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第8話 帰還信号
夜のはじまりは、
いつもなら、もう少しやわらかい。
畑の土が昼の熱をゆっくり返し、
草の匂いが濃くなり、
山のかたちが少しずつほどけて、
空のひろさだけが残っていく。
その夜は、
ほどけ方がちがった。
空が早かった。
暗くなる前から、
上のほうだけが妙に澄み、
まだ鳥の声の残る時間なのに、
ひとつ、またひとつと、
灯がつきはじめる。
星だった。
いつもの星の出方ではない。
本来まだ浅いはずの闇へ、
誰かが先まわりして針で穴を開けていくみたいに、
ぽつ、ぽつ、ぽつと、
短い間隔で増えていく。
ミュオは縁側で顔を上げたまま、
動かなかった。
胸の奥がざわつく。
ざわつくだけではない。
見上げるたび、
首の後ろから背の真ん中へ、
細い糸を引かれるみたいな感じがする。
おばあちゃんが戸口から出てくる。
湯のみをふたつ。
いつもの歩幅。
いつもの茶色のもんぺ。
でも、その目じりのしわは、
今日は笑いのかたちになっていなかった。
「早いねえ」
ミュオは答えず、
空を見たまま言う。
「ちがう」
おばあちゃんは湯のみを置く。
「ちがうかい」
「ふえる」
そのひと言のあいだにも、
空の端でまたひとつ光った。
増えていく。
それも、
自然に出てきた増え方ではない。
星と星のあいだの、
本来、何もないはずの間へ、
あとから押しこまれるみたいに現れる。
並びが、少し窮屈になる。
前に増えたひとつの星は、
縁側からでも見分けがついていた。
あれはミュオのことばのあとに、
夜へそっと置かれた灯だった。
今、増えているものはちがう。
置かれるのではなく、
詰められている。
ミュオの羽先が、
ゆっくり重くなる。
おばあちゃんがそれに気づき、
少し近くへ座る。
「山のほう、行くかい」
ミュオはすぐには返事をしなかった。
でも、
胸の奥の細い糸は、
たしかに山のほうへ伸びていた。
呼ばれている。
やさしい呼ばれ方ではない。
待っている声でもない。
戻れ、
とまでは言っていない。
でも、
こっちだ、と
形だけを押しつけてくる気配だった。
ミュオは立ち上がった。
おばあちゃんも立つ。
家の前の畑は、
夜気を受けてしずかに沈んでいる。
この前の欠片が混じった畝だけが、
昼の名残を少し長く持っているみたいに見えた。
里の道を抜けると、
向こうから里の男が来た。
肩の広い体に、
昼のままの作業着。
長靴の重たい音。
「おい」
声は低かったが、
止めるためではなく、
確かめるための声だった。
「山だろ」
おばあちゃんがうなずく。
里の男も空を見上げる。
眉の濃い顔が、
今夜はいっそう険しく見えた。
「なんだ、あれ」
答えられる者はいない。
けれど、
見れば分かる。
おかしいのだ。
山道へ入るころには、
空の星はさらに増えていた。
増えすぎると、
きれい、の先に行く。
圧が出る。
見上げているだけなのに、
上から数で押されてくる感じがする。
そばかすの子どもが、
いつのまにか少し後ろをついてきていた。
頬の丸い顔は興奮で赤く、
でも目だけは少しおびえている。
「おれも行く」
里の男が振り返る。
「帰れ」
「いやだ」
おばあちゃんが言う。
「離れないなら、ついておいで」
その許し方が、
子どもの足を少しだけ落ちつかせた。
四人で山へ入る。
落ち葉が湿っている。
細い枝が顔をなでる。
空ばかりが明るくて、
足もとの土はそれに追いつけていない。
斜面を上がり、
最初に隕石が落ちた場所が近づくにつれて、
光が濃くなった。
星の光ではない。
地面のほうから来る。
えぐれた土のまんなかで、
割れた殻の奥が、
脈を打つみたいに明滅していた。
赤とも言えない。
紫とも言いきれない。
濡れた石の中へ、
火のないまま灯だけを閉じこめたような光。
欠片のひとつひとつまでが、
それに呼応するように、
斜面のあちこちで小さく返している。
そばかすの子どもが息をのむ。
「うわ……」
里の男は一歩前へ出かけ、
でもすぐ止まった。
長年の畑仕事で身についた止まり方だった。
危ないと決める前に、
相手の出方をひと呼吸待つ。
おばあちゃんはミュオを見る。
灰色の羽毛は、
山の光を受けて輪郭がいつもより薄く見えた。
首もとの紫だけが、
逆に深く沈んでいる。
ミュオは、
殻の割れ目から目を離せなかった。
そこから来る。
声ではない。
でも、
声よりはっきりしている。
胸の内側へ、
短い命令みたいなものが落ちてくる。
帰る。
戻る。
上へ。
上へ。
ことばではないのに、
意味だけが先に刺さる。
ミュオの脚が、
わずかに前へ出た。
おばあちゃんの手が、
その羽先へそっと触れる。
細い指。
土のついた感触。
昼の畑の名残。
それに触れられた瞬間、
ミュオは一度だけ大きく息をした。
「だめかい」
おばあちゃんの声は低い。
でも、追い詰めない声だった。
ミュオは目を閉じる。
閉じても、
上から引かれる感じは消えない。
空の星が、
さらに増えた。
ぱち、
ぱち、
ぱち、と、
見えない糸の先で火がつくみたいに。
里の男が空を見て、
小さく悪態をもらす。
「多すぎる」
その通りだった。
星は多ければいいわけじゃない。
今夜の空は、
数が数を押している。
夜の深さがなくなっていく。
そばかすの子どもが、
ミュオの羽を見た。
「重いの」
ミュオはうなずく。
重い。
冷たい視線の時と少し似ている。
でも、あれより深い。
重さが外から乗るのではなく、
内側から引かれて、からだそのものが持っていかれそうになる。
おばあちゃんが言う。
「読むかい」
ミュオはすぐには答えない。
詩を読む。
ここで。
この光の前で。
怖さはあった。
ことばを置いた先が、
空の上までつながっている気がする。
畑へ沈めるのとはちがう。
もっと遠いところまで、
届いてしまう。
でも、
読まなければ、
この増え方は止まらない気もした。
ミュオは斜面へしゃがみこみ、
欠片のひとつへ指を触れた。
冷たい。
けれど、
その奥にものすごく遠いひかりがある。
土の中へ混じった時の欠片は、
畑の水や手の温度と一緒に静かになっていた。
ここに残る大きな殻はまだ、
落ちてくる前のほうを向いている。
空の側。
ミュオはくちばしを少し開いた。
五。
七。
五。
今夜の数は、
胸の中でふだんより固く鳴る。
星がまた増えた。
夜が押される。
ミュオは言った。
「ほし ふえすぎ
よるの おくまで
せまくなる」
言い終わる。
その瞬間、
空のあちこちで灯っていた星の並びが、
ふっと乱れた。
消えたわけではない。
落ちたわけでもない。
でも、
配置が揺れた。
碁石を乗せた板の下から、
誰かがそっと手を入れたみたいに、
列がわずかにずれる。
そばかすの子どもが叫ぶ。
「動いた」
里の男も息を詰めたまま空を見ていた。
おばあちゃんは何も言わない。
そのかわり、
ミュオのそばから離れなかった。
ミュオは自分の胸の中が、
今までとちがう響き方をしているのに気づいた。
届いた。
畑でもない。
すぐ近くの空でもない。
もっと上。
もっと遠いところへ。
ことばが、
夜の並びそのものへ触った。
その感触は、
怖いほどはっきりしていた。
ミュオはもうひとつ息を吸う。
増えすぎた星の圧。
殻の脈打つ光。
上へ引く見えない糸。
そして、
おばあちゃんの指先に残る土の温度。
全部をいっしょに抱えたまま、
もう一度言う。
「かえる まえ
つちの においを
わすれない」
ことばが落ちる。
今度は空の揺れが、
さっきより大きかった。
増えすぎた星の一部が、
ぎゅうぎゅうに押しこまれていた位置から、
少しずつ間をあける。
詰めこまれた灯が、
元の夜へ押し戻されていくみたいだった。
殻の光が強まる。
斜面の土が、
かすかに震える。
里の男が言う。
「離れろ」
でもミュオは動けなかった。
引かれている。
それでも、
自分のことばが上へ届いた手ごたえもある。
このふたつが、
胸の中でぶつかる。
ミュオの目の水色が、
夜の光をいくつも映す。
その輪が細かく震えていた。
おばあちゃんが、
今度は羽先ではなく、
肩へ手を置く。
小さい手。
でも、
そこにある重みは確かだった。
「戻る先は、ひとつとは限らないよ」
そのひと言が、
ミュオの中へ深く落ちた。
殻から来る命令は、
ひとつしか向いていない。
上へ。
帰る。
戻る。
でも、
おばあちゃんの声はちがう。
土の上で暮らす声は、
いつも道をひとつに決めきらない。
芽が出なければ別の畝を見る。
雨が続けば明日を待つ。
人がいなくなっても、
残った者の鍋は火を入れる。
ひとつとは限らない。
ミュオは、ようやく少しだけ首を上げた。
空の星は、
まだ多い。
でももう、
さっきみたいな押しつけ方ではない。
配置が、
迷いながら揺れている。
ことばが、
効いている。
それが分かった瞬間、
怖さの中へ、別のものが入った。
自分の詩は、
土だけを動かすのではない。
夜の並びにまで触れる。
遠いところまで届いてしまう。
それは、
もう奇跡というだけではなかった。
干渉している。
ミュオはその名を知らない。
けれど、
手を入れてしまった感じは、
嫌になるほどはっきりしていた。
そばかすの子どもが、
小さな声で言う。
「ミュオ、空とけんかしてるみたい」
里の男が、
その言い方に一瞬だけ口をゆるめる。
でもすぐ戻る。
「けんかで済むならいいがな」
殻の光はなおも脈打つ。
星はなおも揺れる。
けれど、
最初の一方的な増え方ではなくなった。
夜が、
少しだけ自分のかたちを取り戻しはじめている。
ミュオは指先を地面へ押しつけた。
湿った土。
割れた殻の冷え。
欠片の乾いたひかり。
全部が同時にある。
その混ざり方が、
第七話までのどれとも違った。
畑では、
土の中に空が少し混じった。
今夜は逆だった。
空の中へ、
土のにおいが入りこみはじめている。
ミュオは、
もう一度だけ読む。
「よるの すきま
つちの いきまで
あけておけ」
言い終わる。
空が、大きくは揺れなかった。
でも、
増えすぎた星のいくつかが、
最初からそこにいた灯みたいに
静かな場所へ収まりなおす。
不自然だった明るさが、
少し引く。
夜の深さが戻る。
殻の光も、
それに合わせてひと息ぶん弱まった。
里の男がやっと息を吐いた。
「……下がったか」
おばあちゃんも空を見上げる。
「押し返したねえ」
ミュオは、その言い方に首を振りたかった。
押し返した、だけではない。
触った。
揺らした。
変えてしまった。
その感じが、
胸の奥に重く残っていた。
山を下りる帰り道、
四人ともあまりしゃべらなかった。
空には星がある。
でも、数は落ちついてきている。
ただ、
いつもの夜ではもうない。
ミュオのことばが届く距離が、
思っていたよりはるかに遠いと、
みんな、どこかで感じてしまったからだ。
家へ戻ると、
おばあちゃんはすぐ湯を沸かした。
台所の火の音が、
ようやく地上の音に思えた。
ミュオは縁側へ座り、
まだ少し震える羽先を見つめる。
灰色の羽毛のあいだへ、
夜気がしみる。
首もとの紫は、
山の光を見たあとで、少しだけ濃く見えた。
おばあちゃんが湯のみを持ってくる。
「飲みな」
ミュオは受け取る。
湯気がくちばしへあたる。
あたたかい。
その単純なことが、
今夜はありがたかった。
しばらくして、
そばかすの子どもが小声で言う。
「ねえ」
誰も急かさない。
「ミュオのことば、空に届くんだね」
ミュオは湯のみを見たまま、
小さくうなずいた。
届く。
もう、
偶然と言いきれない。
おばあちゃんが、
静かにたしかめるように言う。
「空まで行って、ちゃんと返ってきたねえ」
その言い方に、
ミュオは少しだけ目を上げた。
返ってきた。
たしかに、
ことばは上へ行った。
でも行ったままではなかった。
揺れとなって、
夜の並びの変化となって、
ちゃんと見える形で返ってきた。
それは、
怖いことだった。
でも、
まるきり奪われるだけではないと分かることでもあった。
里の男が戸口で腕を組んだまま言う。
「次も来るかもしれねえな」
次。
そのひと言で、
みんなの視線がまた少し空へ向く。
空は静かだ。
でも、
静かになったからこそ、
さっきの異様さがくっきり残る。
ミュオは、胸の奥へ手を当てた。
今夜の詩は、
畑の甘さを変えた時とも、
葉の向きを変えた時とも違う。
もっと大きい。
もっと遠い。
そして、
それでも自分の口から出たものだ。
ことばが宇宙に触る。
そのことを、
からだの奥がもう知ってしまった。
ミュオは湯のみのぬくもりを抱えたまま、
夜空を見た。
星は落ちついた。
でも、
ひとつひとつの位置が、
さっきまでとは少しだけ違って見える。
いや、
違うのは星ではなく、
見ている自分のほうかもしれなかった。
空は遠いだけのものではなくなった。
土と同じように、
聞いてしまう場所になった。
そのことの重さを、
ミュオは今夜、
初めて本気で持った。
#読み切り
紫道
立秋 芽々(りしゅう めめ)
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