テラーノベル
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聖律騎士団本部、第三訓練中庭。磨き上げられた白い石畳が、円形に切り取られた空間。中央には何も置かれていない。剣も、標的も、遮蔽物もない。ここは武を競う場ではなく、ただ”選別”するためだけの、冷徹な祭壇だった。
朝の光が、感情を排したように均等に降り注ぐ。整列した騎士たちは、誰一人として鎧を纏っていなかった。代わりに身につけているのは、白地に淡い金の刺繍が施された儀礼用の長衣。聖律騎士団の中でも、実力と忠誠を認められた者だけに袖を通すことが許される、清廉なる拘束衣だ。
その列の端に、ラヴィニアは立っていた。鉄灰色の髪が、朝露を含んだ空気の中で静かな艶を放っている。戦場での実用性を重視し、耳の上で丁寧にまとめられたハーフアップ。その潔い髪型が、彼女の陶器のような首筋と、意志の強さを宿した横顔を際立たせていた。背筋は切っ先のように伸び、視線は前へ。しかし、その意識の半分は、数歩先に立つ一点へと注がれていた。
――アルベルト。
陽光を透かすブロンドのショートヘア。第一騎士隊長の背中は、相変わらず定規で引いたように真っ直ぐだったが、ラヴィニアには分かる。以前よりもその背中がどこか遠い。彼が王都上層部へ極秘裏に召喚され、戻ってきてから、何かが決定的に変わってしまった。
纏う空気が鋭利でありながら、どこか脆い。ラヴィニアは、その正体を言葉にできずにいた。
「第三騎士隊長、ラヴィニア」
名を呼ばれたのは不意だった。即座に思考を断ち切り、彼女は一歩、前へ出る。
「はい」
よく通る、玲瓏とした声だった。テールベルト――くすんだ緑色の瞳が、揺らぐことなく進行役を見据える。その瞳は、深い森の奥にある湖のように静かで、容易には底を覗かせない。
呼びかけたのは、広場の中央に立つ男――ジークではなかった。その脇に控えた執務官が、事務的に羊皮紙を読み上げているだけだ。
「対魔導近接戦、適性上。戦術理解、部隊指揮、実戦評価、共に基準値以上」
一拍、無機質な間が空く。
「聖律騎士団特別編成部隊”白耀剣”。隊長アルベルトの下、副官としての編入を命じる」
ざわめきは、起きない。衣擦れの音ひとつしない。それが、この場を支配する異常性だった。
名を呼ばれた者だけが前に出る。拒否権など端から存在しない。これは栄誉でも、懲罰でもない。ただ必要だから選ばれた。それだけのことだ。
ラヴィニアは一礼して列に戻る。その所作は、長年磨き上げられた剣技のように無駄がなく、洗練されていた。アルベルトは視線だけで彼女の動きを追い、すぐに逸らす。その目の紫が一瞬だけ、痛みのような色と混じり揺れるのを、ラヴィニアは見逃さなかった。
――彼女を、巻き込みたくなかった。
アルベルトの背中がそう語っている。そう願った時点で、もう運命の歯車に巻き込まれていることを、彼自身が誰よりも理解していた。
こつ、と硬質な足音が響く。ジークが、訓練場の中央に進み出た。白い外套を纏っていても隠しきれない、夜の闇のような冷たさがそこにある。彼が灰色の瞳を細めただけで、周囲の気温が数度下がったような錯覚を覚えた。
「集まった者たちへ」
声は低く、しかし驚くほどよく通る。
「これより、お前たちは聖律騎士団”白耀剣”として行動する」
新たな隊の名を聞いても、誰も眉ひとつ動かさない。ジークの視線が冷徹に列をなぞっていく。
「任務は、ひとつ」
彼は溜めることなく、標的の名を告げた。
「”特級異端隔離対象”第一種――対象ソラス、およびライトリム村全域の制圧、ならびに隔離」
瞬間、空気がわずかに沈む。鉛を飲み込んだような重圧。ラヴィニアは、喉の奥がひりつくのを感じた。
“少女”だという噂。
“聖女”と呼ばれ、辺境で崇められていること。
そして村人たちが、彼女を守るために国へ牙を剥き始めていること。
断片的な情報は既に耳に入っている。だが、それらの感傷は、今この場では何の意味も持たない。
「お前たちに求めるのは、正義ではない」
ジークの声は淡々としていた。感情という不純物がきれいに濾過されている。
「命令の遂行だ」
絶対的な響き。
「感情は持っても構わない。が、それを理由に剣を鈍らせるな。……以上だ」
ラヴィニアの視線が、吸い寄せられるように再びアルベルトへ向く。彼は正面を見据えたままだ。だが、その横顔に、ラヴィニアは決定的な違和感を覚えた。
――迷っている。
あの実直で、誰よりも騎士らしかった彼が、揺らいでいる。清潭な顔に割り切れない葛藤が澱んでいるのが、はっきりと分かってしまった。
だからこそ、ラヴィニアは視線を逸らさなかった。その海緑石の瞳に、静かな決意の火を灯す。この隊に選ばれた意味を、彼女は自分なりに咀嚼していた。
彼が揺らぐなら、彼が正しさの重圧に押し潰されそうになるなら。それを側で支えるのが、自分の役目なのだと。
「出立は、三日後」
ジークが短く告げ、背を向ける。その瞬間、白耀剣はただの名簿上の記号ではなく、血肉を持った現実として動き出した。
「解散」
号令と共に、訓練場を後にする騎士たちの足音が、石畳に規則正しく響き始める。ラヴィニアは歩調を合わせ、自然な動作でアルベルトの隣に並んだ。
「……お疲れ様です、隊長」
彼女は、あえていつも通りの、平坦で穏やかな口調で言った。アルベルトが立ち止まり、一瞬だけ彼女を見やる。
日差しを受けて輝く高貴な金髪と、知的な鋼色の髪が並ぶ。数拍置き、何かを言いかけて、アルベルトは唇を引き結んだ。結局、言葉は落ちてこない。その重苦しい沈黙こそが、これから始まる任務の過酷さを、何よりも雄弁に物語っていた。
⬛︎
訓練場に足を踏み入れた瞬間、ラヴィニアは眉をひそめた。――匂いが、違う。武骨な鉄と油の匂いではない。乾いた薬草、焦げた紙、そして微かに鼻を刺す、儀式で使う焼き塩の香り。
白耀剣専用に割り当てられたこの地下訓練場は、天井が低く、壁一面が吸音性の黒曜石で覆われている。部外への魔力漏洩を防ぐための閉鎖空間。ラヴィニアのブーツの音が、床に触れた端から妙に吸い込まれていく。まるで、ここでは音すらも検閲され、記録されているかのようだ。
「各自、装備を確認しろ」
張り詰めた空気を裂く、アルベルトの号令。ラヴィニアは艶やかな髪を揺らし、木台に整然と並べられた”新品”へと向かった。
最初に手に取ったのは、剣だ。王都魔導研究所が総力を挙げて鍛え上げた、最新鋭の複合魔導剣。鞘の内側にびっしりと刻まれた細密な術式が、周囲の薄明かりを貪欲に吸い込んでいる。抜けば、現れたのは白磁のような刀身だった。研ぎ澄まされた鋼ではない。魔力を帯びた物質なら何であれ――それが障壁であれ、肉体であれ――等しく”断裂”させるための、拒絶の色。
軽く振ってみる。ひゅん、と風を切る音が、手の感覚よりも半拍速く響いた。
「随分と、気が早い剣ですね」
ラヴィニアは手首に残る違和感に目を細めた。重さを感じない。いや、剣自体が使い手の魔力に反応し、意思を持つかのように軌道を先導してくるのだ。扱いこなせれば、思考するよりも速く敵を斬れる。だが、未熟な者が使えば、剣に振り回されて終わるだろう。
「当然だ。それは凡庸な騎士のために作られていない」
別の隊員が、真新しい槍を検分しながら答えた。
「見てみろ、この穂先を。……えげつないな」
流れるようにラヴィニアの視線が横へ向く。そこに置かれていたのは、通常の倍ほどの長さがある長槍だった。鋭利なだけではない。螺旋状に溝が掘られ、柄には魔力充填用のトリガーが仕込まれている。突き刺すと同時に魔力を炸裂させ、対象の内部から破壊する対魔導・対重装甲兼用の刺突兵装。撫でるだけで致命傷を与えかねない、あまりにも攻撃的な造形だった。
そして、盾。これは他とは異質だった。小型の円形盾。その表面には金属ではなく、ゼリー状の透明な皮膜が張られている。指で触れると、ひんやりと冷たく、ぶよぶよと波打った。
「衝撃を受けると、拡散する」
教官が説明を加える。
「物理衝撃も、魔力干渉もだ。受け止めるのではなく、無効化して弾き返す」
最後に、鎧。白耀剣の制式鎧は、関節部が異様に柔らかく、動きを阻害しない。その代わり、心臓と喉元を守る装甲だけが異常なほど分厚く、重かった。ラヴィニアは、その設計思想に無意識に奥歯を噛みしめた。
心臓と、声を、守るため。――相手は、言葉を使う。声で、こちらの感情を揺さぶり、心臓を狙ってくる。だから、そこを物理的に塞ぐのだ。
訓練が始まる。
まずは基本動作。剣を振る、踏み込む、止める。そのすべてが常識の外にある。剣が走りたがり、身体が強制的に前へと引っ張られる。斬撃のたびに、白い残像が遅れて網膜に焼き付く。
「魔力流動に身を任せろ! 制御しようとするな、同調しろ!」
教官の怒声が飛ぶ。ラヴィニアは呼吸を整え、剣の欲求を理解しようと努める。汗が額を伝う。それ以上に、視界の端に映る光景が気にかかった。
アルベルトだ。
彼ほどの剣士ならば、この程度の”癖”はすぐにねじ伏せるはずだ。
実際、彼の動きは正確無比だった。剣先が、わずかにーー本当にわずかに泣いているのを除けば。斬るべき瞬間に一握の躊躇いがある。高性能すぎる剣が、主人の無意識の迷いを増幅し、動きのノイズとして露呈させてしまっているのだろうか。
彼は、想像している。その白刃が肉を断つ感触を。相手の顔を。それは”人”を斬る騎士としては美徳だが、”魔女”を処理する執行者としては致命的な欠陥だ。
「第三騎士隊長、ラヴィニア」
教官が名を呼ぶ。
「対人・対魔想定。前へ」
相手は訓練用の人形。頭部には高出力の簡易魔導核が埋め込まれ、本物の魔術師と同等の反応速度を持つ。
合図。
人形が爆発的な速度で迫る。ラヴィニアは思考を止めた。ただ剣の導きに従い、踏み込む。キィン、と高い音が鳴った。彼女が剣を振るうよりも速く、刀身から不可視の斬撃が飛び、人形の腕を両断していた。
遅れて、物理的な刃が胴体を薙ぐ。
圧倒的な破壊力。障壁ごと肉体を断つ、二段構えの絶技。だが、同時に視界が歪んだ。人形が最期に放った防御術式が、盾に接触する。
――やめて。
一瞬、幻聴のようなノイズが脳裏を走る。ラヴィニアは反射的に盾を突き出した。表面の膜が淡く発光し、衝撃と、そこに含まれる”残留思念”のようなものを無感情に四散させた。そこには手応えがない。斬った感触も防いだ重みもない。ただ、結果だけが残る。
終了の合図が鳴り、地下訓練場に荒い息遣いが満ちた。ラヴィニアは白刃を見下ろし、小さく拳を握った。微かに震えているのは、恐怖からではない。装備との共鳴による、生理的な嫌悪感だ。彼女は理解してしまった。
この装備は、ただ強いだけではない。使い手から”相手を理解する機能”を奪うために作られている。手応えを消し、迷いを加速力で塗り潰し、対象をただ処理すべき物体に変える。でなければ、これから向かう場所で正気を保てないからだ。
呼吸を整え、顔を上げると、アルベルトと視線が交錯した。濡れたブロンドの隙間から覗く双眸。そこには、ラヴィニアが抱いたのと同質の寒気と、昏い懊悩が潜んでいる。言葉はいらなかった。この嫌悪感を共有しているという事実だけで、二人は共犯者だった。だからこそ、ラヴィニアは刃を鞘に滑り込ませ、硬質な音と共に彼との距離を詰めた。
「隊長」
声音は低く、しかし研ぎ澄まされていた。
「この装備、長く使えば感覚が狂います。人の温かさを、忘れてしまうほどに」
人の温もりや、肉を断つおぞましさ。それらを置き去りにしたまま、効率的な破壊だけが手に残る。アルベルトは否定しなかった。乱れた前髪を無造作にかき上げ、乾いた笑みを浮かべる。
「……だろうな。我々にふさわしい道具だ」
「でも」
ラヴィニアは一歩踏み出し、その瞳の奥底を覗き込んだ。彼女の目が潤んで光ると、彼を射抜く。
「それでも行くなら、私が、隣にいます」
アルベルトの瞳孔が、わずかに震えた。その一瞬の隙、硝子のような脆さを、彼女は見逃さない。
「貴方の刃が鈍るなら、私がとどめを刺します。貴方が躊躇うなら、私が背負います」
地下訓練場の隅で、古びた燭台の炎がひとつ、燃え尽きる音を立てた。光源を失い、伸びた隊員たちの影が、二人の足元を黒く塗り潰していく。ラヴィニアは冷たい確信を飲み込んだ。
――これは、魔女を討つための剣ではない。自らの迷いを斬り捨て、人であることを辞めるための剣だ。そして、その白い刃が最初に誰の心を殺すことになるのか。彼女は、その答えに気づかぬ振りを突き通すことに決めていた。
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