾子さん、ご懐妊おめでとうございます💐 どうかお身体をお大事に🙏 赤ちゃんに逢えるのが楽しみですね🍀✨ 仁ちゃんはすっかり過保護&甘々....♥️🤭 優しい 良いパパになりそう👶🧸💕
仁さんの真摯な神へのお願いが効いたのか、事故現場で理人君の魂が白い羽🪽とともに綾子さん達と一緒に来たのかこんなにすぐに子供を授かるなんて🤰✨🌷 仁さんが神に感謝するのも納得🥹✨ 綾子さんLOVE❤️の仁さんが綾子さんを過保護に甘やかし中に元夫逮捕報道❗️本当に良かった😱これから理人君の事故の真実も明らかになり不倫女もタダでは済まない💢 人の不幸の上に幸せは成り立たない‼️全て断罪されるべきだよ💢💢