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第5話 海辺スケッチ
波は、同じ形をしてくれなかった。
一度寄せて、
崩れて、
引いて、
また寄せる。
さっき描こうとした線は、
次の瞬間にはもうなかった。
磁馬は砂浜に座り、
スケッチ帳を膝に置いていた。
海沿いの町は、
朝から潮の匂いがした。
遠くで船が揺れている。
浜では網を直す人がいる。
食堂の裏から魚を焼く匂いが流れてくる。
空は広く、
水面は明るく揺れていた。
磁馬はペンを持ったまま、
なかなか線を引かなかった。
「難しいなあ」
波は待ってくれない。
山はそこに立つ。
橋も、宿も、喫茶店の皿も、
少しは待ってくれる。
でも波は、
見たと思ったら、
もう違うものになっている。
磁馬はようやく一本、線を引いた。
寄せる波。
崩れる波。
引いていく水。
その三つを一つの線に入れようとして、
すぐに首をひねった。
「違うな」
潮風が吹いた。
スケッチ帳の端が少しめくれる。
磁馬はあわてて布紐を押さえた。
一つ。
二つ。
三つ。
スケッチ帳は飛ばない。
鞄も押さえる。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
包み紙。
ある。
その時、
足もとで小さな声がした。
「ずっと波だけ描いてるの?」
磁馬が顔を上げると、
緑の上着を着た少女が立っていた。
短く結んだ髪が潮風で乱れている。
手には貝殻が三つ。
足には砂がついていた。
「うん」
磁馬は答えた。
「朝から?」
「朝から」
「飽きないの?」
「まだ描けてないから」
少女は波を見た。
「波なんて、ずっと来るよ」
「だから終わらない」
「変な人」
「よく言われる」
少女は磁馬の横にしゃがんだ。
「私は汐里」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
汐里はスケッチ帳をのぞいた。
「波、少ないね」
「描く前に消える」
「じゃあ、見ないで描けば?」
磁馬は少し驚いて、汐里を見た。
「見ないで?」
「次に来る形を待つより、さっき来た形を覚えて描くの」
磁馬は海を見た。
波が来る。
崩れる。
引く。
そのあとに残る濡れた砂の線。
「なるほど」
「私、貝殻拾うから知ってる。波を見てから動いたら遅い」
汐里はそう言って、
手の貝殻を見せた。
薄い茶色の貝。
淡い桃色の貝。
灰色の筋が入った貝。
「いい形」
磁馬は言った。
汐里は少し得意そうに笑った。
「でしょ」
磁馬はもう一度ペンを動かした。
今度は、波そのものではなく、
波が引いたあとの砂を描いた。
濡れた線。
泡の残り。
貝殻の位置。
汐里の足あと。
すると、
波の形が少し見えた気がした。
「いいなあ」
磁馬はつぶやいた。
汐里は波打ち際を歩きながら言った。
「昼になると、こっちまで波が来るよ」
「そうなの?」
「うん。朝と昼で場所が違う」
「波も歩くんだな」
汐里は笑った。
「歩くっていうか、来る」
磁馬はその言葉を紙の中へ入れるように、
線を足した。
昼近くになると、
浜の食堂から大きな声がした。
「汐里、昼だぞ」
汐里が振り返る。
「浜吉さんだ」
茶色の前掛けをつけた男が、
食堂の前から手を振っていた。
腕が太く、
顔は日に焼けている。
磁馬の腹が鳴った。
汐里はすぐに聞いた。
「お腹すいた?」
「うん」
「食堂行く?」
「いいの?」
「お金ある?」
磁馬は鞄の奥を確認した。
この時代用の小銭袋。
ある。
「ある」
「じゃあ行こう」
食堂は海のすぐ近くにあった。
木の床に砂が少し入り込んでいる。
壁には漁の道具がかけられている。
窓からは海が見えた。
浜吉は磁馬を見て笑った。
「朝から浜で座ってた人だな」
「波を描いてました」
「波は腹をふくらませてくれないぞ」
「今、それがわかった」
浜吉は大きく笑った。
「なら魚定食だ」
磁馬はうなずいた。
「お願いします」
焼き魚。
味噌汁。
漬物。
温かい飯。
磁馬は一口食べて、
目を細めた。
「うまい」
浜吉は満足そうに腕を組んだ。
「海を描くなら、魚も食わなきゃな」
汐里は向かいで貝殻を並べていた。
「磁馬さん、今日ずっと波描くんだって」
「物好きだな」
「よく言われる」
浜吉は笑った。
食後、
磁馬は食堂の窓から海を描いた。
浜の波。
外で干される網。
食堂の皿。
汐里の貝殻。
浜吉の背中。
窓越しの波は、
浜で見る波より少し静かだった。
でも、
静かなぶん、
遠くまで見えた。
午後になり、
磁馬はまた浜へ戻った。
汐里もついてきた。
風が強くなっていた。
波は朝より少し大きい。
寄せる位置も変わっている。
磁馬は砂浜の少し上へ座った。
今度は波を追わない。
波のあとを描く。
足あとが消えるところ。
貝殻が転がるところ。
水が薄く残るところ。
汐里は少し離れたところで貝を拾っていた。
その時、
磁馬のペンケースが風で倒れた。
ころころと、
一本のペンが砂の上を転がる。
磁馬はすぐ手を伸ばした。
だが、ペンは小さな斜面を滑り、
波打ち際のほうへ転がった。
「あっ」
汐里が走る。
磁馬は立ち上がる。
ペンは濡れた砂の手前で止まった。
と思った瞬間、
波が来た。
水が広がる。
ペンが少し浮く。
磁馬の顔が止まった。
汐里が先に駆け寄り、
波が引く前に手を伸ばした。
でも届かない。
ペンは引いていく水に押され、
少しだけ海の方へ動いた。
「待って!」
汐里が叫んだ。
磁馬も波打ち際へ行く。
「落とした」
「わかってる!」
汐里は波の動きを見た。
「次、引いたら取れる」
「危ない」
「大丈夫。ここ浅い」
波が引く。
ペンが砂の上に残る。
汐里が素早く拾った。
次の波が来る直前だった。
汐里はペンを高く掲げた。
「取った!」
磁馬は息を吐いた。
「ありがとう」
両手で受け取る。
ペンは少し濡れていた。
でも無事だった。
磁馬は布で拭き、
ペンケースの奥へしまった。
今度はしっかり閉める。
一つ。
二つ。
三つ。
汐里は腰に手を当てた。
「波を描きに来たのに、波に持ってかれそうになったね」
「うん」
「もっと上で描いたほうがいいよ」
「そうする」
「でも、近くで見たいんでしょ」
「うん」
汐里は少し考えて、
自分の拾った貝殻を一つ差し出した。
灰色の筋が入った貝殻だった。
「これ、重しにすれば?」
磁馬は受け取った。
「いいの?」
「ペンのお礼じゃなくて、波に負けないため」
「ありがとう」
磁馬はスケッチ帳の端に貝殻を置いた。
風が吹いても、
ページはめくれにくくなった。
午後の波を描く。
汐里がペンを取った瞬間も描く。
波が来る。
ペンが動く。
汐里が手を伸ばす。
波が引く。
ペンが戻る。
紙の中で、
その時間だけが何度も繰り返された。
汐里がのぞき込む。
「私、速そう」
「速かった」
「波より?」
「少し」
汐里は満足そうに笑った。
夕方に近づくにつれて、
海の色は少しずつ深くなった。
波の音も変わった。
朝は軽かった。
昼は明るかった。
夕方は、少し重い。
磁馬はその違いを描こうとした。
同じ波なのに、
時間で変わる。
同じ場所なのに、
戻ってくるたびに違う。
絵の中の海は、
朝の波、
昼の波、
夕方の波が重なり始めた。
一枚の紙の中で、
一日分の波が寄せては引く。
汐里はそれを見て、
少し黙った。
「これ、今日の海?」
「うん」
「朝も、昼も、夕方もある」
「一日描いたから」
「夜も描く?」
磁馬は海を見た。
夜の波も見たい。
けれど腹も少し減っている。
「少しだけ」
汐里は笑った。
「浜吉さんに怒られるよ。夜は危ないって」
その時、
浜吉が食堂のほうから歩いてきた。
「本当にまだ描いてるのか」
「うん」
「一日中とはな」
「波が終わらない」
浜吉は海を見た。
「そりゃ終わらん」
「だから描き終わらない」
「飯も終わらんぞ。食いに来い」
磁馬は少し迷った。
海を見る。
食堂を見る。
また海を見る。
浜吉は笑った。
「海は逃げない」
汐里が言った。
「でも波は逃げるって」
磁馬はうなずいた。
「波は逃げる」
浜吉は肩をすくめた。
「じゃあ、食って戻れ」
磁馬はそれなら、と立ち上がった。
食堂で夕飯を食べた。
昼とは違う魚。
温かい汁。
少し甘い煮物。
磁馬はまた目を細めた。
「うまい」
浜吉は言った。
「二回目だ」
「うまい時は何回でも言う」
汐里は笑いながら、
昼に拾った貝殻を机に並べた。
「これ、今日の波が持ってきたやつ」
磁馬はそれを見た。
貝殻は、
波の手紙みたいだった。
どこから来たのか、
どれくらい流されたのか、
誰にもわからない。
でも今、
ここにある。
夕飯のあと、
三人は食堂の外へ出た。
海は薄暗くなっていた。
波だけが、まだ動いている。
磁馬は最後のスケッチをした。
夜になる直前の波。
見えにくい。
けれど音で形がわかる。
寄せる音。
崩れる音。
引く音。
磁馬は耳で描いた。
浜吉は腕を組んで見ていた。
「音まで描く気か」
「少し」
「絵なのに?」
「うん」
汐里は貝殻の重しをスケッチ帳の端に置き直した。
「飛ばないように」
「ありがとう」
磁馬は最後の線を引いた。
絵の中の波が動いた。
朝の波が来る。
昼の波が重なる。
夕方の波が深くなる。
夜の波が音だけで寄せる。
波は何度も来る。
けれど、
同じ波は一度もない。
汐里は絵を見て、静かに言った。
「これなら、今日の海を忘れないね」
磁馬はうなずいた。
「うん」
小さな紙を二枚出した。
汐里には、
波打ち際でペンを拾う姿。
緑の上着。
濡れた長靴。
手に持ったペン。
足もとに寄せる波。
浜吉には、
食堂の前で海を見ている姿。
茶色の前掛け。
焼き魚の匂い。
窓の向こうの波。
二人は絵を受け取った。
汐里の絵では、
足もとの波が少しだけ寄せていた。
浜吉の絵では、
食堂の灯りが海に細く揺れていた。
「これ、濡らさないようにする」
汐里は絵を胸に抱えた。
浜吉は食堂の中を指した。
「店に飾る。海が荒れた日は見ないがな」
「どうして?」
「食べに来た人が余計に腹減る」
磁馬は少し笑った。
鞄を確かめる。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
貝殻の重し。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
貝殻は汐里がくれたものなので、
布に包んで鞄の中へ入れた。
海沿いの町は、
夜へ向かっていた。
船の影。
食堂の灯り。
遠くの家。
波の音。
磁馬は浜を歩き出した。
汐里が手を振る。
「また波描きに来てね」
「うん」
浜吉も声を張った。
「次は飯の時間を忘れるなよ」
「気をつける」
「たぶんじゃなくてな」
磁馬は少し考えた。
「かなり気をつける」
汐里が笑った。
磁馬は海に背を向けた。
でも波の音は、ずっとついてきた。
鞄の中で、
海辺スケッチの絵が静かに動いている。
朝の波。
昼の波。
夕方の波。
夜の波。
一日中描いても、
まだ描き終わらないものがある。
磁馬はそれを、
少しうれしいと思った。
波はまた来る。
何度でも来る。
でも今日の波は、
今日の絵の中にだけ残っていた。
於田縫紀
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コメント
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うわあ…すごく静かで、あたたかいお話だね🥀 磁馬が波を描こうとして、なかなか線が引けなくて、それでもずっと砂浜に座ってる姿が目に浮かんだよ。「まだ描けてないから」って言い方が、すごく素直で好きだな。 汐里が「見ないで描けば?」って提案するところ、すごく優しいなと思った。波を追うんじゃなくて、波のあとに残るものを描くっていう考え方、心に残ったよ。 締めくくりの「波はまた来る、でも今日の波は今日の絵の中にだけ」って言葉、じんわり染みるね。一日の時間をちゃんと受け止めた感じがして、読んでよかったなって思えた🌙