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井川奎
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井川奎
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井川奎さん、第1話読ませていただきました! 哲学書の書き込みをきっかけに、見知らぬ相手と文通が始まる——その設定、とても素敵ですね。晴人の「暇じゃない」と言い張る感じと、明や雅子にツッコまれる空気感が絶妙で、軽やかな語り口に惹き込まれました。 三人の掛け合いのリズムが心地よくて、中村達夫という人物がどんな人なのか、この先どう関わっていくのか、続きがすごく気になります。これからのお話、楽しみにしています🌷
「深淵を長く見つめるなら、深淵もまたこちらを見つめるっていう有名な一節があるだろう?」
いつものカフェで、晴人《はると》は言った。
「なんだよ、その呪文みたいな文言は」
これだから伯爵家の子息は厄介なんだと言いたげに、明は眉をひそめる。
「まあ、君の家は銀行家だからね、哲学は興味ないか」
「いや、興味というより、小難しいことが嫌いなだけさ」
ケラケラと明は笑う。
「晴人、どうでもいいけど、それで暇つぶしになるというのか?」
「いえ、田村様。それが九条様は暇じゃないと……」
明のためにコーヒーを運んできたマスターが言った。
「は?!暇じゃない?!じゃあなんで、カフェにいるんだよ?!」
「気分転換だ」
「いや、晴人。それを暇と言うんじゃないのか?」
明の一言に、晴人は考え込む。
「……そういう考え方があったか……」
言って、コーヒーを一口飲み、積み上げている本を一冊手に取った。
「……で、晴人。なんでそんなに本があるんだ?」
「古書店で買ったのだ。実に興味深い事があった……」
ニーチェの本をペラペラとめくり、見てみろと晴人は、明に差し出した。
本のページには、線が引かれ、何やら書き込みがされている。
「元の持ち主が書き込んだようだ……」
どこか嬉しそうに晴人は言った。
「ああ、古本なら。たまに書きこみがあるからな」
明は、よくあることだと言いつつ、気にしてないのかと晴人に質問した。
「いや。これが実に興味深くてな。おかげで友を見つけられた」
「はあ?」
話が見えない明に、晴人は最後のページを見せる。
「……神田旭町、中村達夫……?」
余白に達筆で書かれてある。
「前の持ち主……というわけか?」
明の疑問に晴人は頷く。
「ああ、つまり、この人物が書きこんでいたという訳だ」
ペラペラと晴人はページをめくるが、けっこうな量の書き込みがある。
何か必死に究めようとしてる。そんな気迫が伺われた。
「で?この中村って人に何かしたのか?」
晴人のことだ、好奇心から何か起こしたに違いない。
明の読みは正しかった。
「ああ、手紙を出した」
「は?」
「返事が来た」
「えっ?!」
意外な展開に明は驚く。
十日程前、晴人は退屈しのぎにと、神保町で書店巡りを行った。
その一軒の古書店でニーチェ、ショーペンハウアー、カントなどの哲学書を手に入れた。
晴人はすでに新刊を入手済みだったが、興味を引かれたのは、元の持ち主が書き込んだであろう数々の疑問だった。
つまり、本のページの中で、哲学論議が繰り広げられていたのだ。
さらに、どの本にも、神田旭町、中村達夫と書かれていた。
これだけの書き込みを残した人物が、どんな人間なのか。晴人を刺激するには十分だった
そして、思い切って、中村という人物に手紙を出したという訳だ。
すると程なくして、相手から返事が来た。
こうして、今では、晴人は中村と哲学談義を手紙で行っているのだという。
「しかしだ。なかなか鋭いのだよ……」
相手の中村の言葉が、深いのだと晴人は言うと、ニーチェの本を読み始める。
「考えを求められてね。確かに中村君の疑問も一理あるんだ」
返事を書くために、本を再読しているのだと。そのため、暇はないのだと晴人は言った。
「それなら、家の書斎でやればいいだろう?」
明は理解できないとはかりに晴人へ言う。
「そうしていた。しかし、俺も行き詰まった」
だから、何か新たなひらめきを求め、カフェで本を読んでいるのだとか。
さも当然とばかりに、晴人はページをめくっている。
「あっ!いた!」
入り口ドアが開き、流行りの断髪、ワンピース姿の女性が入ってきた。
雅子だった。
「もう!ダニエル!なに本の虫になっているの?!昨日の観劇すっぽかして!」
婚約者なのだから、二人で出かけても良いだろうと雅子は少々ご立腹だ。
「雅子、今は忙しい。で、昔付き合っていた人物を重ねて、俺をダニエル呼ばわりするのは、どういう心理なのか?というよりも……フロイトを読んでみるか……君のこと、いや、女性心理が理解できるかもしれない」
現れた雅子に、晴人はすまして答えた。
「あーー、もう!田村さん聞いて!一事が万事これなのよ!訳の分からないこと言って!」
「ははは、こりゃ、当分暇にはならないな」
明は、肩をすくめる。
どうやら晴人は、中村という人物との文通──、哲学論議に夢中のようだった。
「で?その中村という人物、どういう人間なんだい?晴人、お前と文通できるぐらいだ、暇人なのか?」
「……さあ、良くは知らないのだ。個人的なことはあまり記さないからね」
「へえー、よく知らない相手と文通が続くな……」
明が感心した。
「ふうん、なんだか奇妙な話ね」
言うと、雅子は積み上げられている本を一冊取った。
ペラペラとページをめくり、
「……では、真理を見極めた後、人は何者になるのか?……はあ?!」
中村の書き込みを読み上げる。
「これは、お手上げね」
と、明に同意を求めた。
「ああ、雅子さん。暇なら、晴人の代わりに付き合いますよ?確か浅草オペラで、新しい演目始まってたはずです……」
「あら、浅草オペラ!久しぶりだわ。田村さん行きましょうよ!」
構わないかしら、と、雅子は晴人に伺いを立てる。一応は婚約者の自覚があるようだ。
「ああ、別に構わないさ。明と行ってくるといい」
言いながらも、晴人は本から目を離さない。
それほど本に夢中になっていた。