店に入ると、新藤が奈緒の分のコーヒーも買ってくれたので奈緒は礼を言う。
そして二人は向かい合って座った。
「それにしても久しぶりだなぁ。麻生さんが退職した日、僕は夏子(なつこ)と新婚旅行中だったから会えずじまいだったね」
「はい。夏子さんはお元気ですか?」
「うん、元気にしてる。実はハネムーンベイビーを授かってね、少し前まではつわりがひどかったんだけど、最近漸く落ち着いてきたよ」
「それはおめでとうございます」
夏子は奈緒と同じ会社の三期上の先輩だった。奈緒にいつも優しくしてくれたとても素敵な先輩だった。
本来ならば、新藤と夏子の結婚の後に奈緒と徹の結婚が続く予定だった。
二組のカップルは同じような幸せを目指していたはずなのに、奈緒と徹はそこへたどり着けず終わった。
もちろん尊敬していた先輩夫妻に赤ちゃんが出来た事はとてもめでたい事なのに、奈緒はほんの少し気分が沈んでいる自分に気付く。
その時、新藤が言った。
「今日麻生さんに会ったって言ったら、夏子はびっくりするだろうなぁ。夏子は麻生さんの事をすごく心配していたから」
「すみません、色々とご心配をおかけして」
「いや、あんな事があったんだから仕方ないよ。でも元気そうで安心した。やっぱり環境を変えたのが良かったのかな?」
「はい、思い切って転職して良かったかもしれません」
奈緒は穏やかに微笑むと、両手でカップを持ちコーヒーを一口飲む。
その時、新藤が奈緒の左手の薬指にある指輪に気づいた。
「その指輪はもしかして徹の?」
「あっ、いえ、これは違います。徹の事は、もう過去の事ですから」
「という事は、新しい出会いがあったんだね?」
「いえ、これはそういうのじゃ……」
奈緒は頬を赤く染める。
「隠さなくていいよ。麻生さんに良い出会いがあったのなら僕も嬉しいし、きっと夏子も喜ぶと思うよ」
「……はい」
「そうか。いい出会いがあったんだね。だったらもう麻生さんに言っても大丈夫かな?」
「言ってもいいって……何をですか?」
「うん、実はね、徹の事なんだ」
「徹の?」
「うん。あいつは、本当は麻生さんが思っているような男じゃないんだ」
「えっ?」
奈緒は新藤の言っている意味がよくわからなかった。
「あいつは元々、麻生さんが思っているような誠実な男じゃないんだよ」
「……それってどういう意味でしょうか?」
「俺は徹と同期だから、入社した時からあいつの事を色々見てきて知ってるんだけど、若い頃のあいつはすごく女にだらしなくてね……」
「……だらしないってどういう?」
「うん、例えば社内の女性に手を出してとっかえひっかえとか、二股をかけて騒動になった事もあったし……あとは、既婚者の女性と不倫した事もあったかな。とにかく女性に対していつも節操がなくてさ。まあそれも麻生さんが徹と知り合う前の事なんだけどね」
「…………」
奈緒は驚いて何も言えなかった。
新藤が今言った事を奈緒は全く知らなかった。あまりにも衝撃的過ぎて言葉を失う。
徹が奈緒の前に付き合っていた女性が同じ会社の女性だというのは知っていたが、もう既に退職していると聞いていた。
しかし二股や不倫の話は全く知らなかった。
「実は徹が麻生さんと付き合い始めたのも、最初ゲームのつもりだったんだ」
「ゲーム?」
その衝撃的な言葉を聞き奈緒は絶句する
「うん、ある日徹がこう言ったんだよ。麻生さんを落して見せるってね。徹がある特定の女性に興味を持つ時は、いつもゲームみたいに始まるから、僕達はまた徹の悪い癖が始まったって思ってたんだ」
「…………」
「ごめん。かなり酷い事を言ってるよね」
「いえ……」
「今更言うのもどうかなと思ったんだけど、麻生さんにいい出会いがあったって聞いたから、それなら尚更言っておいた方がいいかなって。我慢してもうちょっとだけ聞いてくれる?」
「はい……」
「で、徹は麻生さんにアタックを開始した。徹は最初結構苦戦していたみたいだよね、麻生さんは身持ちが堅いから。それでも徹はアタックし続けて、漸く麻生さんと付き合い始めた。その時僕達はまたきっとすぐに別れるだろうって思ってたんだ。なぜなら徹は女性を落すといつもあっさり別れたからね、まるでゲームみたいに」
「…………」
「でも二人は一向に別れる気配がない。で、不思議に思った同僚の一人が徹に聞いたんだ。麻生さんとはいつ別れるのかって。そうしたら徹の奴、本気になったから別れないって言ったんでみんなびっくりしたんだよ。徹が麻生さんと付き合い始めて変わったのは僕達も気付いていた。もちろん良い方向にね。だから今度は本当に心を入れ替えて誠実な男に生まれ変わったのかとみんな信じ始めていたんだ。そんな時あの事故が起きた。そして最期は三輪さんと……。あれを知った時、僕達も相当ショックだったよ。徹が生まれ変わったと信じていただけにね」
新藤は神妙な面持ちでコーヒーを一口飲む。そして続けた。
「徹と親しかったのに酷い奴と思われるかもしれないけれど、あえて本音を言わせてもらうよ。僕は徹が死んだのは自業自得だと思ってる。徹があんなむごい形で人生を終えたのは、全て自らが招いたものだったんだ。麻生さんと出会って折角心を入れ替えるチャンスが来たのに、結局また同じ過ちを繰り返してしまった。だからあの事故は天罰だったと思う」
「…………」
「でね、僕が麻生さんに何を言いたいかって言うと、徹の事はもう忘れろって事なんだ。徹はあの通り酷いやつだったんだよ。だから麻生さんがいつまでも徹の事を覚えていてあげる必要なんてないんだ。徹が君に対して誠実ではなかったのは事実なんだから。それに麻生さんにはまた新しい出逢いがあった。だったら徹の事は一日も早く忘れて、君はその指輪をプレゼントしてくれた男性と幸せになる事に集中するべきなんだ。そして今度こそ本当に幸せになってやれ。徹と三輪さんがあの世からうらやましがるくらい思いっきり幸せになって、あいつらにギャフンと言わせてやれ」
新藤の言葉を噛みしめるように聞いていた奈緒の頬に一筋の涙が伝う。
その涙は徹に対する怒りや悲しみといったものではなく、もっと違った種類の涙だ。
その時奈緒の脳裏に、優しく微笑む省吾の顔が思い浮かんだ。
銀雪が降りしきる浜辺で、傘を差し出す省吾の優しい顔が浮かんで来たのだった。
(深山さんに逢いたい……すごくすごく逢いたい……)
奈緒はただ、省吾に逢いたいと強く思っていた。
奈緒はバッグからハンカチを取り出すと、次々と溢れて来る涙を拭った。
そして新藤に言った。
「話して下さってありがとうございました。新藤さんのお陰で、私、前へ進めそうです」
そう言い終えた奈緒は、何かから解放されたように穏やかな笑みを浮かべた。
その後二人は駅の改札で別れた。
不思議と奈緒の気持ちはすっきりしている。
新藤のおかげで、漸く気持ちの整理がついたような気がした。
そして奈緒は今、自分が心から願っている事をはっきりと認識する事が出来た。
すっかり気持ちが軽くなった奈緒はフフッと微笑むと、ホームへ続く階段を軽やかに降りて行った。
コメント
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真実は酷だ。だけどわざわざ話してくれた新藤さんは奈緒ちゃんが過去に囚われず前を向いて欲しかったのだろうな。 うん、気持ちを切り替えて省吾さんと向き合っていこう💛
かなり酷な内容ではあるけど、前に進む為には必要な話。。 新藤さんが背中を押してくれたね。 奈緒ちゃん、これで心置きなく省吾さんへ飛び込め! ダイブダイブ省吾ダーイブ♡ それにしても徹ちゃん、本当クズだよ。 結婚しなくて良かったね!
マリコ様今日も3話ありがとうございます^_^ 新藤さん 辛いけどいい 奈緒ちゃんの背を押す話をありがとうございました 奈緒ちゃん自信を持って前に省吾さんへ進んでいけますね