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#読み切り
ruruha
1
第7話 割れた隕石
朝の畑は、
まだ何も知らない顔をしていた。
葉先の露。
土のやわらかな盛り上がり。
水を待つ畝。
朝の風に返る若い葉。
けれど、
山のほうから来る匂いだけが、
少しちがっていた。
焦げた石の匂い。
雨に濡れた鉄みたいな、
それでいて甘さの残る匂い。
ミュオは桶を持ったまま、
ふいに顔を上げた。
首もとの紫が、
朝のひかりでかすかにふるえる。
おばあちゃんが、
井戸のつるべを引きながら気づく。
「どうしたんだい」
ミュオは山のほうを見る。
「よんでる」
おばあちゃんは手を止めた。
その言い方は、
声がしている時のものではなかった。
胸の奥へ、
何かの気配が来ている時の言い方だ。
おばあちゃんは桶を置く。
「行くかい」
ミュオはうなずいた。
山へ入る道は、
落ち葉の音がまだ湿っていた。
昨日の夜に少し降ったらしい。
細い枝の先に水が残り、
踏むたびに土の匂いが起きる。
ミュオは前を歩く。
長い脚が、
草のあいだを迷わず進む。
灰色の羽毛へ、
木漏れ日がちらちら落ちる。
おばあちゃんは後ろからついていく。
小柄な背すじはいつも通りまっすぐで、
茶色のもんぺの裾が、
朝露を少しだけ吸っていた。
斜面の先。
最初に隕石が落ちた場所は、
もう前のままではなかった。
土のえぐれた跡はまだ残っている。
けれど、
そのまんなかにあったはずの塊が、
ひびだらけになっていた。
大きな殻が、
いくつも割れている。
割れ目のあいだへ、
草が少し入りこみ、
昨夜の雨がたまって、
小さな濁りを作っていた。
ミュオは足を止めた。
胸の奥で、
あの落ちてきた夜の音が、
遠くで鳴りなおす。
おばあちゃんが、
少し息をのむ。
「割れたねえ」
その言葉のあと、
ふたりともしばらく動かなかった。
殻の欠片は、
土へ半ば埋まっている。
大きいものもある。
指先ほどの小さなものもある。
そのひとつへ、
ミュオがしゃがみこんだ。
指を伸ばす。
触れた瞬間、
ぴり、と胸の奥が鳴った。
熱ではない。
でも、冷たくもない。
土でもなく、
水でもなく、
空を長く落ちてきたものだけが持つ、
乾いたひかりみたいな感触。
ミュオは目を細めた。
「これ」
おばあちゃんが横へしゃがむ。
「何かあるかい」
「ことばの まえ」
意味のぜんぶは伝わらなかった。
でも、
おばあちゃんは首をかしげるだけで、
分からないと言わなかった。
「まだになる前のやつかい」
ミュオは小さくうなずく。
ことばになる前。
詩になる前。
胸の奥で丸くなっている粒に、
少し似ている。
欠片は、
その粒の外側だけを集めたみたいだった。
おばあちゃんは、
足もとの土を指で掘った。
すると、
小さな欠片がもうひとつ出てくる。
雨で流れたらしい。
斜面から少し下へ、
きらりとした粒がいくつも散っている。
「こりゃあ、畑まで行ってるかもしれないねえ」
その言葉に、
ミュオはすぐ立ち上がった。
山から畑までは少し離れている。
でも、水は道を選ばない。
昨夜の雨なら、
小さなものを運んでもおかしくなかった。
ふたりは急いで戻った。
畑へ着くと、
朝の顔をしていた土の中に、
たしかに見慣れないものが混じっていた。
畝の肩。
水のたまりやすいきわ。
踏み固められた道の脇。
そこかしこに、
小さな欠片が埋もれている。
土にぬれると、
その表面は地味だ。
でも、
陽が当たると、
一瞬だけ目の奥へ残るひかりを返す。
おばあちゃんがしゃがみこみ、
指先でひとつつまみ上げる。
「ガラスみたいだねえ」
ミュオは首を振る。
「ちがう」
何がどう違うのか、
まだ言えない。
けれど、
ただの固いものではない。
土の中で、
何かを待っている。
おばあちゃんは、
指へのせた欠片をしばらく見ていたが、
やがて畝へ戻した。
「取りきれないね」
たしかにそうだった。
粒は小さい。
数も多い。
朝のひかりの加減で、
見えるものと見えないものがある。
里の男が、
鍬を肩にして通りかかった。
肩の広い体に、
草の汁のしみた作業着。
長靴の泥はまだ新しい。
「何やってる」
おばあちゃんが顔を上げる。
「山の石が、こっちまで来たみたいでね」
里の男は眉を寄せ、
畑へ近づいた。
足もとの土を見て、
小さく舌を鳴らす。
「……ほんとだな」
長い指ではなく、
働き慣れた太い指でひとつ拾う。
その見方は、
研究者の目とも、
ユーチューバーの目とも違った。
使えるか。
危ないか。
どこまで混じったか。
暮らしの目だった。
「作物に悪さしねえか」
おばあちゃんは言う。
「まだ分からないねえ」
里の男はミュオを見る。
水色寄りの目。
灰色の羽。
首もとの紫。
「分かるか」
ミュオは欠片の上へ指を置いた。
胸の奥へ、
乾いたひかりが流れこむ。
そこへ土の湿りが重なって、
妙に深いところで混ざる。
「きいてる」
「何が」
ミュオは畝を見る。
「つちが
いつもより
ひろい」
里の男は少し黙った。
分かったとは言わない。
でも、
いい加減に聞き流しもしない顔だった。
「そうか」
それだけ言って、
鍬の柄を握りなおす。
「じゃあ、今日は気ぃつけて見とく」
言って去っていく背中は、
ぶっきらぼうでも、
ちゃんと畑の側に立っていた。
昼前、
ミュオはひとりで畝のあいだを歩いた。
欠片の混じった土は、
昨日までの土と少しちがう。
いつもなら、
おばあちゃんの手の温度や、
子どもの足音の熱が、
やわらかく層になって残っている。
今日はそこへ、
もうひとつ、
遠いところの乾いたひかりが差しこまれていた。
土の奥が深くなったみたいだった。
近いものだけじゃなく、
上のほうまで通じている。
ミュオはしゃがみこみ、
指で土をほぐした。
そこへ、
指先ほどの欠片が現れる。
光を受ける。
消える。
また光る。
胸の奥で、
ことばの粒がいつもより速く集まってくる。
まだ昼だ。
空は高い。
葉はそよいでいる。
おばあちゃんは少し離れたところで、
苗のまわりを見ている。
ミュオは、試すつもりで、
でも試しきれないまま、
小さく言った。
「つちの なか
そらの かけらが
ねむってる」
言い終わった瞬間、
畝のあいだを風が抜けた。
ただの風ではない。
土のきわから立つ風だった。
欠片のある場所だけ、
葉先が小さく震える。
まだ若い芽が、
いっせいではなく、
順に起き上がるみたいに揺れる。
おばあちゃんが振り向く。
「今の」
ミュオは自分の指を見る。
そこへ、
まだ欠片の感触が残っている。
空を見上げる。
何も変わっていないように見えた。
けれど、
畑へ落ちるひかりの縁だけが、
ほんの少しだけ深くなっている。
色が変わるほどではない。
でも、
いつもよりひと筋ぶん、
葉の輪郭がくっきりしていた。
おばあちゃんがゆっくり近づく。
「また、聞いたねえ」
ミュオはうなずいた。
「つよい」
そのひと言に、
おばあちゃんの目じりのしわが少し深くなる。
笑っているのではない。
慎重に受けとめている顔だ。
「強すぎないといいけどねえ」
昼を過ぎるころ、
そばかすの子どもが畑へ来た。
頬の丸い顔。
片側だけ跳ねた髪。
膝の擦りむいた跡もそのまま。
「また来た」
おばあちゃんが言うと、
子どもは笑った。
「だって、何かあったんでしょ」
何かあった、
という顔をしていたのは、
たぶんミュオだった。
ミュオは子どもを手招きし、
畝の端へしゃがませた。
「みて」
子どもは土をのぞきこむ。
「なにこれ」
欠片を見つけた。
指を伸ばしかけて、
おばあちゃんに止められる。
「口に入れちゃだめだよ」
「入れないよ」
でも、声は少し興奮していた。
子どもは顔を近づけたまま言う。
「星のかけらみたい」
その言い方に、
ミュオの胸が小さく鳴る。
星のかけら。
たぶん、かなり近い。
ミュオは、もう一度、
その言葉を胸の中でなぞる。
星のかけら。
土の中。
眠ってる。
聞いてる。
ことばの粒が、
今度は前よりきれいに並ぶ。
ミュオは、畝へ向かって言った。
「ほしの かけ
つちで めをさます
ひるの ね」
子どもが空を見る。
おばあちゃんも空を見る。
ミュオも見る。
前みたいに、
太陽がはっきり変わるわけではない。
でも、
ひかりの降り方が少しだけずれた。
葉の裏まで届くひかりが増える。
畝の影がやわらかくほどける。
土の粒ひとつひとつが、
うっすらと息をするみたいに見える。
子どもが、
ぽかんと口をあけた。
「うわ」
それは大きな出来事を見た声ではない。
小さいのに、
見逃せないものへ出る声だった。
おばあちゃんは、
畝の葉をそっと持ち上げた。
「中のほうまで明るいねえ」
たしかにそうだった。
昼のひかりが、
いつもより奥へ入っている。
表だけではなく、
葉の重なりのその下まで。
欠片の混じった畝だけが、
やわらかくひらいていた。
ミュオは胸へ手を当てた。
強い。
でも、荒くはない。
前より深く届く。
空へ投げるより、
土から上へ持ち上がる感じだった。
おばあちゃんが、
小さくつぶやく。
「混ざったんだねえ」
ミュオはその言葉を聞いて、
はじめて少しこわくなった。
混ざった。
土と。
畑と。
暮らしと。
落ちてきたものが。
元に戻らない感じがした。
子どもはそんなことは気にせず、
目をきらきらさせている。
「ねえ、もっと言って」
その熱に、
ミュオは少しだけ笑いそうになる。
でも、すぐには読まなかった。
強くなったぶん、
前より慎重になる。
ことばを置くと、
前より遠くまで響く。
それが分かるからだ。
夕方、
おばあちゃんとふたりで、
畝の見回りをした。
欠片のある場所。
ない場所。
葉の向き。
土のやわらかさ。
水のしみ方。
ひとつずつ確かめる。
おばあちゃんは歩きながら言う。
「変わる時はね、いいほうかどうか、急いで決めないほうがいい」
ミュオはうなずく。
その声は、
畑のやり方そのものだった。
芽が出た日に、
もう収穫の味を決めたりしない。
雨が降った日に、
それだけで一年を決めたりしない。
待つ。
見る。
触る。
また次の日も見る。
その積み重ねでしか、
土のことは分からない。
ミュオは欠片の混じる畝へしゃがんだ。
灰色の羽毛へ、
夕方の色が静かに乗る。
首もとの紫は、
昼より深く見える。
「ことば
つよくなる」
「うん」
「でも
どこまで いくか
わからない」
おばあちゃんは、
畝の肩へ手を置いた。
土のついた手。
細い筋の浮く甲。
笑う時のしわとは別の、
働く手の見た目。
「分からないなら、少しずつだよ」
そのひと言が、
ミュオの胸へ落ちる。
少しずつ。
それなら持てる気がした。
夜、
縁側へ出る。
空には、前に増えた星がある。
ひとつ。
ちゃんとそこにいる。
ミュオは欠片をひとつ、
手のひらへ乗せていた。
昼に畝の端から見つけた、小さなものだ。
おばあちゃんが、
家の中で保管しときな、と言って布へ包んでくれた。
欠片は夜の中で、
昼とは違うひかり方をした。
光っているのではない。
星の数を、
内側で覚えているみたいな見え方だった。
ミュオは空を見て、
手のひらを見て、
それから小さく言った。
「ほしは まだ
つちの したにも
あるみたい」
言い終わる。
空がすぐ変わることはなかった。
けれど、
少し遅れて、
前からあった星のすぐ横へ、
ごく小さな灯がひとつ、
にじむみたいに現れた。
増えた。
前より静かに。
前より遅く。
でも、たしかに。
ミュオは息を止める。
同時に、
家の前の畑へ落ちる夜の薄いひかりも、
ほんの少しだけ濃くなった。
昼のひかりが変わる兆し。
夜の星が増える気配。
その両方が、
今はまだ小さく、
でも同じ根からのびている気がした。
おばあちゃんが戸口から出てくる。
「また増えたかい」
ミュオはうなずいた。
「ちいさい」
「ちいさくても、あるねえ」
おばあちゃんは空を見る。
それから畑を見る。
「昼も、少しちがってたしね」
その言葉で、
ミュオの胸の中に、
今日一日の風景が重なる。
割れた殻。
土に混じる欠片。
畝の下でひろがる深さ。
昼のひかりのずれ。
夜の小さな灯。
変わりはじめている。
まだ名はつかない。
でも、畑はもう聞いている。
空も少しずつ近づいている。
ミュオは手のひらの欠片を、
そっと布へ戻した。
そして、
おばあちゃんのとなりへ座る。
小柄な肩。
茶色のもんぺ。
土のにおい。
今日もちゃんと暮らした人の見た目が、
夜の縁側でやわらかくほどけていた。
そのとなりで、
ミュオは増えたばかりの小さな星を見つめる。
大きくはない。
でも、畑の芽と同じで、
見つけた者の胸へはちゃんと残る大きさだった。
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