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――軽やかな笑い声が響く中、小船は悠々と水路を進んで行く。
「ああ、もっと、ウォル、もっと早く!お願い!」
ミヒは、船縁《ふなべり》から身を乗り出して、声をあげた。
手で、沸き起こる水面の波を探っては、船頭役のウォルに、櫓をこいでくれと、ねだってばかりいる。
ジオンは、はしゃぐミヒを眺めつつ、船首に取り付けられた天蓋の下に、体を投げ出していた。
同時に、ウォルから、ミヒの落胆振りを聞かされていただけに、はしゃぐミヒの姿に、胸をなでおろしている。
小船は、裏庭を目指し進んでいく。
屋敷内には、水路が巡らされ、裏庭の池へと流れこんでいた。
貴族の屋敷には、たいがい風水の理念から水路や、人口の池が備わっているが、都を探しても、船遊びができる規模のものはない。
ジオンは贅を尽くした。ミヒが屋敷で退屈しないようにという思いもだが、彼自身、楽しむことを考えていた。
「ああ、ミヒ、船頭は疲れたよ。ジオン、どうかお嬢さんに少し加減というものを教えてやってくれないか?」
ウォルが額に汗をにじませ懇願する。疲れきった表情を見て、ジオンとミヒは笑った。
「では、船頭に少し休みを与えよう。あそこに見える渡しに寄せてくれないか?」
ジオンの言葉にウォルは従い、船を寄せるとだまって消えてしまった。
ジオンは、そのまま、ゆっくりとミヒの体を抱き寄せる。はずみで船が少し傾いた。
驚きの声をあげるミヒを、ジオンはさらに、しっかり抱きしめた。
「ウォルのことが好きか?」
突然の言葉に、ミヒはどう答えていいのか戸惑いを隠せない。
物憂げに、胸に顔を埋めてくるジオンを見て、ミヒは来月のことを思った。
――ジオンは、もうここに来ないつもりなのだろうか。
サッと血の気が引く思いがした。
だが、今、ミヒの体を掴むジオンの手は暖かい。
ウォルに、この温もりが出せるわけはなく……。
鼓動が高鳴る。このままでいいのかと、流れる血が、ミヒを攻める。
前にいる男は、去っていく。
捨てられるのだ……と。
「私のことは、気にしないで。ジオンは王なのだから」
しかし、思ってもいない言葉が口をついた。
行かないで、捨てないでくれとすがりつきたいはずなのに。
できない。
自分の立場は痛いほどわかっていた。我をだせば、ジオンの苦しむ顔を見ることになる。
分をわきまえてこそ、健やかに過ごすことができる。
乳母のユイの言葉が思い起こされた。
それに……。
ジオンは必ず戻ってきてくれる。
確信とも思える何かが、ミヒの中にあった。
「できるだけ側にいる。いたいと思っているが、私は妃を……」
言葉を濁すジオンをミヒは制した。
「また今度考えましょう?」
きっと、宮殿で何かが起こったに違いない。
顔をゆがめるジオンの姿は痛々しく、悲愴な面持ちは、妃など単なる言葉のあやで、もっと恐ろしい何かがあると、語っているように見えた。
ミヒは胸に崩れるジオンをそっと抱きしめた。
共に過ごせればそれでいい。
この温もりは、心を鎮めてくれる。
……そう。このまま、時は流れる。
何も心配することはないのだから……。
このままでよいのだろうか?
水面を眺めつつ、ウォルは思う。
王が訪ねるときですら、警備を置かないこの屋敷で、これからもミヒは無事に暮らしていけるのだろうか。
宮殿から戻ってきたジオンの顔は、いつも以上に厳しかった。
(……後宮の責めを受けたのか。)
確かに、世継ぎの問題がある。もし、ミヒに子ができれば、後宮のみならず、家臣すべてを巻き込む騒ぎになるのは、目に見えている。
いっそ自分がミヒを引き取ろうか。
王が家臣のウォルの屋敷を訪れるなら、問題はない。しかし、それで、後宮が、あの女官長が、黙っているはずがない――。
ウォルの心はいっそう乱れた。