「美宇(みう)! 終わった? そろそろ始まるから行こうよ」
「あ、うん」
同僚の松本麻友(まつもとまゆ)に声をかけられた七瀬美宇(ななせみう・27歳)が、返事をした。
美宇と麻友は美大時代の同期で、今は広瀬アートスクール本校で美術講師として働いている。
広瀬アートスクールは、全国展開する日本最大手の美術スクールだ。
講座は、社会人向けの趣味講座から美大受験の予備校まで幅広く展開されている。
美宇はその中で、美大受験クラスを担当していた。
彼女の大学時代の専攻は陶芸だった。
そのため、時々、社会人向けの陶芸クラスを担当することもある。
本当は陶芸クラスの専任講師を希望しているが、今は空きがなく、美大受験クラスを任されていた。
今日は、午後からアートスクールの創立30周年記念パーティーが開かれる予定だった。
パーティー会場は、普段はデッサン室として使われている天井が吹き抜けの広い教室だ。
会場へ向かう途中、麻友が言った。
「ねぇ、なんか今日、重大発表があるらしいよ」
「重大発表?」
「うん。何だろうね」
「また事業拡大とかそういうのかな?」
「かもね。広瀬(ひろせ)社長、すごい勢いでスクールの規模をどんどん広げてるけど、大丈夫なのかね?」
「うん、ここ最近すごいよね」
長引いた不景気や感染症の影響を乗り越え、スクールはなんとか存続してきた。
美大受験クラスは少子化の影響で縮小傾向にある一方、社会人向けのクラスは退職を迎えた団塊世代に人気で大盛況だ。なんとかその勢いを維持しようと、最近では派手なCMを打ち、新たな地域に次々と開校するなど、広瀬アートスクールは事業規模を急速に拡大しようとしていた。
美宇は現在、同じスクールの同僚、沢渡圭(さわたりけい・37歳)と密かに交際していた。
付き合い始めてから、もうすぐ半年になる。
圭も美大卒で、美大受験クラスの主任講師を務めていた。
彼はイラストレーターとしても活躍しており、その作品はテレビや雑誌で使われることも多く、そこそこ知られた人気作家だった。
二人の交際はスクール内では秘密だったが、美宇の同期である麻友だけはそのことを知っていた。
「ところで、最近彼とはどう?」
「どうって?」
「もうすぐ半年でしょ、付き合い始めて」
「うーん、特に何もないけど……」
「そっか。でも順調そうで何よりだね」
『順調そう』__そう言われたとき、美宇は違和感を覚えた。
最近は会う回数も、メッセージのやり取りも減っている。
付き合い始めの頃のようなときめきは、もう感じられない。
これは本当に『恋』なのだろうか?
美宇はそんな疑問さえ抱き始めていた。
パーティー会場は花が飾られ、テーブルにはケータリングの料理が並び、華やかな雰囲気に包まれていた。
すでにスタッフは集まっており、ほどなくしてパーティーが始まった。
まず社長が挨拶をし、その後、関係者が次々に祝辞を述べた。
挨拶が終わると乾杯が行われ、スタッフたちは立食式のパーティーを楽しみ始める。
美宇も麻友や他のスタッフたちと談笑しながら食事を楽しんでいた。
しばらくすると、進行役の事務職員が再びマイクを手に取り話し始めた。
「え~、本日はもう一つ、おめでたいご報告があります」
その声に、会場が一斉に静まり返る。
重大発表があると噂に聞いていたスタッフたちは、どんな発表があるのか興味津々だった。
そこへ、美宇の恋人である主任講師の沢渡圭が姿を現した。
今回の件について何も知らされていなかった美宇は、不思議そうな表情を浮かべる。
「では、沢渡先生、お願いします」
進行役がマイクを渡すと、圭はそれを受け取り、会場のスタッフに向かって話し始めた。
「私事で恐縮ですが……私、沢渡圭は、隣にいる社長令嬢の広瀬ユリアさんと婚約いたしました」
その瞬間、会場はざわめき、続いて一斉に拍手が鳴り響いた。
「わぁー! おめでとうございます!」
「二人はいつの間にそういう関係だったの?」
「全然気づかなかった! びっくり~!」
「沢渡先生も、とうとう独身貴族を卒業か~」
スタッフたちは次々に声を上げ、会場は祝福ムードに包まれる。
「どういうこと……?」
麻友は驚きの声を漏らした。
「…………」
その問いに答える余裕もなく、美宇は時間が止まったかのように、こわばった表情のまま立ち尽くしていた。
しかし、次の瞬間よろめいてしまう。
「美宇! 大丈夫?」
倒れそうになった美宇を、麻友が咄嗟に支えた。
「あ……ありがとう……」
「大丈夫? いったいどうなっちゃってるの? 美宇は何も聞いてなかったの?」
その問いに、美宇は力なく首を振るだけだった。
「沢渡先生はいったい何を考えてるの? こんなひどいことをするなんて……」
まるで自分のことのように怒りをあらわにする麻友に、美宇は力を振り絞って言った。
「私、帰るね……」
「え? じゃあ、私も一緒に……」
「ううん、二人で帰ったら変に思われるよ。麻友は残って……私は大丈夫だから」
「でも……」
「本当に大丈夫だから」
「そう? じゃあ、気をつけて帰ってね」
「うん、じゃあ、お先に……」
美宇は、誰にも気づかれないよう静かにその場を後にする。
出口へ向かう途中、ふと視線の先に圭とユリアの姿が映る。
ユリアは左手の薬指に光る指輪を皆に見せながら、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
その光景を見つめる美宇の瞳と、圭の瞳が一瞬だけ交差する。
目が合った瞬間、美宇はすぐに視線を逸らし、逃げるようにその場を離れた。
圭は、そんな美宇の後ろ姿を、ただ静かに見つめていた。
コメント
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此処にも居たか,ほんとの愛より地位,名誉を取った輩が😔
政略結婚でしょうけれど、酷すぎる…😱
えーー😱酷い💦何か訳ありなのかな💦 訳ありとしても、こっちから願い下げ😡