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第170話 傾ぐ棟
【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟脇・朝】
朝の光が、保管棟の外壁を白く照らしていた。
夜の恐怖は、明るくなれば薄れる。
普通ならそうだ。
だが今は逆だった。
見えるから分かる。
シャッターの下端。
脇の非常階段。
壁面を走る金属配管。
屋根を支える鉄骨の端。
その全部に、鈍い赤茶が広がり始めている。
「……建物そのものを食い始めた」
木崎が低く言った。
もう、手すりや留め具だけではない。
ラストは、臨時保管棟の“骨”へ手をかけている。
城ヶ峰が即座に叫ぶ。
「保管棟から離れろ!」
「外壁沿いは捨てる! 開けた方へ出ろ!」
隊員たちが動く。
発電機はまだ回している。
照明も点滅を保っている。
ケーブルも輪になるように引き直してある。
それで、導線や手元の機材は多少守れていた。
だが、建物の骨組みは違う。
鉄骨。
梁。
接合部。
普段は動かない。
閉じたまま荷重を支え続ける金属だ。
ラストにとっては、一番食いやすい場所だった。
保管棟の外壁が、ぎり、と軋んだ。
誰かが息を呑む。
次の瞬間、シャッター脇の縦柱の塗装が、見る間に赤茶けて膨らんだ。
さっきまで灰色だった鉄が、一気に古びた船みたいな色へ変わる。
「来るぞ!」
木崎が怒鳴る。
その時だった。
警官の列の中から、一人が足を止めた。
ほんの少しだけ、顔が上がる。
制帽の影。
その奥。
黒と赤錆色が混じる髪。
深い隈。
瞳の奥を流れる黒い影と細い文字列。
今度は、誰の目にも分かった。
若い警官ではない。
警官の顔を借りていただけの、別の何かだ。
ラストが、ようやく隠すのをやめた。
彼は制帽を脱がない。
だが、その必要がないくらい、目がもう人間ではなかった。
黒い影が文字列を呑み込み、また吐き出す。
頬の下、首筋、手の甲。
皮膚の下に埋まった基板みたいな板が、うっすらと浮いている。
ラストは、ぼそりと呟いた。
「……動かす」
「光を流す」
「止めない」
「だから……棟ごと、崩す」
最後の方は、朝の空気に溶けるように聞き取りづらかった。
だが意味は十分だった。
【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟脇・朝】
若い警官の一人が、反射的に拳銃を抜いた。
「止まれ!」
ラストは止まらない。
走りもしない。
ただ、静かにこちらへ歩く。
警官が引き金を引く。
乾いた発砲音。
一発。
二発。
弾はラストの肩口と脇をかすめる。
だが、倒れない。
それどころか、ラストが視線を向けた瞬間、警官の拳銃の銃身がじわりと赤茶けた。
「っ……!」
警官が思わず手を放す。
地面へ落ちた拳銃は、硬い音を立てた次の瞬間、握りの根元からぼろりと崩れた。
その光景で、周囲の警官たちの表情が一斉に変わる。
敵の顔が見えた。
だが、見えたことでむしろ恐怖が増す。
普通の制圧では止まらないと分かったからだ。
「下がれ!」
城ヶ峰が怒鳴る。
「正面で止めるな! ログ優先!」
日下部はケースを抱え直し、佐伯と村瀬を見た。
「読みは続ける!」
「止まったら向こうの勝ちだ!」
「分かってる!」
佐伯が答える。
「どこまででもついていく!」
村瀬も声を上げた。
木崎はカメラを構えたまま、ラストから目を離さない。
今までラストは、警官たちの中へ紛れ、見えないまま崩してきた。
だが今は違う。
こちらが“動かし続ける”ことで食いにくくなったぶん、ついに隠れる段階を終えたのだ。
「……痺れ切らしたな」
木崎が低く言う。
ラストは返事をしない。
ただ、歩きながら保管棟へ片手を向けた。
次の瞬間、建物全体が鳴った。
ぎ、ぎぎ……。
鉄骨の軋み。
壁のきしみ。
屋根を支える梁の悲鳴。
それが一度に重なる。
保管棟の上部外壁が、わずかに傾いた。
【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟前・朝】
「建物が来る!」
木崎が叫ぶ。
それは比喩じゃなかった。
保管棟そのものが、支えを失い始めている。
外から見るとほんの少しの傾きだ。
だが、中にいる者、横を通る者には十分すぎる変化だった。
非常階段の接合部が一気に赤茶ける。
上段の踊り場が、ぐらりと外へ傾く。
屋根からぶら下がった排気ダクトが、ねじれた音を立てる。
「ルート替え!」
城ヶ峰が叫んだ。
「棟の正面を切るな、開けた駐車帯へ!」
だが、その駐車帯には停止した搬送カートがまだ残っていた。
ラストはすでにそこも食っている。
車輪が崩れ、台車の骨組みが沈み、進路の中央に金属の残骸が散っている。
「最悪だな!」
木崎が吐き捨てる。
「避けるしかない!」
城ヶ峰が返す。
隊員たちが樹脂ケースを抱えて走る。
発電機を引きずる班。
ケーブルを外しながら持っていく班。
中枢ログを守る日下部たち。
全員がばらばらにならないぎりぎりの形で動いていた。
ラストは、その混乱の外縁を歩いている。
追い詰めるためではない。
逃げ道の先へ先へと歩いて、止まった金属と閉じた構造を順番に食っていく。
まるで、建物と現場そのものを“逃げると崩れる迷路”へ変えているようだった。
「……逃げても」
ラストが呟く。
「支えるものが、崩れる」
その言葉の直後、保管棟の外壁の一部が内側からへこみ、次いで外へ弾けるように崩れた。
鉄骨の破片と壁材が、朝の光の中へ飛び散る。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
イヤーカフの向こうから、現実側の怒号と破断音が流れ込んできた。
サキの顔色が変わる。
「建物……!」
ノノの声が重なる。
『保管棟の鉄骨を食われてる!』
『ラスト、ついに前へ出た!』
ハレルは思わず窓の外を見た。
見たところで現実側は見えない。
それでも、胸の中で何かが強く引かれる。
リオが低く言う。
「向こう、いよいよ正面だな」
ダミエは結界の外箱を維持したまま、短く言った。
「そっちはそっちで持つしかない」
「今こっちが崩れたら、全部終わる」
その通りだった。
助けに行ける距離じゃない。
今は、向こうが向こうで持ちこたえ、こっちがこっちで線を切らないしかない。
レアは、箱の中からその様子を聞いていた。
そして、小さく笑う。
「……錆の人、前に出たんだ」
ハレルが鋭く見る。
「知ってるのか」
「存在だけ」
レアは肩を揺らした。
「でも、あれは待つ方が得意」
「前に出る時は、相手に“止まらない”を覚えられた時」
サキがイヤーカフを押さえた。
その言葉は、現実側の状況と合っている。
匠のヒントで、木崎たちは“動かし続ける”を選んだ。
だからラストは痺れを切らして前へ出た。
『今の拾った!』
ノノが言う。
『ラストは“止まらない”を覚えられると前に出る!』
ハレルは主鍵を握りしめた。
向こうで何が起きているかは見えない。
でも、向こうも今、敵のやり方を一つずつ剥がしている。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/北西区画・朝】
王都でも、戦いはまだ続いていた。
アデルは結界の前で、現実側の状況を聞きながら前線を保っている。
ヴェルニの爆風が狼型を押し返し、王都軍兵の槍列が猪型の突進を止める。
崩れた石壁の上では、ジャバが相変わらず楽しそうに笑っていた。
『現実側、ラストが姿を出した』
ノノの声。
アデルの目が細くなる。
「そうか」
『保管棟の鉄骨を食って、棟ごと傾かせてる』
『木崎たちはまだログを持ってるけど、崩壊寸前』
ヴェルニが吠えた。
「本当に好き勝手やりやがるな!」
アデルは短く返す。
「向こうも今、相手の手を見ている」
「こっちは線を切るな」
それで十分だった。
今の王都は、勝ちに行くより持たせる。
現実側は、倒すより逃れながら読む。
両方とも同じだ。
“勝つ形”そのものを敵に合わせて変え始めている。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟前・朝】
保管棟の傾きは、もう誰の目にもはっきりしていた。
右側へ、ほんのわずか。
だが、その“ほんのわずか”が致命的だ。
建物は一度傾き始めると、止まるより先に重さの向きが変わる。
「二分もたない!」
佐伯が叫ぶ。
「一分だ!」
木崎が怒鳴り返す。
「上、見ろ!」
屋根を支えるトラスの一部が、赤茶けながら波打っていた。
普通の錆び方じゃない。
時間を何十年も早送りしたみたいな、荒れた腐食だ。
日下部はケースを抱えたまま走っている。
ノートパソコンはもう片手では打てない。
だが、画面は閉じていない。
佐伯と村瀬が左右から支え、見えるところだけ拾っている。
「まだ読める!」
日下部が叫ぶ。
「この先、支点候補の片方が見えるかもしれない!」
「だったら落とすな!」
城ヶ峰が言う。
その瞬間、保管棟の横壁が大きくきしんだ。
ばき、ばきばき、と連続した音。
外壁パネルが外れ、内部の赤茶けた鉄骨が剥き出しになる。
その姿を見て、全員が直感した。
もう、建物は“崩れる途中”へ入っている。
ラストはその前で、ようやく立ち止まった。
警官の制服のまま。
だが、もはや誰も警官とは思わない。
黒と赤錆色の髪が朝の光を吸い、目の奥の影と文字列が濃くなる。
皮膚の下の基板が、頬から首筋へ浮かび上がる。
彼は保管棟を見上げ、ぼそりと呟いた。
「……止まらない線」
「なら……箱の方を、傾ける」
その言葉と同時に、保管棟の正面柱が一気に赤茶けた。
「伏せろ!」
木崎が叫ぶ。
直後、建物全体が大きく軋んだ。
保管棟が、ゆっくりと、しかし確実にこちら側へ傾き始める。
【現実世界・湾岸方面/崩壊寸前の保管棟前・朝】
もう、逃げるしかなかった。
だが、ただ逃げればいいわけじゃない。
中枢ログを落とせない。
光と循環を切らせない。
そして、ラストに止まった金属の逃げ場を渡せない。
城ヶ峰が咆える。
「ケーブルを前へ回せ!」
「光の輪を切るな!」
「ログ班を中央に入れろ!」
隊員たちが反射で動く。
動いている発電機。
点滅する照明。
引きずられるケーブル。
その全部が、逃げるための仮の導線へ変わる。
ラストは、それを見て初めて少しだけ足を止めた。
完全には止まらない。
だが、迷うような間があった。
木崎の目が鋭くなる。
「……今の見たか」
日下部が荒い息のまま答える。
「交差した光のところで、食い方が鈍った」
まだ確信には遠い。
だが、兆しだ。
その瞬間、保管棟の上部が大きく沈み込んだ。
鉄骨が悲鳴を上げる。
壁が裂ける。
ガラスが割れる。
建物が、ついに崩壊へ踏み込んだ。
朝の光の中、巨大な棟がゆっくりとこちらへ傾いてくる。
誰もが、その影を見上げた。
そして理解した。
次の一手を間違えれば、
ラストではなく、
建物ごとこちらが飲まれる。
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