店に入るなり、岩崎は、汁粉三つ!と女給に向けて叫び、座席についた。
「月子、明日から、忙しくなる。元々、学生の演奏家の話が動いていたが、あの通りだろう?色々と組み直さなければならんだろうし、学生達の仕上がりも見てやらねばならん。家に帰って来るのも遅くなる。お咲と二人というのは、無用心だから戸締りには気をつけておきなさい」
汁粉が出て来るまでの間、岩崎は、これからのことを捲し立てた。
聞いている月子は、正直、分からない話だったが戸締りに関しては同意できた。
岩崎がいないのだ。流石に、慣れない場所でお咲と夜を迎えるのは、心細いというのもあるが、言われた様に無用心だと思う。
月子が、はい、と答えていると、女給が汁粉を盆に乗せて運んできた。
「こっちに、二つだ」
岩崎が女給に指示を出す。
「うん、頂こうか」
律儀に手を合わせる岩崎の前には、椀が二つ置かれてある。
「ああ、月子も、おかわりしていいんだぞ?」
自分だけ二つ頼んだことを後ろめたく思ったのか、岩崎は言った。
「あっ、私は……。旦那様は、お汁粉……お好きなんですね?」
「ん?」
岩崎は、さっそく、汁粉をかきこんでいる。そして、二椀目に手を伸ばしていた。
早すぎるだろうと、月子は、岩崎の食べっぷりに目を丸くした。
「おーい!君!おかわりだ!」
ご機嫌な様子で、岩崎は女給へ声をかける。
「さあ、遠慮せず、月子も食べなさい」
うまい、うまいと、あっという間に、岩崎は、二杯目も食べ終えた。
「いやぁ、唄ったから、喉も乾いていたんだよ」
おかわりが来るのを待ち遠しそうにしながら岩崎は言った。
確かに芳子との合唱は、とても声をはりあげていた。
歌詞は外国語だから、月子には何を唄っているのか分からなかったが、正直なところ、岩崎の美声に聞き惚れてしまった。
その迫力に押されたというべきか、驚いたというより腰を抜かしたという方が例えに合っているほど、月子には衝撃的なものだったのだ。
あれだけのものを唄い切るのだから、喉も乾くだろうが、汁粉?汁粉で喉を潤すものなのだろうか?
かなり不思議に思った月子の箸は止まっていた。
そうこうするうち、おかわりの汁粉が岩崎の元へやって来る。
うん!と、またまた唸りながら、岩崎は、汁粉をかきこんだ。
そして、おかわりの叫び……。
店の中に、クスクスと笑いが起こる。
女給も、心得たもので、即座におかわりを持ってやって来た。
「ははは、お嬢ちゃん。お父さんは、よく食べるねぇ。お嬢ちゃんも、遠慮なくおかわりしてね」
女給の一言に、他の客も、大笑いする。
「……お、お父さん?!いや、君、そ、それは、どういう領分だ?!連れは、歳の離れた……」
店中が注目している状態になり、岩崎は慌てているが、また、それが、更に声を大きくさせている。
余計皆の注目を浴びることになり、月子は恥ずかしさから小さくなった。
「い、いや、だから、連れは、その、歳の離れた……」
「あら!妹さん?!ごめんなさいね!」
それだけ言うと、またおかわり持って来るわねと、女給は岩崎をからかい、他の客の接客を始めた。
「……うん、なんだ、その……」
岩崎は、箸を止めて思案顔になっている。
「月子……髭か……やはり……」
その呟きに月子は首を傾げたが、良く見ると……。
「旦那様、お髭に、お汁粉が……」
かきこんで、何杯も食べたせいか、岩崎の口髭は、汁粉でしっとりしていた。
岩崎も、月子の言わんとすることに気がついたようで、上着のポケットからハンカチを取り出し、慌てて口元を拭った。
「いかんなぁ。つい、やってしまうのだ。やはり、髭か。髭だなぁ……」
思い詰めた様子で呟く岩崎に、月子はまたまた、何の事やら分からずで、二人の間に沈黙が流れた。
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