テラーノベル
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「…うん、考えとく」
「じゃあ、楓、今日は本当にありがとう」
「こっちこそ、お疲れ様」
俺は久の目を見て、精一杯の笑顔を返した。
彼の瞳の奥には、やはり期待の色が揺れている。
俺はそれ以上何も言えず、ただ小さく頭を下げた。
朔久は名残惜しそうに俺の顔をもう一度見つめ
それから背を向けて会社の中へと消えていった。
彼の姿が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
一人になった途端、最近の出来事が怒涛のように押し寄せてくる。
朔久との再会
東京ブルームプロジェクト
そして、まさかの復縁話
(デート、か……)
俺は自分の手のひらを見つめる。
まだ、朔久の温もりが残っているような気がした。
フェロモンブロッカー依存症になってから、俺は自分の感情がよく分からなくなっていた。
好きという感情が、一体どんなものだったのか。
ドキドキするというのはどういう感覚だったのか。
全てが曖昧で、ぼやけていた。
だけど、朔久の言葉を聞いたとき
そして彼の手に触れたとき、確かに心臓が跳ねた。
それは、期待なのか、驚きなのか
◆◇◆◇
帰路に着き、歩を進める中で高校時代の朔久の顔が何度も脳裏をよぎる。
あの頃の俺は、朔久のことが好きでしっかり両想いでもあった。
それは確かな感情だった。
だからこそ、親の事情と言えど
朔久が何の連絡もなくスペインに行ってしまったとき、俺はひどく傷ついた。
裏切られたような気持ちだった。
裏切られた、なんて考えたくはないけど
感情を麻痺させることで、もう二度と傷つかないようにそう思ってしまった可能性もあるのだろうか。
家に辿り着くと、俺はソファに深く沈み込んだ。
スマートフォンを手に取り、LINEのアプリを開く。
朔久とのトーク画面には、まだ何もメッセージは来ていない。
(どこに行きたいかなんて、どうやって決めればいいんだろ……)
俺は頭を抱える。
そもそも、「デート」という響き自体が、今の俺には重すぎる。
友達としてなら、どこへでも行ける。
だけど、朔久は「付き合いたい」「番になりたい」と言った。
その前提でのデートだ。
(でも、朔久は俺の気持ちが戻るまで待つって言ってくれたし…)
朔久の真剣な眼差しを思い出す。
あの瞳に嘘はなかった。
俺の感情が分からないことを理解して、それでも向き合おうとしてくれている。
その誠実さに、俺は少しだけ心が揺らいでいた。
(……試しに、行ってみるか)
俺は意を決して、スマートフォンの検索窓に
「東京 デートスポット」と入力した。
水族館、美術館、公園、カフェ……
様々な場所が候補として表示される。
どれもこれも、今の俺にはピンとこない。
ふと、高校時代に朔久とよく行ったゲームセンターのことが頭をよぎった。
他愛もないことで盛り上がって、笑い転げていた記憶。
あの頃の俺たちは、ただ純粋に、一緒にいることが楽しかった。
デートでどこに行くかなんて、付き合いたては悩むこともなかったっけ。
そんな余計なことを考えつつも、スクロールしていくと
(……あ、ここってこの前、仁さんと行った遊園地
だ…)
いくつかの候補の中から、以前仁さんと一緒に行った遊園地に目が止まり
ここなら会話に困ったりもしない、と思い
朔久にLINEを送った。
【来週末のことだけど、遊園地とかどう?】
送ボタンを押すと、指先が微かに震えた。
既読がつくまでの数秒が永遠のように感じられる。
ピコン、と軽快な通知音が鳴った。
朔久からの返信だ。
【あ一和田の方にある遊園地か。確かこの前、楓と再会したとこだったよね】
【そうそう、あそこなら二人とも知ってるしフードも遊具も充実してるしいいかなって!】
【じゃ、その近くの蚕糸の森公園前で待ち合わせで大丈夫そう?】
【おん】
【了解、じゃあチケット二人分買っとくよ】
【え、いいの?】
【これくらいお易い御用】
【ありがと!】
そのメッセージを読んでいると、俺の口元にも自然と笑みがこぼれた。
(…本当に、変わってないな、朔久は)
俺の心臓は、また小さく、しかし確かに跳ねた。
この感情が何なのか、まだ分からない。
でも、少しだけ、来週末が楽しみになっている自分がいた。
フェロモンブロッカー依存症の俺が、再び感情を取り戻すことができるか分からないが
朔久の言う通り、もう一度
「好き」という気持ちを知ることができる、可能性は充分にある。
不安と期待が入り混じったまま
俺はスマホを手放してベッドに体を沈ませると、ゆっくりと目を閉じた。
◆◇◆◇
次の日の夜
Amber Loungeにて───…
いつものメンツでテーブル席に向かい合って呑んでいた。
「えっじゃあ復縁するってわけ?」
瑞希くんの声が、賑やかなアンバーラウンジの喧騒を突き破って響いた。
「いや、だから、そういうわけじゃなくてね?」
俺は曖牲に言葉を濁した。
俺は思わずグラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流し込む。
目の前には、いつものように瑞希くん、将暉さん、仁さんが座っていた。
仕事終わりの一杯、のはずが、まさかこんな話題になるとは。
朔久の会社で会議を終えた後、彼から復縁を求められ
結果的にお試しでデートに行くことになった経緯を話したばかりだった。
瑞希くんは目を輝かせ
仁さんは腕を組みながら眠そうにして
将暉さんは相変わらず飄々とした表情でビールを煽っている。
「そういうわけじゃないって、元カレと出かけるのに?しかも遊園地!それって実質デートじゃん!」
瑞希くんが前のめりになって詰め寄る。
その勢いに、俺はたじろいだ。
「いやいや遊園地ぐらい男友達とでも行くって!この前仁さんとも行ったし…」
俺が何気なく口にした言葉に
将暉さんと瑞希くんが二人して「は?」と食いついてきた。
将暉さんは、それまで静かに俺たちの会話を聞いていたのに、急に身を乗り出した。
「え、じん、いつの間に?」
将暉さんの視線が、仁さんへと向けられる。
仁さんは、それまで腕を組んで半目で眠そうにしていたのが
将暉さんの言葉で一瞬だけピクリと反応した。
そして、ゆっくりと瞼を持ち上げ、将暉さんの問いに答えた。
「いつの間にって……だいぶ前だけど、俺から誘っただけ」
仁さんの声は、疲れて素が出ているせいか
抑揚がなく、まるでどうでもいいことのように聞こえる。
将暉さんと瑞希くんの視線が、今度は仁さんに集中する。
瑞希くんは口をあんぐりと開け、将暉さんは眉間に深い皺を寄せていた。
「え、それって、まさか…」
瑞希くんが何かを言いかけて、ハッと口を閉ざした。
その顔には、何かとんでもない勘違いをしているような表情が浮かんでいる。
将暉さんも、仁さんをじっと見つめ、何かを測るような視線を送っていた。
「まさかじゃない。ただ、チケット余ってたから楓くん誘っただけだし、それ以上でもそれ以下でもない」
仁さんは、瑞希くんの言葉を遮るように、淡々と答えた。
その声には、一切の感情が感じられない。
だが、瑞希くんはまだ納得していないようで、疑念と好奇心が渦巻いているのが見て取れた。
しかし、話はまた久のことに戻り
「で?行くんだデート」
瑞希くんは興奮気味に聞いてきた
「…うん、チャンス欲しいって言われて、俺の気持ちが戻るまで待つって、朔久が言ってくれたし……もしかしたらと思って」
俺は正直な気持ちを伝えた。
好きという感情がどんなものだったのか、ドキドキする感覚がどうだったのか
全てがぼやけているが、それでも何もしないよりはいいかということを。
そう言うと、瑞希くんが呟くように言ってきた。
「乗り気じゃなさそ~、ぶっちゃけまだ感じないの?好きとか」
俺はグラスの中の氷をカチャカチャと鳴らしながら、視線を彷徨わせる。
「それは…分からない……正直、あの頃の感情が、どんなものだったのかすら、思い出せない」
俺はそう言って、深く息を吐いた。
高校時代の朔久の顔が脳裏をよぎる。
あの頃は確かに好きだった。
両想いだった。
その確かな感情が、今は霞んでしまっている。
「…だから、本当に俺じゃダメだと思ったらキッパリ振るつもりだよ。健司のときみたいに、傷つけたくないし」
俺の言葉に、瑞希は少し眉を下げた。
「なんか、あんたって謎にモテるよね」
「え?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
一体どこからそんな話が出てきたのか。
「だってさぁ、あんたの話じゃ親友に長年片想いされて?かと思えば帰国子女の元カレと再会して番になりたいって言われるってほぼ求婚じゃん」
瑞希くんが指折り数えながら言う。
その言葉に、将暉さんが小さく「確かに」と納得したような声を漏らした。
仁さんは相変わらず無表情でビールを煽っていたが、その目だけが微かに動いたように見えた。
「ふ、二人に迫られたぐらいでモテてるっていう…?」
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