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於田縫紀
7
第10話 線路の向こう
線路は、夕方になると遠くへ行きたがる。
磁馬はそう思った。
踏切の手前に立つと、
二本の線が町の奥へ伸びていた。
家の屋根。
電柱。
小さな畑。
駅の灯り。
その先へ、線路はまっすぐ続いている。
どこまで行くのかは見えない。
けれど、
どこかへ行くことだけはわかる。
磁馬は踏切から少し離れた場所に座った。
鞄を膝に置く。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
古い時計。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
線路を描く。
線を一本。
もう一本。
簡単そうで、難しい。
まっすぐ描くと、ただの線になる。
揺らして描くと、線路ではなくなる。
磁馬はゆっくり息を吐いた。
踏切が鳴る。
かん、かん、かん。
遮断機が下りる。
夕方の風が、
線路の上を低く通っていく。
列車が来た。
短い車両が、町の奥から現れる。
窓に夕方の光を乗せている。
通りすぎる。
音が近づき、
大きくなり、
すぐ遠ざかる。
磁馬の髪が少し揺れた。
列車が去ったあと、
線路はまた静かになった。
「ずっと描くの?」
声がした。
磁馬が顔を上げると、
薄桃色の上着を着た少女が立っていた。
肩の少し上で切りそろえた髪。
手には小さな紙袋。
踏切の音が消えたあとも、線路の先を見ている。
「うん」
磁馬は答えた。
「線路だけ?」
「線路と、その向こう」
「向こうって、見えないよ」
「見えないから描く」
少女は少し考えた。
「変な人」
「よく言われる」
「私は環」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
環は磁馬の横にしゃがんだ。
「ここ、夕方が一番いいよ」
「知ってるの?」
「毎日見るから」
環は線路の先を指した。
「あの曲がったところ、列車が消えるでしょ。そこが好き」
磁馬はそこを見た。
線路は遠くで少し曲がっている。
その先は建物に隠れて見えない。
列車はそこへ行くと、
急に町から消える。
「いい場所だ」
「でしょ」
磁馬はその曲がり角を描いた。
環の横顔も描く。
踏切の音を待つ顔。
列車が消える場所を知っている顔。
その時、
駅の方から駅員が歩いてきた。
灰色の制服。
深めの帽子。
手には小さな旗。
「そこは線路に近すぎないか」
磁馬は少し下がった。
「すみません」
駅員は磁馬のスケッチ帳を見た。
「絵か」
「うん」
「線路を描くのか」
「うん」
「変わってるな」
「よく言われる」
環が言った。
「郷田さん、この人、線路の向こうを描くんだって」
郷田は線路の先を見た。
「向こうは、駅を三つ越えたら山道だ」
「知ってるの?」
環が聞く。
「駅員だからな」
磁馬は少しうなずいた。
「見えない向こうにも、ちゃんとある」
郷田は帽子を直した。
「そりゃある」
踏切の近くで、
風がまた動いた。
磁馬の鞄の口が少し開く。
中から古い時計が滑り出た。
ころ。
小さな音。
時計は地面に落ち、
線路の方へ転がった。
磁馬の手が伸びる。
届かない。
時計は石の上で止まりかけ、
さらに傾いて、
踏切の柵の下へ入り込んだ。
環が息をのむ。
「落ちた」
「落ちた」
磁馬は立ち上がる。
郷田がすぐに手を出した。
「入るな」
磁馬は止まった。
「探す」
「線路内は危ない」
「入らない。でも探す」
郷田は時計の位置を見た。
柵の向こう。
線路の手前。
砂利の間。
手を伸ばせば届きそうで、
届かない。
環がしゃがんで見る。
「見えてる」
磁馬もしゃがむ。
古い時計は、夕方の光を受けていた。
針は動いている。
「見つかるまで帰らない」
磁馬が言うと、
環がうなずいた。
「だと思った」
郷田はため息をついた。
「次の列車まで少しある。道具を持ってくる」
郷田は駅へ戻った。
環は時計を見守るように座った。
「時計、大事?」
「うん」
「時間を見るため?」
「時間を忘れないため」
「同じじゃないの?」
「少し違う」
環はわからない顔をしたが、
それ以上聞かなかった。
郷田が長い棒と小さな網を持って戻ってきた。
「触るなよ」
「うん」
郷田は柵の外から棒を入れた。
時計に近づける。
少し押す。
時計が動く。
磁馬は息を止めた。
踏切の向こうで、
かすかな震えがあった。
郷田が耳を澄ます。
「まだ来ない」
棒をもう一度入れる。
時計が砂利に引っかかる。
環が小さく言う。
「右」
郷田が右へ寄せる。
「もう少し」
時計が柵の手前へ近づく。
磁馬が網を受け取り、
そっと差し出した。
郷田が棒で時計を押す。
ころん。
時計が網に入った。
磁馬は両手で受け取った。
「見つかった」
時計の表面には少し砂がついていた。
でも割れていない。
針も動いていた。
磁馬は胸に抱えた。
「ありがとう」
郷田は棒を片づけた。
「次からは鞄を閉めろ」
「閉める」
環が言った。
「絶対?」
磁馬は少し考えた。
「かなり」
環は笑った。
郷田は踏切の方を見た。
「もうすぐ列車が来る。離れて描け」
「うん」
磁馬は踏切からさらに離れた場所へ移動した。
鞄の留め具を閉じる。
一つ。
二つ。
三つ。
時計は奥へしまう。
もう落ちない。
夕方は深くなっていた。
線路の向こうは、
さっきより遠く見える。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
今度は、
落ちた時計も描く。
線路。
踏切。
夕方。
環。
郷田。
砂利の間の時計。
そして、
列車が消える曲がり角。
ペンが紙を進む。
踏切が鳴る。
かん、かん、かん。
環は音を聞く前から振り返っていた。
「来る」
郷田が線路の安全を確かめる。
列車が来る。
窓に光を乗せて、
夕方の中を通りすぎる。
磁馬はその瞬間を描いた。
列車の形ではなく、
通ったあとの風を描いた。
線路の上の震え。
環の髪の揺れ。
郷田の制服の裾。
磁馬の紙の端。
列車は曲がり角へ向かい、
消えた。
そのあとも、
絵の中では線路の影だけが少しずつ伸び続けていた。
環がのぞき込む。
「動いてる」
「うん」
「線路の先が、少し近づいてるみたい」
磁馬は絵を見た。
紙の中の線路は、
夕方の中で少しずつ奥へ伸びている。
現実の線路は同じ長さだ。
でも絵の中では、
向こう側がゆっくり近づいたり、
遠ざかったりして見える。
郷田も絵を見た。
「列車が消えたあとの感じだな」
「うん」
「よく見てる」
磁馬は首を振った。
「見えなかったところを描いてる」
郷田は少し黙った。
環は線路の向こうを見た。
「私、あの先へ行ったことない」
「行きたい?」
磁馬が聞く。
「うん。でも、今はここで見るのが好き」
「ここも、向こうの一部かもしれない」
環は目を丸くした。
「どういうこと?」
磁馬は少し考えた。
「向こうから見たら、ここが向こう」
環は線路を見た。
しばらくして、
小さく笑った。
「それ、なんかいい」
夕方は、もう夜に近づいていた。
駅の灯りが強くなる。
踏切の音がない時間も、
線路は何かを待っているように見える。
磁馬は何時間も描いた。
列車が来るたび、
環は先に振り返る。
郷田は線路を確かめる。
磁馬は線を足す。
一回目の列車。
二回目の列車。
三回目の列車。
そのたびに、
絵の中の線路は少し違って見えた。
明るい線路。
影の長い線路。
灯りの映る線路。
同じ場所で、
時間だけが通過していく。
環は途中で紙袋から小さな菓子を出した。
「食べる?」
磁馬は顔を上げた。
「いいの?」
「時計、落として疲れたでしょ」
「落としたのは僕」
「探したのはみんな」
郷田も近くに来た。
「俺にもあるのか」
環は笑って、郷田にも渡した。
三人で踏切から離れた場所に座り、
小さな菓子を食べた。
磁馬は一口食べる。
甘い。
夕方の線路を見ながら食べると、
どこか駅弁の端みたいな味がした。
「うまい」
環は満足そうにした。
「でしょ」
郷田は菓子を食べながら言った。
「線路は、見てると出かけたくなる」
環が言う。
「郷田さんも?」
「駅員でもな」
磁馬はその言葉も絵に入れたかった。
でも言葉は線にならない。
だから、
郷田が線路を見ている横顔を描いた。
環が菓子の紙を小さく畳んでいる手も描いた。
使った後の紙は、
環が持ち帰ると言った。
磁馬はうなずいた。
この時代のものが、
この時代で片づくならいい。
最後の列車が通るころ、
辺りはすっかり暗くなっていた。
でも、
線路の向こうには、
まだ夕方の名残があるように見えた。
磁馬は最後の線を入れた。
絵の中では、
夕方の線路がずっと続いている。
列車が来る。
通りすぎる。
曲がり角へ消える。
踏切が上がる。
また静かになる。
時計が落ちる。
見つかる。
また鞄へ戻る。
環が線路の先を見る。
郷田が時計を確かめる。
磁馬が描き続ける。
何時間も描いた夕方が、
一枚の紙の中で、
ゆっくり伸びていた。
磁馬は小さな紙を二枚出した。
環には、
踏切のそばで線路の向こうを見る姿。
薄桃色の上着。
短くそろえた髪。
列車が消える曲がり角を知っている目。
郷田には、
踏切の前で安全を確かめる姿。
灰色の制服。
深めの帽子。
手に持った時計。
環の絵では、
遠くの線路がほんの少し夕方の光を残していた。
郷田の絵では、
踏切の影がゆっくり動いていた。
「くれるの?」
環が聞いた。
「時計を見守ってくれたから」
郷田は絵を受け取って、
少し照れたように帽子を直した。
「駅に飾るには、俺が目立ちすぎるな」
環が笑った。
「いいじゃん。郷田さん、いつもそこにいるし」
磁馬は鞄を確かめた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
時計。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
線路の向こうは、もう見えにくい。
でも、
見えないだけで続いている。
磁馬は立ち上がった。
環が言った。
「また描きに来る?」
「うん」
「夕方に?」
「夕方に」
「たぶん?」
磁馬は少し笑った。
「たぶん」
郷田が言った。
「次は時計を落とすなよ」
「かなり気をつける」
環は手を振った。
郷田は駅の方へ戻っていった。
磁馬は線路から離れた道を歩き出した。
背中の鞄の中で、
線路の向こうの絵が静かに時間を進めている。
夕方の光。
踏切の音。
通りすぎる列車。
落ちた時計。
見つかった時計。
曲がり角の先。
どこまで続くのかは見えない。
けれど、
どこかへ続いていることだけは、
絵の中でずっと動いていた。
コメント
1件
あー、めっちゃ良かった…「第10話 線路の向こう」、静かな夕方の線路が一枚の紙に閉じ込められてる感じ。磁馬の「見えないから描く」って言葉、ものすごく腑に落ちたわ。時計を落として環と郷田さんと一緒に探す流れも、誰も怒らず自然に手を貸すのが温かかった。最後に環に「向こうから見たら、ここが向こう」って返すところ、染みるなあ。戦闘もない日常の一瞬だけど、こういうのがたまらなく好きです。柘榴とAIさん、素敵な時間をありがとうございます✨