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夜の冷たい空気が、教室に残る熱をひんやり奪っていた。
ドアが小さな音を立てて開き、紺色のコートの女子が入ってくる。
肩の力が入りすぎているのが、一目でわかった。
「こんばんは……」
その声は、息が絡まったようにかすれていた。
遥は視線を合わせる前に、椅子を示した。
「そこ、座っていいよ」
女子は座ると、両手を膝の上で握りしめた。
「……親の言う通りに生きるのが、もう苦しい。
進学先も部活も、全部“こうしなさい”って。
逆らったら、家の空気が凍る。
“お前のため”って言われると、何も言えなくなる」
吐き出すように言ったあと、彼女は俯いた。
沈黙が、蛍光灯の音だけを際立たせる。
遥は腕を組んで天井を見た。
「“お前のため”って、便利な言葉だよな。
本当は“自分が安心したい”って意味だったりする」
女子がはっと顔を上げる。
「……そう、かもしれない」
「俺もさ、家のことを全部“俺のため”って言われてきた。
でも、それで俺が楽になったこと、一度もない」
遥は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「親が決めたレールから外れるって、裏切りみたいで怖いよな。
でも、外れることが“親不孝”とは限らない。
自分で選ぶって、それだけでちゃんと生きてる証拠だから」
女子は膝の上の拳をほどきながら、小さく息を吸った。
「でも、外れたら……嫌われるかもしれない」
「嫌われるのは、怖い。
けど、嫌われないために自分を潰す方が、もっときつい」
窓の外で、風が枯れ枝を揺らした。
遥は目を細め、淡い街灯を見つめる。
「親の期待を全部壊す必要はないと思う。
ただ、“これは自分が選んだ”って言える一歩を、
どこかで見つけてほしい」
女子はしばらく黙ったあと、かすかに笑った。
「……一歩か。
いきなり全部じゃなくても、いいのかな」
「うん。
一歩で十分。
その一歩が、自分の足で立ってる証になる」
教室に静かな空気が戻る。
女子は鞄を肩にかけ、ゆっくり立ち上がった。
「ありがとう。少しだけ、呼吸が楽になった」
「それなら、今日ここに来た意味がある」
ドアが閉まったあと、
遥は自分の手首に残る古い痕を無意識にさすった。
――一歩。
誰に見えなくても、それを選べるかどうか。
その重さを、遥は誰より知っていた。