テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#ハッピーエンド
26
三十六階層の浜辺に、またサハギンの群れが現れた。
波打ち際を蹴立てて迫ってくる十数体。ぬらぬらと濡れた鱗が陽光を弾き、槍を振るたび水滴が散る。潮の匂いに、生臭さが混じった。
前衛では、いつものようにオットーが盾を構えて突っ込んでいく。
「あと正面三体だ!」
怒鳴り声と同時に大盾がぶつかり、サハギンが弾け飛ぶ。砂が巻き上がった。
その背後で、エドガーが魔導書から目を上げたり落としたりしながら詠唱の間合いを測り、ミラが素早く結界を張る。指先から淡い膜が広がり、飛来する水の弾丸が膜の上で弾けた。
少し離れた岩の上で、エリーは腕を組んだまま動かない。踏み込もうと思えばいつでも踏み込める距離だが、足は前へ出ない。視線だけが、前線と後衛を往復している。
(正面三体……ここからは、俺が)
ダリウスは額の汗も拭わず、正面の三体だけを見据えた。波音も仲間の声も、視界の端をよぎる動きも、いったん外へ追い出す。
砂を蹴る。
足裏にざり、とした感触が二歩、三歩。距離が縮み、サハギンの槍先がやけに近くなる。
「――《深き森》」
小さく呟いた瞬間、世界の音が一段、遠ざかった。
潮騒も甲高い鳴き声も、薄い膜越しになる。代わりに、サハギンの関節の折れ方と重心の移動だけが、異様なほど鮮明に浮かび上がる。
肩がわずかに引かれ、重心が左足から右足へ。槍を握る指の強さ、胸郭の上下。その“前兆”が、次の一撃の形を先に描いた。
(そこだ)
刃を構え直すまでもない。踏み込みの勢いに剣を乗せ、ダリウスは流れるように振り上げた。
「《スラッシュ》」
斜めに走った刃が鱗を裂き、硬い感触が手に返る。骨を断つ手ごたえが腕に響いた。胸郭がぱかりと割れ、鼓動の止まった心臓が真ん中から二つに分かれる。
返り血が、遅れて頬に飛んだ。
そこで、音が戻ってくる。
「……っ、はぁ、はぁっ……!」
肺が空気を求めて暴れ、呼吸が一気に荒くなる。喉の奥がひゅう、と鳴った。胸の内側が熱く、息を吸うだけで痛い。
(……くそ……やっぱり、長くは保たないな)
倒れゆくサハギンから目を離さないまま、ダリウスは噛みしめた奥歯の隙間から息を押し込む。
その背後で、ぱしゃり、と嫌な水音がした。
「……チッ」
魔導書から顔を上げたエドガーが、海側へ鋭く視線を投げる。
「伏兵です、海から二体!」
波間を裂いて、別動のサハギンがぬうっと浮かぶ。砂浜にぬらりと足を乗せ、二体とも口の端をニタリと吊り上げた。正面の混戦に釣られた獲物を、横から噛み千切る距離だ。
(……やっぱりか。姑息な真似を。階層を登るごとに知力が上がってる)
エドガーは舌の裏で毒づきながらも、視線の一部を前線に縫いつけたまま動かさない。
前では、まだダリウスが立っている。
(深き森は、さっきのでかなり危ないところまで潜ったはず……ここから先は、間合いと足運びだけで時間を稼ぐつもりか)
「はぁ……オットー! 伏兵を、はぁっ……頼む……!」
振り返ったダリウスの声には余裕がない。肩が大きく上下し、剣を握る腕から力が抜けていくのが遠目にも分かる。
その一瞬、オットーは歯を食いしばった。
(本当に行けるのか、ダリウス……? いや――考えるな。信じろ。俺が信じなくて、誰が信じる)
「了解だ!」
大盾を構え直すや否や、オットーは砂浜を蹴って海岸線へ走り出した。盾と鎧ががちゃんがちゃんと鳴り、腹の肉も揺れる。
「《伸縮紐》」
ほとんど溜めもなく、エドガーが低く呟く。
次の瞬間、透明な魔力の紐がミラとエドガーの腰にするりと巻きついた。反対側の端は、すぐ背後のヤシの木に絡みついている。
「わっ――」
ミラの身体がするすると後ろへ引き寄せられた。軽い浮遊感のあと、二人はヤシの木の根元まで一気に下がる。視界の前には、オットーとダリウスの背中だけがくっきり残った。
「すごい! こういう使い方もあるのね!」
ミラは目を輝かせ、結界を張ったまま紐をきょろきょろ観察する。結界の縁が波の飛沫を弾き、光の粒が散った。
「ええ……」
エドガーは返事に熱を乗せない。視線の先、砂浜で伏兵二体と対峙するダリウスから、目が離せなかった。
(ダリウス……行けるんですか?)
魔導書を握る指先に、じわりと汗が滲む。
(もしダメなら、その瞬間にでも引き戻しますよ。……あなたが倒れる前に)
ダリウスは、ぎりぎりのところで足を運んでいた。
一歩踏み込みすぎれば爪が頸動脈を裂く。一歩退きすぎれば砂に足を取られ、噛みつきに晒される。唸り声とともに振るわれる水かきの腕が、何度も頬のすぐ横を掠めた。塩気を含んだ風と飛沫が肌に貼りつく。
(ここだ――いや、まだだ)
左の突き、右の横薙ぎ。上体だけを捻り、膝を折り、斬撃の軌道をずらす。指一本ぶんの隙間を通すたび、喉の奥で息が引っかかった。
水音と心臓の音だけが近い。
だが身体は正直だった。
肺が焼けるように熱く、喉がざらつく。酸素が足りない。視界の端が欠け、思考が一拍、二拍と遅れる。
(……最適解だ。今のが、最適解だ)
距離を取りすぎない、突っ込みすぎない。“安全圏”の間合い。幾度も生き残りをもたらした型。
その瞬間、脳裏に冷たい声が差し込んだ。
『——あなたの歪んだ慎重さ、卑屈な臆病さ、間違った成功体験が、この先の階層では仲間を殺すわ』
(……バカか、俺は)
胸の底がひゅっと抜ける。
(なぜ、同じ型を繰り返してる。あいつらは、もう先に進んでるんだぞ。
着いていけ。遅れるな。しがみつけ、ダリウス!)
歯を食いしばり、砂を蹴る。
「《深き森》――!」
世界が、また音を失った。
先ほどとは違う沈み方だった。足元の砂のきしみも、潮騒も、サハギンの呼吸すらも、すっと薄紙の向こうへ遠ざかる。
残ったのは、線と点だけ。
右の重心が半足ぶん前へ。胸郭の膨らみと収縮、そのわずかなズレ。皮膚の下の脈が、見えるような錯覚。
(ここだ)
身体が先に動く。
「《スラッシュ》!」
銀の弧が一閃する。首筋に細い線が走り、頭部がするりと胴体から滑り落ちた。
切断面から血が噴き出すのは、少し遅れてからだ。
(……残り一体)
浅く息を吐き、さらに沈めようとする。
(もっと深く――潜れ)
残る一体の懐へ踏み込もうとした――その時。
世界が歪んだ。
距離が遠く、そして近い。足がどこにあるのか分からない。線が一度に見えすぎて、どれが“今”なのか掴めない。振り下ろそうとした腕の輪郭が、ぬるりと薄くなる。
「……っ、なに、だ……これ……」
水平線がぐにゃりと曲がる。空と海の境界が溶け、サハギンの輪郭も砂浜の白も混ざり合っていく。
岩の上で、エリーの青い瞳がわずかに見開かれた。組んだ腕の中で、指がきゅっと握り込まれる。
喉の奥から、酸と一緒にこみ上げる。
「――――っ、げほっ」
ダリウスは膝から崩れ、手をつき、その場で胃の中身を吐き出した。酸味の混じった苦い液体が砂を濡らし、鼻腔を焼く。
「ぜぇ……ぜぇっ……なっ……なんだっ……今の……」
咳と呼吸が絡み、視界が暗転と点滅を繰り返す。
「《伸縮紐》!」
エドガーの声と同時に、透明な魔力の紐が砂浜を走った。倒れかけたダリウスの胴と腰に巻きつき、一気に収縮する。
「っ……!」
砂を削りながら身体が後方へ引き戻され、ミラの足元でどさりと横たわった。
「ダリウス!!」
ミラがしゃがみ込み、その顔を覗き込む。まぶたは固く閉じられ、息は荒く浅い。胸元には砂混じりの汚れが残っていた。
呼びかけにも応えない。だが、かすかに上下する胸が、生きていることだけを教える。
(……やっぱり、無理だったのか!?)
伏兵を斬り捨てたオットーが、その光景を一瞬だけ見やった。伸縮紐で回収されたダリウス、必死に支えるミラ。胸の奥に、嫌な引っかかりが残る。
(何か……ずれてきたぞ、このパーティ)
だが止まれない。
波打ち際には、まだ一体残っていた。海水を滴らせ、槍を構え直し、こちらを睨む。
オットーは大斧を構え直し、砂を跳ね上げて駆け出す。距離が一足分まで詰まった瞬間、口元が歪む。
「《阿修羅》」
低く吐き出した言葉と共に、空気が張った。
見えない圧が立ち上がり、鼓動が耳の奥で鳴る。筋肉が軋み、皮膚の下で熱が渦を巻く。
大斧が爆発するように振り抜かれる。
触れた瞬間、骨と肉と内臓がまとめて引き千切られ、上半身ごと海へ吹き飛ぶ。水飛沫と血飛沫が混じり、紅い粒が夜気に散った。
「っ、は、はぁ……」
一撃を振り抜いたオットーは、その場でぐらりと揺れた。握った斧の感触はあるのに、腕の重さが急に遠くなる。
(しまっ……た……制御が……)
思った瞬間、視界の端が白く滲む。喉から噴き出したのは、人のものとは思えない咆哮だった。
「ぶぅぉおおおおおおおおお!」
十秒が過ぎたのかどうか、数える余裕はない。世界がゆっくり傾く。
「……っお、おお……」
喉から洩れた声は言葉にならない。膝が抜け、巨体が砂浜に崩れ落ちた。
白目を剥き、口の端から涎を垂らしたまま、オットーは仰向けに動かなくなる。
「オットー!!」
ミラが悲鳴のような声を上げる。
潮の匂いと血と、焼けた魔力の匂いが混じった風が吹き抜ける。波の音だけが、落ち着き払って寄せては返した。
「……なるほどね」
少し離れた位置から見ていたエリーが、そっと視線を落とす。
砂に倒れたダリウスとオットー。その傍らで治療の準備を始めるミラ。額の汗を拭いながら、周囲の警戒を続けるエドガー。
エリーは腕を組み、しばし黙り込む。波音が途切れない。青い髪が風に揺れる。
(……限界を踏み越えた。もう“ただの前衛”には戻れないわね)
その瞳の奥に宿るものは、表情の上では何も動かない。
夜風が血の匂いをさらっていき、三十六階層の浜辺には、戦闘の終わりを告げる静けさだけが残った。