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東屋 朧
蒼乃(キャラボ中〜!)
待ち合わせは駅前の交差点だった。
午後七時。冬の夜は早く、すでに空の色は完全に落ちている。街灯とネオンが混ざり合い、行き交う人々のコートの肩を鮮やかに照らし出す。遥は傍らの小夜と共に交差点の端に立ち、煙草を一本吸いながら待っていた。
小夜は今夜、遥の古着ではなかった。黒いニットのワンピース。袖が長く手の甲まで覆っている。首元にはいつものシルバーのチョーカー、両耳のピアスはいつもより多く光を帯びていた。黒の厚底ブーツ。髪は下ろしたままで、血のようなピンクのインナーカラーが夜の光の中で静かに滲む。普段の彼女と大きく変わるわけではないが、いつもの兄のオーバーサイズではない分、その輪郭が、少しだけ強調されて見えた。
「寒くないか」
遥が聞いた。
「寒い」
「コート着てこいよ」
「……着てきた」
小夜はトートバッグから、くしゃりと丸めた黒いニットのカーディガンを取り出した。コートというには薄すぎる。遥は短く息を吐き、自分の作業着の上に羽織っていたジャケットを脱いで、小夜の肩に乗せた。
「借りる」
「お前、最初からそのつもりだったろ」
「……ばれた」
小夜はジャケットの前を合わせながら、少しだけ表情を緩めた。遥のジャケットは小夜には大きすぎるため、肩がずり落ちる。それを小夜は気にしない。むしろ、満足そうに袖の端を指先で引っ張った。
その後、最初に現れたのは凪だった。いつものフード付きの黒パーカー。しかしよく見ると、どうやら今夜のそれは出先用らしく、普段とは違う企業ロゴと差し色に緑のラインが入っていた。白髪の青メッシュは相変わらず無造作で、目の下のクマも相変わらず濃い。ノイズキャンセリングヘッドホンを首にかけ、両手をポケットに突っ込みながら歩いてくる。
「お、来てた」
凪は遥と小夜を交互に見て、それから小夜のジャケットに目が止まった。
「……小夜って、自分の服持ってたんだ」
「失礼なこと言うな」
「いや、いつも遥の服着てるから、てっきり――」
「凪」
「はい」
遥が一言言っただけで凪は黙る。小夜は凪を一瞥し、また前を向いた。
次に現れたのは慧だった。いつものスリーピースのスーツではなく、今夜は少しだけ砕けた格好だ。濃紺のシャツに細身の黒いパンツ。シャツの第一ボタンだけが外れている。それだけで、いつもの弁護士の顔が薄れて見えた。上品な金の腕時計と銀縁眼鏡はそのままで、アッシュグレーのウルフカットも相変わらずだったが、今夜の慧にはどこか軽さがあった。
「お待たせ。みんな揃ってるね」
「ん。ソフィアは」
「もうすぐ来るよ。さっきメッセージが来てた。タクシーが渋滞に捕まったらしい」
「タクシーで来んのか」
凪が言った。
「君たち、私服のソフィアを想像したことある?」
「……ない」
「楽しみにしていなさい」
慧が口の端で笑った。その動き方に微かな悪戯っぽさがあって、遥は一瞬だけ慧を見るも、至って涼しい顔をしていた。
ソフィアが現れたのはそれから五分後だった。遠くから歩いてくる姿を、遥は最初、別の人間だと思った。プラチナブロンドの髪が今夜は下ろされ、いつもシニヨンに結い上げられていたそれが、背中の半ばまで真っ直ぐに流れている。服装はクリーム色のケーブルニットに、細身のチョコレートブラウンのパンツ。足元は小さなヒールのブーツ。コートは淡いベージュのウールで、その下の体型が、タイトなスーツ姿とは全く違う柔らかな印象を作っていた。
大きな碧眼が待ち合わせの一行を見つけて、ほっとしたように細くなった。
「お待たせしました! 申し訳ありません、渋滞が――」
「ソフィア」
遮るように遥が口を開くと、ソフィアが彼を見た。
「……私服、似合うな」
事務所での姿とあまりにも違うため、思ったことがそのまま出た。それだけだった。遥に特別な意図はない。しかしソフィアは一瞬だけ固まる。プラチナブロンドの髪の下で、白い肌が、見る見るうちに桜色に変わっていった。耳まで赤くなる速度が今夜は特に速かった。
「……あ、ありがとう、ございます」
声が僅かに上ずる。碧眼が遥から外れ、宙を彷徨い、それからコートの前ボタンに向いた。細い指が閉まっているボタンを意味もなく触り始める。すると、凪が横から口を挟んだ。
「すご。遥が人の服褒めるの、初めて見た」
「そうか」
「そうだよ。レアだよ今の」
「別に珍しくも――」
「死ぬほど珍しい」
慧が穏やかに笑った。ソフィアはまだボタンを触っている。その横で、小夜が遥の袖を、黒ネイルの指先でそっとつまんだ。遥が視線を向けるも、小夜は前を向いたまま何も言わない。ただ指の力が、ほんの少しだけ強くなっていた。
「……行こ」
小夜が言った。
「ああ」
遥は煙草を携帯灰皿に押し込んで歩き始めた。小夜は袖をつまんだまま、遥の隣を歩いた。ソフィアが後ろで小さく咳払いをする音がした。
店は駅から徒歩五分ほどの雑居ビルの四階にあった。エレベーターを降りると、すぐに木目の重厚な扉がある。扉の横には小さなプレートが一枚だけ。店名は彫られた文字で記されており、看板らしい看板は一切ない。慧が予約していた店は完全会員制の高級焼肉店だった。扉を開けると、若い女性スタッフが深く頭を下げて出迎えた。
「桐生様ですね。お待ちしておりました」
「お世話になります」
案内されたのは廊下の奥の個室。引き戸を開けると、ロースターを中心に据えた大きなテーブルと、低めのソファ席が円を描くように配置されている。照明は間接照明だけで、温かみのある光が室内を満たしていた。壁は黒の漆喰で、シンプルだが品のある空間だった。入った瞬間、凪が小さく感嘆の声を上げる。
「うわ、換気口の吸気めっちゃ強い。煙全然こない」
「良い店はそういうものだよ」
「焼肉ってもっとむせる感じだと思ってた」
「チェーン店と混同しないように」
慧がさらりと言い、凪は”チェーンの焼肉も好きだけど”と返す。そのまま全員が席に着いた。遥が奥の席に座ると小夜はその隣に収まった。向かいに慧、その隣にソフィア、遥の反対隣に凪。
慧がメニューを開いた。
「今夜は僕が全部出すよ。何でも頼んでいい」
「え!! ガチで? 何でも?」
「ああ。敏腕弁護士の財力を信頼してくれ」
凪はメニューを受け取り、途中でページをめくる手が止まる。
「……これ、値段書いてないけど……」
「そういう店だよ」
「……遠慮した方がいいやつ?」
「今夜は無用だ。全員、遠慮なく」
ソフィアがメニューを開き、素早く目を通した。
「桐生サン、シャトーブリアンがあります」
「じゃあそれも頼もう」
「よろしいんですか」
「何度も言わせるな」
ソフィアの碧眼が輝いた。普段の冷静なパラリーガルの顔が、一瞬だけ年相応の――十代後半の顔に戻った瞬間だった。小夜もメニューを受け取ったが、すぐに横の遥へと手渡す。
「遥が選んで」
「お前は何が食いたい」
「……タン」
「タンだけじゃ足りないだろ」
「あとハラミ」
「他は」
「……遥が選んだやつ、食べる」
遥は短く息を吐いてメニューに目を落とす。料理が来るまでの間にドリンクが運ばれてきた。慧は赤ワイン。ソフィアはジンジャーエールを頼みかけて、慧に”今夜は飲みなさい”と言われ、白ワインに変えた。凪はエナジードリンクを所望したが、さすがに置いていなかったので梅酒のソーダ割りにした。遥はハイボール。小夜は彼と同じものを頼んだ。
「さ、乾杯しよう。みんないつもお疲れ様」
慧がグラスを持ち上げた。
「今夜は仕事の話は一切なし。全員、ただ飲んで食べて楽しく喋るだけ。……それだけでいい」
全員がグラスを合わせる。カチン、と涼やかな音が個室に響いた。最初の肉が網の上に乗ると、待ってましたとばかりに凪が身を乗り出した。
「焼いていい? 俺、焼くの好き」
「どうぞ」
「よっしゃ任せて。得意なんだよ、焼加減の最適化」
「……食事を最適化と表現する人間を初めて見ました」
ソフィアが呆れ笑いのまま言った。
「いや、マジで。肉の厚みと脂の入り方で、網に乗せる位置と時間を変えると仕上がりが全然違うんだよ。これアルゴリズムの問題だから」
「何を仰っているのか全く」
「んー。慧みたいに料理ちゃんとやってる人なら分かると思うんだけど」
「……分かるよ、言いたいことは」
慧は苦笑しながら答える。
「ただ焼肉は経験と感覚の問題でもあるから、アルゴリズムに落とし込むのは難しいぞ」
「だから最適化する意味があるんじゃん」
「まあ、その理屈は嫌いじゃないが」
凪が満足そうに网の上の肉を観察し始めるのを、小夜はじっと見た。
「……ちゃんと焼ける?」
「任せてよ」
「生焼けは嫌」
「俺を誰だと思ってんの」
「……エナドリ男」
「それは関係ない」
シャトーブリアンが運ばれた時、テーブルの空気が少しだけ変わった。スタッフが丁寧に肉と焼き方の説明を添えつつ皿を置く。艶やかな断面、きめ細かな霜降り。間接照明の下で、その肉は静かな存在感を放っていた。
「……綺麗」
ソフィアが思わず呟いた。
「焼肉にそんな言い方する?」
凪が聞いた。
「言います。これは芸術です」
「食べ物だよ」
「芸術的な食べ物です」
「……ソフィアって意外とそういうとこあるよな」
「どういうとこですか」
「なんか、予想外なとこで感動するというか」
ソフィアは少しだけ考えてから言った。
「……ドイツにいた頃、日本の食文化に憧れていました。食材への敬意の払い方が私の国とは少し違って」
「ドイツって何食べるの」
「ソーセージとジャガイモとザワークラウトが多いです」
「毎日?」
「毎日ではありません。でも多いです」
「……飽きない?」
「飽きます」
凪が即座に”だよな”と返した。ソフィアが”飽きると言いましたが嫌いではありませんよ”と補足する。その様子を眺めていた慧は、シャトーブリアンを網に乗せながら穏やかに言った。
「ソフィア。最初に日本に来た時、何が一番驚いた?」
「コンビニです」
「ああ、確かによく聞くね」
「あの品揃えと、二十四時間という概念が、最初は信じられませんでした。深夜二時に温かい食事が買えるということが」
「ドイツにはないのか」
「深夜に開いている店自体が少ないです。私、最初の一週間は毎日コンビニに行きましたもん」
「初耳だ。毎日?」
「研究のつもりでした」
慧が口の端を上げる。遥はハイボールを傾けながらその話を聞いていた。小夜はタンを網の端に乗せながら、ソフィアを横目で見ていた。しばらくして肉が一通り行き渡り、場の空気が緩んできた頃、凪が唐突に切り出した。
「俺さ、最近ちょっとハマってることがあって」
「珍しいな」
「凪と言えばゲームじゃないのか?」
「ゲーム以外にも生きてるし」
「ほう。教えてくれ」
「盆栽」
全員が凪を見た。
「……ぼ、盆栽?」
「そ!」
「お前が?」
「なんで驚くの」
「……電子の対極だから、かな」
凪は梅酒ソーダを一口飲んでから続けた。
「なんか、デジタルのものってバックアップ取れるじゃん。注意してれば消えてもすぐ復元できるし。でも植物って、一回枯らしたら終わりじゃん。そのシビアさが最近すごく刺さるというか」
「……なるほど」
「で、盆栽って剪定の判断がすごく難しくてさ。どの枝を切るか、どこまで切るかで全体の形が変わる。間違えたら取り返しつかない。……それがなんか、プログラムのデバッグに似てると思って」
「その発想はなかったな。勉強になる」
慧が言った。
「今、松を育ててる。五葉松。まだ全然形になってないけど」
「事務所に持ってくればいいのに」
「日当たりが悪いから駄目。ちゃんと日の当たる窓際に置いてる」
「お前の部屋、昼夜逆転してて窓開けないんじゃないか」
「盆栽のためだけに午前中に起きてるよ。一回ね」
その言葉に全員が少しだけ黙った。
「盆栽のためだけに……」
「甲斐甲斐しいでしょ」
「素直にすごい」
遥が短く言うと、凪は少しだけ照れたように鼻を掻く。
「桐生サンは」
向きを変えてソフィアが聞いた。
「最近ハマってることはありますか。料理以外で」
「料理は昔からだから、ハマってるというより生活の一部だね」
「では料理以外で」
「そうだな……」
慧はワインを傾けながら、少しだけ考えた。
「アンティークの懐中時計を集めている」
「へええ」
「主にスイスとイギリスの、十九世紀から二十世紀初頭のもの。当時の職人が手作業で組み上げた機械式の機構が面白くてね。文字盤の意匠も一点一点違う。同じ設計図から作られているはずなのに、仕上げた人間の癖が出る」
「……弁護士っぽくない趣味ですね」
慧は少しだけ眉を上げる。
「そうかな?」
「もっと実用的なものかと思っていました。でも――」
ソフィアは少しだけ考えてから続けた。
「構造を分解して理解したい、という点では、やはり弁護士っぽいと言えるかもしれません」
「鋭いね。実際、裏蓋を開けて歯車の配列を確認している時が一番楽しい」
「それ使えるの? ちゃんと」
凪が割り込む。
「動くものもあれば、止まっているものもあるよ。止まっているものの方が若干多いかな」
「止まってる時計を集めてどうするんですか」
「眺める」
「……眺めるだけ?」
「そうだよ」
凪が梅酒用のジョッキを持ったまま少しだけ固まった。
「慧的にはアリなの。動いてないのに」
「もちろん。止まっているものにも、止まるまでの時間が積み重なっている。それが見える気がして嫌いじゃない」
凪は”うーん”と言いながら容器を置いた。盆栽を育てている人間が言えた義理ではないと気づいたらしく、それ以上は何も言わなかった。
「ドイツにも懐中時計の文化はありますよ」
珍しく、少しだけ声が弾ませてソフィアが言った。
「知ってる。グラスヒュッテの時計産業は有名だ。触れたことは?」
「祖父が持っていました。金色の、丸くて重いやつ。子どもの頃に触らせてもらったことがあります。裏蓋を開けると、歯車が全部見えて……」
「そう、あの瞬間がいいんだよ」
「……確かに、綺麗でした」
少しだけ素直な声でそう言った。慧がそれを受けて、口の端を上げる。凪が二人を交互に見て、”趣味合う人間同士って感じだな”と呟いた。
「そういえば」
遥がハイボールを傾けながら、ぽつりと言った。
「事務所のバーカウンターの端に置いてある丸いやつ、それか」
「よく気づいたね。銀側のハンターケースだよ。蓋がついているタイプ。……気になってた?」
「別に。置いてあるなと思っただけだ」
「一度手に取ってみるかい」
「いい」
「即答だ」
慧が苦笑した。
「慧って絶対休日も頭使ってるよなぁ」
凪が言った。
「頭を使わない時間というのが想像できないんだよ」
「それ、あんまり休めてないんじゃないですか」
「脳が休みを求めていないから問題ない」
「問題あります」
「ソフィアは医師ではないからね」
「常識の問題です」
「僕の常識の基準値が、君たちと少し違うだけだよ」
ソフィアが”少しどころではないと思いますが”と小さく零し、凪が”ほんとそれ”と同意する。一方の慧は涼しい顔だった。
焼肉が二度目のおかわりに入り、場の空気がいくらか緩んできた頃。
「小夜ちゃんってさ」
凪が网の上の肉を箸でつつきながら、ふと言った。
「専門学校以外は何かしてるの? バイトとか」
小夜は水のグラスを両手で包みながら、少しだけ間を置いた。
「……今はしてない」
「昔はしてたんだ」
「……一年くらい前まで」
「どこで」
小夜は遥を一度だけ横目で見る。遥は網の上の肉を確認しながら、視線を逸らさなかった。答えるかどうかは小夜次第、という顔だった。
「…………コンビニと居酒屋」
「……マジか、意外かも。掛け持ち?」
「順番に。コンビニが先」
「なんで辞めたの」
小夜はグラスを一口飲んでから、平坦な声で答えた。
「……客と同僚がだるかったから」
凪が”あー”と言った。感想というよりも理解した音だった。
「どうだるかったの」
「絡んでくる」
「コンビニで?」
「コンビニと居酒屋、両方。客が話しかけてくる。同僚が慣れ慣れしくしてくる。……全部」
ソフィアがデスクでよく使う、情報に向き合う時の静かな目で小夜を見た。
「それは……接客業を選んだことに無理があったのでは」
「……そうかもしれない」
「小夜ちゃん絶対モテるもんな」
さらりと言う凪にソフィアが視線を移す。彼は肉から目を離さないままだった。
「関係ある? それ」
「大いにある。後は何て言うか……独特の雰囲気があるじゃん、小夜ちゃんって。近付いちゃいけない感じと、どこか近付きたい感じが同時にある。……そういう雰囲気、変なやつを引き寄せるんだよな。磁石みたいに」
「引き寄せる、ってどういう意味で言ってます?」
グラスを置きつつソフィアが口を挟んだ。
「悪い意味じゃないよ。ただ、フィルタリングが難しいってこと。普通の人間は本能的に近づかないんだけど、センスのないやつとか、自分のことを特別だと思ってる痛いやつとか、そういうのに限って無遠慮に突破してくる。……俺も似たような経験あるし」
慧がワインを傾けながら、静かに相槌を打った。
「分かるよ。凪は昔、チャットやフォーラムで似たような経験してたね」
「そうそう。デジタルでも同じ。能力があったり、ちょっと変わった雰囲気があると、おかしいやつが引き寄せられてくる。だから気持ちは分かるっていう」
小夜は凪を見る。少しだけ測るような目だった。凪の言葉を嘘だと思っていない、という顔だった。
「今は何かされていますか? 専門学校の課題だけ?」
ソフィアが書類やパソコンに向かう顔のまま聞いた。
「……ちまちまやってる」
「というと?」
「デザインを売ってる。ネットで」
ソフィアの碧眼が、ほんの少しだけ鋭くなった。
「……個人で、ということですか」
「うん」
「どういった形で販売しているんですか。プラットフォームを使って? それとも直接受注?」
小夜が少しだけ面食らったように遥を見る。彼は僅かに肩をすくめると、補足するように口を開いた。
「両方。少しずつな」
「そう。いくつかのサイトにポートフォリオ出してる」
凪はその言葉に少しだけ目を細めた。興味を持った時の顔だ。
「へー! どんなの売ってんの。テキスタイルのパターン?」
「……それも。あとタトゥーデザインと、ロゴ。たまにアパレルのプリント柄。依頼が来たら受ける」
「問い合わせは?」
「メール。基本、文面だけでやり取りする」
「声なし、顔なしで完結するやつ」
「……そう」
凪は少しだけ間を置いてから言った。
「賢いね。生き方に合ってそう」
褒めているのか分析しているのか判然としない言い方だったが、小夜はそれを受け取ると、少しだけ目を細めた。
「個人事業主として登録しているんですか?」
ソフィアが再び聞いた。声のトーンが、さっきより少し前のめりになっている。
「……開業届は出した。遥に言われて」
「俺じゃない。慧に言われた」
「そっちか」
凪が軽く頷いて納得すると、慧が”収入が一定額を超えると申告が必要になるからね”と事もなげに付け加えた。
「売上はどのくらい――」
「ソフィア」
慧が穏やかに遮る。ソフィアは咄嗟に口をつぐんだ。
「今夜は仕事の話はなし、と言っただろう」
「……これは小夜サンへの純粋な興味です」
「似たようなものだよ、君の場合」
ソフィアは少しだけ唇を結んだ後、小夜の方を向いて、今度は少し声のトーンを変えた。
「すみません。……ただ、素直に、すごいと思ったので」
「何が」
「十八歳で、専門学校に通いながら、個人でデザインを売っているということが。……私、法律の勉強以外のことに、あまり時間を使ってこなかったので」
小夜は少しだけソフィアに目をやった。感情の色のない目でただ静かに見た。ややあってタンを口に運び、箸を置いてから、少しだけ間を空けつつ答える。
「……別にすごくない。気が向いた時にやってるだけ」
「それでも続いているんでしょう」
「……気が向いてるから」
「続く理由が気持ちの中にあるということは、すごいことだと思います」
小夜はそれを聞いて少しだけ黙った。反論も同意もせず、ただグラスの水を一口飲む。
「……ソフィアって、法律以外に好きなものないの」
「え、ありますよ。紅茶と、香水と――」
「六法全書の素読だろ」
唐突に凪が割り込む。ソフィアが彼を一瞥した。
「それも好きです」
「趣味が仕事と地続きすぎる」
「仕事が好きなので問題ありません」
「……なんか、俺と真逆だな。俺、好きなことが仕事になってる感じだけど」
「どう違うんですか」
「俺は好きだから仕事になった。ソフィアは仕事だから好きになった。みたいな」
ソフィアは少し考えてから言った。
「……言われてみれば」
「どっちがいい悪いじゃないけど」
「そうですね」
慧が静かに言った。
「どちらも、ちゃんと自分のものになっているということだ」
しばらくテーブルに落ち着いた静けさが戻った。凪が新しい肉を網に乗せる音がして、脂の弾ける音が続いた。ソフィアはもう一度だけ小夜の方を見る。
「小夜サンが描くものを、いつか見てみたいです。公開されているものがあれば」
「……ある」
「教えていただけますか」
小夜は少しだけ間を置いて遥を見た。彼は網の上の肉を箸で押さえながら、視線だけを小夜に向けた。
「……気が向いたら」
小夜はそれだけ答え、また水に視線を戻す。ソフィアの”はい”と返したその温度が、普段の業務上のそれとは少しだけ違っていた。ややあって、凪がロースターの上のカルビを確認しながら、思い出したように口を開く。
「そういえば遥って、最近バイク乗ってんの?」
遥はハイボールを傾けていた手を止めた。
「……なんでそれを」
「この前、マンションの駐輪場に停まってるの見かけた。夜中に通りかかった時。結構いいやつじゃん、あれ」
「深夜にこっち方面へ何の用だ」
「ちょっと気になることがあって、周辺のカメラ確認してた。それはどうでもよくて」
「どうでもよくない」
「バイクの話しようよ」
遥は短く息を吐いた。
「……最近は乗ってない」
「なんで? 仕事に使えそうなのに」
「使わない。目立つ」
「あー、確かに」
凪はカルビを網の端に移しながら、続けた。
「何CC?」
「……750だ」
「大型じゃん」
「免許は持ってる」
「そういう話じゃなくて、格好良いなと思って。特殊清掃業で大型バイク乗りか」
「別に珍しくない」
「遥が乗るのが珍しい。なんか物凄く似合いそうで似合わなそうで、でも実際には似合ってそうで」
「どっちだ」
「分からなくなってきた」
慧が赤ワインを傾けながら言う。
「遥がバイク乗りなのは知っていたよ。最初に事務所へ来た時、ヘルメットを抱えていたことがあっただろう」
「そうだったか」
「ソフィアが入る前の話だね。……あの頃、遥は仕事の帰りに直接来ることが多かったから」
遥は何も言わない。記憶にあるのか、あえて黙っているのか、どちらとも判断のつかない顔だった。ソフィアが少しだけ身を乗り出した。
「どんなバイクですか」
「……古い国産だ。CB750」
「CBというのは」
「ホンダのやつ。かなり前の型だが、状態がいいものを手に入れた」
「……それは、高いんですか」
「物による」
「黒瀬サンのは」
「まあ、それなりには」
ソフィアは少しだけ目を細めた。高所作業員がそれなりの価格の旧車を持っている、という事実を、彼女は静かに咀嚼しているようだった。
「乗るのが好きなんですか」
「好き嫌いというより、移動が楽だから」
「公共交通機関の方が楽では?」
「人が多い」
「でしたね」
ソフィアは短く納得する。遥という人間の行動原理を、彼女はもう十分に知っていた。凪が続けた。
「夜中に一人でどこか走ったりするの?」
「たまにな」
「どこ行くんだよ」
「どこにも行かない。走るだけだ」
「まさかの目的地なし?」
「ああ」
凪はそれを聞いて、少しだけ考える顔をした。
「……なんか分かる気がする。俺も電子の海を漂う時、特にどこかに行きたいわけじゃないことあるから」
「それとは違う」
「似てると思うけど」
「お前のは画面の前から動いてないだろ」
「物理的な移動の有無の問題じゃなくて、本質的に――」
「違う」
慧が苦笑交じりに口を挟んだ。
「遥、凪の言いたいことは分かるだろう」
「分かった上で違うと言ってる」
「なぜ」
遥は少しだけ間を置く。
「……走ってると、風の向きが変わる。路面の感触が変わる。温度が変わる。全部、外から来る」
「ゲームも外から来るけど」
「画面越しだろ」
「あっ」
凪は珍しく言葉に詰まった。遥がそういうことを、そういう言い方でするのは稀だった。慧はワインを一口飲んでから静かに言った。
「遥がバイクに乗り始めたのは、いつ頃だったかな」
「十八になってすぐだ」
「免許を取るより先に、知り合いの整備士から弄り方を覚えたんだろう」
「……なぜ知ってる」
「当時の話を一度だけ聞いたことある気がして」
「覚えてない」
「僕は覚えている」
遥は慧をちらりと見る。慧は涼しい顔だ。覚えているという言葉の奥に、あえて何かを掘り返す気のないことが滲んでいる。ソフィアが少しだけ迷ってから、おずおずと聞いた。
「……二人乗りはできるんですか」
「タンデムシートがある」
「誰かを乗せたことは」
「……ある」
その一言にテーブルの空気が微かに変わった。誰が――とは聞かなかった。聞かなくても、この場にいる全員が同じ方向へ視線をやりたくなる衝動を、それぞれの理由で堪える。ソフィアは少しだけ早くグラスに視線を落とした。小夜が遥の袖を黒ネイルの指先でそっと引いた。視線を向けると、小夜は前を向いたままだった。
「……また乗せて」
「危ないだろ」
「前も乗せてくれた」
「お前が無理やり乗ってきただけだ」
「……乗せてくれた」
「解釈が違う」
「同じ」
遥は短く息を吐いた。反論の言葉が出てこなかった。凪だけが唯一”乗ったことあるの”と言った。小夜は凪を一瞥してまた前を向く。答えなかったが、否定もしなかった。
「いつ?」
「……教える必要はない」
「なんで」
「あたしと遥の話だから」
凪が”あー、そういう感じか”と言い、エナジードリンクの代わりの梅酒ソーダを一口飲む。それ以上は追及しなかった。
慧はその一連のやり取りを見ていた。小夜が他人の質問に二言以上答えることは珍しい。遥が昔の話をされて明確に表情を変えることも。その両方が、この短い会話の中に収まっていた。
遥はその会話を聞きながらハイボールを一口飲む。小夜が引いていた袖から指先を離した。代わりに、遥の手の甲の上に自分の手のひらをそっと乗せる。彼はそちらを見なかったが、手を動かそうともしなかった。
「……春になったら」
小夜がぽつりと言った。
「ん」
「走って。あたしを乗せて」
遥は少しだけ間を置いた。
「……考えとく」
「前も同じこと言った」
「覚えてたのか」
「全部覚えてる」
ソフィアはその会話の端を聞きながら、グラスに残った白ワインを静かに揺らす。揺らしたまま、口をつけることはなかった。凪がロースターの上の肉を確認しながら、独り言のように言った。
「……春かぁ。もうちょい先だな」
「そうだな」
慧が静かに答える。それ以上バイクの話は続かなかった。話題はそのまま自然と流れていき、網の上の肉が焼け切る頃には、別の何かについて誰かが喋り始めた。遥の手の甲の上に、小夜の手のひらがまだ乗っていた。
肉が三度目のおかわりに入った頃、場の空気はすっかり緩んでいた。ソフィアの白ワインは二杯目に入っていて、普段より少しだけ声のトーンが高い。凪の梅酒ソーダは四杯目で、それでも顔色がほとんど変わらないのは体質らしかった。慧は赤ワインを一定のペースで飲み続けており、遥は黙ってハイボールを傾けていた。
小夜は、二杯目のハイボールを半分ほど飲んだところで止めていた。
遥がそれを見ていると、小夜が視線に気づいて言った。
「……もう少し飲む」
「無理するな」
「無理してない」
「顔が赤いぞ」
小夜は自分の頬に触れた。指先で自分の体温を確かめる。
「……ちょっとだけ?」
「だいぶ赤い」
「……じゃあ水にする」
素直に小夜はグラスの水に切り替えた。遥が水差しを手元に引き寄せてやると、小夜は黙ってグラスを差し出した。それだけのやり取りだったが、ソフィアはその一部始終を横目で見て、グラスの縁に視線を落とした。
「ソフィアって」
凪が唐突に言った。
「何でしょう」
「日本に来て困ったこととかある? 文化的な意味で」
ソフィアは少し考えてから答えた。
「……最初の頃は、謙遜の文化が難しかったです」
「わ、たしかに割と日本特有かもね。下手なこと言えんけど」
「ドイツでは、褒められたら”ありがとう”と素直に受け取るのが普通です。でも日本では、褒められた時に謙遜することが礼儀とされる場面がある。最初の頃、上手く使い分けられなくて……先輩の弁護士の方に自信家だと思われてしまったことがあります」
「まあ、ソフィアは実際に自信家だと思うけど」
「……そこは否定しませんが」
彼女は少しだけ唇を結んだ。
「ただ――困るというわけでなく、日本語の敬語の構造が好きで。相手との関係性や距離感が言葉の選び方に全て出る。もちろんドイツ語にも敬語はありますが、ここまで繊細ではありません」
「法律の文言みたいに、ルールが細かいから好きなんじゃない?」
「……そうかもしれません」
ソフィアは少し考えてから言った。
「でも灰谷サンの日本語には、敬語が存在しないですよね」
「いやあ、俺、敬語使えないんだよね。脳のサポート対象外」
「使えないんですか、使わないんですか」
「両方」
「桐生サンとの会話でも?」
「慧には最初からタメ口だった」
「……桐生サンは何も言わなかったんですか」
「何も。てか最初から向こうも俺に対してフランクだったし」
慧がワインを傾けながら言った。
「タメ口の方が情報交換が早いからね。礼儀より効率を取ったんだ」
「弁護士がそれでいいんですか」
「依頼人には使い分けてるよ? 心配しないで」
ソフィアは”分かりました”と言いながら、どこか釈然としない顔だった。
「ところでさ」
凪が網の上の肉を確認しながら言った。
「みんな、嫌いな食べ物ってある?」
「また唐突だな」
「いや、注文のために聞いとくべきだったと思って。今更だけど」
「ほんとに今更だよ」
「遥は?」
「別にない」
「ほんとに?」
「本当に」
「……羨ましい。俺。パクチーが無理。あの香りが脳のどこかに引っかかって、集中できなくなる」
「気にするな。パクチーが苦手な人は多い」
あっけらかんとした口調で慧が言う。
「僕はセロリだったんだが、大人になってから克服したよ」
「克服できるもんなんだ」
「料理する側になると、使い方が分かって苦手じゃなくなることがある」
「ほえー、そういうもんなのか。ソフィアは?」
凪が今度はソフィアに向いた。
「……納豆です」
「あー」
「外国の方はそういう方が多いですね……と言われ続けてもう一年になりますが、未だに克服できていません」
「やっぱ匂いが?」
「匂いと、糸を引く食感と、全体的な概念が」
「が、概念から苦手なのか」
「……頑張りましたが、頑張れる限界がありました」
「無理しなくていいよ」
「でも日本に住む上で、克服すべきかと思って……」
「必要ないと思う」
「灰谷サンにそう言われると少し気が楽になります」
「俺にも嫌いなものあるし」
「パクチーですね。逆に私は大丈夫です」
「そうそう。お互い様だ」
ソフィアが少しだけ笑う。凪と笑顔を交わすことは珍しかったので、慧がそれをそっと見ていた。小夜は遥の袖をつまみながら小声で言った。
「……あたしも納豆が苦手」
「知ってる」
「知ってた?」
「買ったことないだろ、うちで」
「……よく覚えてるね」
「当たり前だろ」
小夜はそれを聞き、少しだけ遥の腕を二本指でトントンした。満足したような、しかし表情には出さない、彼女なりの機嫌の良さだった。
「そういえば」
ソフィアがワインを一口飲んでから言った。
「最近、気になっていることがあって」
「なに」
「香水の選び方なんですが」
凪が”増えてたやつね”と笑う。ソフィアが軽く凪を睨んだ。
「増えてた、というほどでもありません。三本ですから」
「さすがに三本は増えてるよ」
「……それぞれ用途が違いますし」
「どんな用途?」
ソフィアは少しだけ言いよどんだ。
「……昼用と、夜用と、特別な日用です」
「特別な日って?」
「特別な日は――色々あります」
「たとえば?」
「……色々、です」
凪が”絶対何か隠してる”と言い、食い気味にソフィアが”隠していません”と返す。慧は何も言わなかったが、口の端が微かに上がっていた。遥はハイボールを飲みながらその会話を聞いていた。特別、という言葉の意味を深く考えるほど彼の察しは良くない。
しかし小夜は知っていた。彼女の視線がソフィアに向く。ソフィアは凪に反論しながら、ちらりと遥を見た。その一瞬を小夜は見逃さなかった。小夜はグラスを持ち直し水を一口飲む。それから、ごく自然な動作で、遥の腕に自分の腕を絡めた。その腕に少しだけ力を込めていた。
「……どうした」
「なんでもない」
「腕」
「寒い」
「個室だぞ、ここ」
「……寒い」
遥は短く息を吐いた。しかし腕を解こうとはしなかった。ソフィアはその様子を横目で見て、グラスに視線を落とした。白ワインの澄んだ色が、間接照明を受けて揺れていた。
デザートが来る頃には、全員の話題は完全に脱線していた。慧が古地図の話をし始めると、凪が”それって江戸の下水システムと現在の地下鉄の関係性に似てる”と言い出し、ソフィアが”ドイツの古い都市も似た構造があって”と加わり、いつの間にか三人で都市設計の話を熱く語り合っていた。
遥はその会話を聞くとも聞かないとも言えない距離感で、アイスクリームを静かに食べていた。小夜は遥の腕から離れ、チョコレートのデザートを前に初めて少しだけ顔が動いた。
「……おいし」
「良かったな」
「遥も食べて」
「甘いのはいい」
「食べて」
小夜はスプーンをすくい、遥の方へ向ける。彼は一秒だけ小夜を見てから素直に口を開けた。その一部始終を、ソフィアは都市設計の話をしながら視界の端で捉えていた。
「――そろそろ締めにしようか」
そう慧が言ったのは、食事の開始から二時間ほど経った頃だった。デザートの皿が片付けられてドリンクも最後の一杯になっている。個室の中は来た時よりずっと温かい。それは暖房のせいだけでもなかった。
「今夜はありがとうございました」
ソフィアが言った。
「こちらこそ。みんな来てくれたから楽しかった」
「桐生サンが呼んだんですが」
「呼んで良かった、ということだよ」
凪が伸びをしながら欠伸混じりに唸る。
「焼肉、久しぶりだった。てか美味すぎた。……また来たい」
「また連れてきて貰いましょう」
「今度は盆栽の話、もうちょっとしたい」
「喜んで聞くよ」
遥は席を立ちながら、ジャケットを手に取る。小夜がそれを見て、自分の肩から外して返そうとした。遥はそれを受け取らなかった。
「帰るまで着てろ」
「……でも」
「寒い、って言ってたろ」
小夜は少しだけ間を置いてから、また肩に乗せる。ジャケットの前を両手で合わせて、それで遥の匂いを確かめるような動作をした。誰にも分からないくらい小さな動作。慧だけがそれを見ていた。彼は何も言わない代わりにグラスの残りを飲み干し、ゆっくりと立ち上がる。
「さ、帰ろう」
引き戸を開けた瞬間、廊下の空気が少しだけ冷たく感じた。個室の温かさと廊下の冷気が混ざり合う境界で、全員が一瞬だけ立ち止まる。
店を出ると夜風が吹いていた。冬の乾いた風だったが、来た時ほど冷たくは感じなかった。腹が満たされているせいか、あるいは二時間分の体温がまだどこかに残っているせいか。駅の方向へ歩き始めたところで、ふと凪が呟く。
「……楽しかった」
珍しく、素直な言い方だった。
「そうだね。本当に」
慧が答えた。
「また、やろう」
「やりましょう」
ソフィアが笑顔で返す。遥は何も言わなかったが、歩調がいつもより僅かにゆっくりだった。急いで帰る気になれない、という感じの速さだった。小夜は遥の隣で、ジャケットを肩にかけたまま歩いている。ピアスが夜風に揺れ、インナーカラーが街灯の光を受けた。しばらく歩いてから、彼女が小さく言った。
「……遥」
「ん」
「今夜、良かった」
遥は小夜を見た。相変わらず小夜は正面を向いたまま。良かったという言葉を口にした後、もう何も言わなかった。ただ歩き続けていた。遥はふっと短く鼻を鳴らして笑い、進行方向に向き直る。
「……そうだな」
それだけ言った。寒空の夜道を五人分の足音が重なり合い、駅へ向かって続いていた。すぐ前を歩く慧と凪とソフィアの声が、風に乗って後ろまで届いてくる。凪が何かを言い、ソフィアが反論し、慧が笑っている。
その音を聞きながら遥は煙草を取り出した。唇に咥えたまま、ライターを探してポケットを探った。
ない。当然だった。
「……ライター」
小夜が言った。
「ああ」
「返さない」
「知ってる」
小夜はコートのポケットから、遥のジッポライターを取り出す。手の中で一度だけ包んでからまた仕舞った。遥は煙草を唇から外して箱に戻す。小夜はそれを横目で確認し、少しだけ目を細める。満足――という顔だった。今夜の食事も、ライターも、ジャケットも、全部小夜のものになっていく。遥はそれを止めなかった。止める気もなかった。
夜道の先で慧が振り返った。
「遥、小夜ちゃん、遅れてるよ」
「今行く」
遥は歩調を少しだけ上げ、小夜はその隣にちょこちょこついてきた。五人分の足音が再び重なる。夜は静かに安らかに続いていた。