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⚠︎山中柔太郎は、吉田仁人をリーダーとするアングラ組織の一員だ。
その組織を追っているのは、特殊事件捜査係(SIT)の佐野勇斗。
ある日、山中柔太郎はリーダーである吉田仁人から、組織を嗅ぎ回っている佐野勇斗の抹消を命じられる。
第1話▶︎ 雨中標的
「仁ちゃん、ほんまに柔が適任なん?」
舜太がソファの背にだらしなく腕を乗せながら言うのを、チラッと横目でみて、仁人は再び手元の資料に視線を落とした。
「適任かどうかは関係ない」
低い声が落ちる。
「やるか、やらないかだ」
「うわ、パワハラ上司や」
舜太がけらけら笑う。
その横で、仁人はふと目を細めた。
「“悪は善のことを知っている。しかし善は悪のことを知らない”…か」
独り言みたいな声だった。
その声に舜太が即座に顔を上げる。
「カフカやん」
仁人は少しだけ満足そうに笑い、舜太は呆れたように天井を見上げた。
「で? 結局なんなん、柔にやらせる理由」
「向いてるからじゃない、向いてないからだ」
数秒、沈黙のあと舜太が眉を寄せる。
「テツガク?」
「現実だよ」
コーヒーカップに口をつけようとした仁人が笑いながら言う。
「柔は、優しい」
舜太が頷くと、さらに仁人は続ける。
「だから、人を騙す時いちばん綺麗な顔をする」
舜太が「あー…」と気まずそうに笑う。
「それ本人に言ったら怒るで」
「怒るならまだいい」
「え、なにその不穏な言い方、怖ぁ」
仁人はそこでようやくコーヒーに口をつけた。
立ち上る湯気がゆっくり天井へ昇っていく。
「柔とバイバイはいややな…」
手の甲で涙を拭く演技をすれば
「お前、ほんとノンデリだな」
と、仁人は片方の眉毛を持ち上げて、明らかに嫌そうな顔をする。
「仁ちゃんに言われるなら褒め言葉やね」
「どういう意味だオラ」
「うわ、反社やん怖っ」
「反社なんだよ、こっちは」
「ほんまや」
舜太は吹き出して笑う。
その笑い声の向こうで、仁人だけが静かに目を伏せていた。まるで、もう少し先の未来まで見えているみたいに。
雨は、まるで街そのものを洗い流そうとしているみたいだった。
佐野勇斗はカバンを頭上に掲げながら、小走りでアーケードを目指した。しかし間に合わない。数秒でシャツは肌に張りつき、前髪から雫が落ちる。
視界の先に見えたコインランドリーへ駆け込み、軒先で息を吐いた。
「最悪。夏の雨、ナメてた…」
誰に言うでもなく呟く。
店内では乾燥機が低い唸りを上げ、湿った空気に洗剤の匂いが混じっていた。
――いた。
道の向こう側から、その姿を確認する。
山中柔太郎は傘も差さずに、キャップを目深に被り、軒下の男を遠目に見据えた。ターゲット、佐野勇斗。特殊事件捜査係と聞いていたが、 見た目は普通の社会人みたいだ。
深く息を吸う。いつも通り。
笑って、近づいて、距離を詰める。
それだけなのに、今日は妙に鼓動が速かった。
「うわっ、びしょ濡れ」
柔太郎は佐野勇斗のいる軒下へ飛び込み、手で髪を乱暴にかきあげた。わざとらしく肩をすくめる。
「凄い雨ですね」
声を掛けると、佐野勇斗は少し驚いたようにこちらを見た。
「あ、ほんとそれ。マジで突然すぎません?」
思ったより幼い顔だな、と柔太郎は思う。
それに写真で見るより、ずっと人の良さが滲む話し方だった。
「良かったら、使います?」
ポケットから可愛い牛柄のハンカチを取り出す。
勇斗は一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「え、いいんですか?」
「どうぞ、もう一枚あるから」
「…じゃあ借ります。お兄さんの顔、なんか断れない感じだし」
そう言って笑う顔が、妙に無防備だった。
「しかも、なんかいい匂いする」
「柔軟剤かな?」
「いや、香水? こういうの詳しくないけど」
距離が近い。思っていたより、ずっと簡単に人の境界線に入ってくる。
近すぎる距離に、柔太郎は半歩だけ身体を引く。
それを誤魔化すように、笑みを浮かべた。
――やりづらい。
胸の奥で、小さく音がした気がした。
他所行きの笑みを崩さないまま、視線だけを外す。
けれど相手は、その距離を気にする様子はない。
思っていたタイプと違う。
もっと警戒してくる、もっと壁を作る、そういう人間だと思っていた。
「俺、柔太郎。この先の“カフェYJ”って喫茶店で働いてるんで、返すならそこ来てください」
「喫茶店?」
「そ。アイロンかけて返してくださいね」
冗談めかして言うと、勇斗は吹き出した。
「ハードル高っ」
ちょうどその頃、雨脚が少し弱まる。
柔太郎はタイミングを逃さず駆け出した。
「絶対返してくださいよー!」
振り返ってそう叫べば、勇斗がハンカチを軽く振って見せた。
その瞬間、柔太郎は妙な違和感を覚える。
獲物を前にした高揚感とは違う。
もっと嫌な、胸の奥がざわつく感覚。
久々の仕事だからだ、と自分に言い聞かせた。
翌日の夕方。
柔太郎の”バイト先”の喫茶店である、カフェYJは古いジャズやクラシックが静かに流れる小さなお店だ。 店内はいつも少しだけ暗くて、秘密が似合う。店長と店員が1人づつ、カウンター席が4つと、ソファ席が1つ。
「返しにくるかなぁ」
小さくつぶやいた窓の外、佐野勇斗がこちらに歩いてくる姿が見えた。
「…ほんとに来た」
カウンターを拭いていた柔太郎は、あわてて呼吸を整える。カランカランと、扉に吊り下げられたカウベルの音が鳴り、そこには昨日と同じ笑顔の佐野勇斗が立っていた。
「ハンカチ、返しに来ました」
柔太郎が受け取ると、差し出されたハンカチには、きっちりアイロンがかけられていた。
「律儀かよ」
「借りたもんは返さないと」
そのやり取りを聞いていた”店長”の吉田仁人が、奥から顔を出した。
「柔の知り合い?」
「昨日一緒に雨宿りをした仲、かな」
「ふぅん」
仁人は勇斗を一瞥し、それから人当たりの良い笑みを浮かべた。
「せっかくだし、コーヒー飲んでく?」
「え、いいんですか?」
「わざわざ、柔のために来てくれたみたいだからね」
コーヒー豆の入ったキャニスターを手に取り、手際よく豆を挽く音が響く。
勇斗は店内を見回しながら、小さく「落ち着く店っすね」と呟いた。
壁にはI can’t drinkと書かれた5匹の牛が並ぶポスターが、きちんと額装されて飾られている。趣味の良い調度品に、心地よい音楽。勇斗はカウンター席に座り、頬杖をつきながら鼻歌を歌っている。
柔太郎はその横顔を盗み見る。
やけに、警戒心が薄い。それとも、演技か。
どちらにせよ、ここから信頼させる、そのためにはもっと近づかないと。
口元に笑みを絶やさずに「俺も座っちゃお」と勇斗の横に腰をおろした。
「はい、ブレンド」
仁人がコーヒーカップを差し出す。
勇斗は一口飲んで、数秒固まった。
「…苦っ」
思わず吹き出したのは柔太郎だった。
「コーヒー飲めない感じ?」
「飲める雰囲気は出してる」
「なにそれ」
「いや、カッコつけたかっただけ」
2人で笑う。くだらないことなのに、驚くほど自然に。
「でも、せっかく頂いたんだし」
そう言って無理にもう一口飲み、やっぱり顔をしかめる勇斗に、柔太郎は声を上げて笑った。
こんな風に笑ったの、いつぶりだろう。
「そういえば名前、ちゃんと聞いてなかった」
言いながら、柔太郎はコーヒーシュガーの入った瓶を差し出す。
「佐野勇斗」
山盛り二杯すくって、コーヒーにいれる
「へぇ」
柔太郎はあごに手を当てて、少し考えるふりをしてから言った。
「じゃあ、“はやちゃん”」
「は?」
「嫌?」
「いや、まぁ別にいいけど」
呆れたように笑って、勇斗はコーヒーをかき混ぜる
その笑顔を見ながら、柔太郎は静かに息を吐いた。
スプーンがカップに当たる音が、静かな店内に小さく響いた。その横顔を見ながら、柔太郎はそっと息を吐く。
――出だしは悪くない。
「俺、夕方から夜までだいたいここにいるからさ」
柔太郎はカウンターに頬杖をつく。
「いつでも来てよ」
少しだけ目を細めて笑えば、勇斗は照れたみたいに視線を逸らした。
小さな店内に、瞬く間にコーヒーの香りがゆっくり沈んでいく。柔太郎は視線を落としたまま、小さく笑った。当たり障りのない会話が続き、柔太郎は勇斗と楽しげに過ごす。
「柔太郎」
「なに」
「俺、結構好きだな」
「店?」
軽く返したはずだった。
勇斗は少しだけ間を置く。
「それもあるけど」
視線が、ほんの一瞬だけ柔太郎に触れて、離れる。
「お前も」
柔太郎は一瞬言葉を失う。
音楽だけが、ふたりの間にゆっくり流れていた。 柔太郎は言葉を探したが、見つからないまま、代わりに笑みだけを作る。
「…俺も、楽しい」
それが精一杯だった。
“ま、初接近にしては上々でしょ”
そう結論づける柔太郎を横目に、そのやり取りを見ていた仁人は、静かに深いため息をついた。