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街の中心部からは少し離れ、宿屋が幾つも建ち並んだ通りに彼の住居はあった。家と言ってよいのか迷ってしまうような、簡素な造りのそれは突風が来れば簡単に崩壊してしまいそうだった。
おそらく人が住む為に作られた物ではないのは、誰が見ても明らか。
道具屋の女主人が確認も無しにこの住所を指定してきたとは思えないので、探し求めている研究者がここに住んでいるのは間違いないだろう。
入口扉をベルは軽く叩いてみる。中で人が動いている気配は全くせず、留守のようだった。道具屋の手紙にも不在なことが多いという旨は書かれていたので、特に焦りはしない。
「お留守みたいですね」
扉の横にある天窓から中を覗けるかもと、葉月は背伸びしたり飛び跳ねたりしてみたが、あまりに高くて届かない。折角来たのにと残念がる少女に、ベルは少し悪戯っぽく微笑んだ。
「いらっしゃらないのなら、呼び出しましょう」
そう言って、鞄から一通の封書を取り出してみせる。一見して上質な紙が使用された真っ白な封筒は、朱色の蝋でしっかりと封されていた。その蝋に押されていた紋様には葉月も見覚えがあった。グラン家の家紋だ。館の門柱や領主の馬車などにも付いている物と同じだった。
そして、差出人として記されていた名前は、アナベル・グラン。
この世界の文字が読めない葉月は見てもピンと来なかったけれど、この領内で生活している者なら間違いなく焦ることだろう。森の魔女の名は知らなくても、領名にもなっている領主一族の家名は知っていて当然だ。
手に持った封書を扉の隙間から家の中へと差し入れる。手紙類は手渡しが当たり前なので郵便受けのような仮置きできる物は存在しない。不在なら無理矢理に放り込むだけだ。帰宅しても手紙が投函されていることに気付かないという可能性もあるだろう。その際はまた別の方法を考えるだけだ。
家主が手紙の存在にすぐに気付いてくれる確率は半々というところだろうか。普通ならば家に入って純白の封筒が転がっていれば目立つはずだが、もし葉月の読み通りに彼がベル以上の人種だとすると中は間違いなくゴミ屋敷状態だろう。だとすると物が溢れた状態では薄っぺらい封筒が紛れ込んでいることにいつまでも気付かないということもありそうだ。
「手紙に気付かなかったら?」
「人が接近すると周りの物を退かすように仕掛けておいたわ」
ふふふと楽しそうに笑ってはいたが、よく考えると恐ろしいトラップである。帰って来た家主が手紙に近付くと風魔法が発動して、付近の物を吹き飛ばしてしまうということらしい。万が一、封書が物の陰に隠れてしまっていても、風で強制的に除けられるから手紙に気付かない可能性はぐんと減るだろうが。
ただし、いきなり魔法が発動するような手紙を警戒せずに手に取ることができる人間はどれくらいいるのだろうかと、葉月は多少の疑問を覚えた。安全第一主義の彼女なら、間違いなく触ろうとは思わない……。
「あ、その為の家紋なんだ……」
正式な通信で使われるような上質な封筒に、グラン家の家紋入りの蝋封。そして(葉月には読めなかったが)グラン一族の記名。わざとらしい程の仰々しさは計算された上でのこと。ありきたりな封書ではまず手に取られることはないだろうが、これならそのまま放置はできない。
「そうよ。使える物は使わないとね」
人に怪我をさせるような強い魔法ではないらしいし、一度きりしか発動しないようなので問題はないだろう。……多分。
研究者には会うことはできなかったが、ひとまず伝言は残せたので、二人はこの廃墟のような住居を後にした。
庭師の老人との待ち合わせまではまだ時間がありそうだったので、戻りがてらベルが訪れたいという書店へと向かった。
「葉月も簡単な物は読めるようになった方が良いと思うの」
この世界にいつまで留まっているかが分からないからこそ、最低限の読み書きは学んでおいた方が良い。例え言葉は通じても、数字も読めない状態では一人で買い物すらできない。
書店に並ぶ子供向けの絵本をパラパラと順番にめくって見比べる。その内の三冊を選んで購入すると、はいっと葉月に手渡した。
「お勉強、ですか……」
「ふふふ。がんばってね」
幼児に読み聞かせてあげるような可愛らしい絵柄の横に短い単語が描かれている。まずは物の名前から文字を覚えていこうということなのだろう。魔法も文字も、しばらくは覚えることがたくさんだ。
ひょろりとした小柄な男がその物置小屋のような我が家に戻って来たのは、ベル達の訪問があった日の夜遅くだった。軽くほろ酔い気分で入口の鍵を開け、室内の照明を灯してふらふらと数歩入ったところで、異変が起こった。
彼の立つすぐ横に散らかっていたゴミとも荷物とも判別しきれない物達が一斉に動きだしたのだ。
「は?!」
驚きでビクッと身体が飛び跳ねる。自分一人きりの家の中で静かに物が移動したのだ、驚くなと言われても無理だった。恐る恐る、その場を凝視する。何が起こった? 何か居るのか? 逃げた方がいいのか?
しばらくの間、恐怖で動けず立ち尽くしていた。酔いはすっかり覚めてしまっていた。
「ん、何だ?!」
物が動いていたらしき場所を遠巻きに覗き込んでみると、ガラクタが円陣を組んでいるかのように見えたその中心に、真っ白い封筒が一通。勿論、それには全く見覚えはない。
「手紙?」
そうっと一歩だけ近づいてみる。いきなり手に取る勇気はなかった。首を伸ばして差出人名を確認する。
「アナベル・グラン?」
グラン、グラン……どこかで聞いたことがあるような、と首を傾げる。そういや、ここの領名もグランだったなと思い出すまで、そう時間は掛からなかった。グランの関係者? 本物なのか? と、もう一歩近づいて、蝋付けされている部分に注目する。
「うわ、本物かよ……」
初代の当主が大の乗馬好きだったことで意匠にも馬を使っているその家の紋章はよく知っていた。領内の祭りの際など、いろんなところで目にする機会はあった。
「ってことは、アナベル・グランってのは、森の魔女か」
領主の長兄が宮廷魔導師なのも、その娘が森に住んでいる魔法使いであることも領民なら大抵が知っている。さすがに娘の名前までは聞いたことはなかったが、先程の怪奇現象の原因が魔法だと考えたら、必然的に魔女の仕業だったと推測できる。
悪戯の仕掛け人の正体が分かったとなれば恐怖感はかなり薄れた。まだ多少は腰が引けてしまってはいたが、勇気を振り絞って床の上に落ちている封書へと手を伸ばす。
「おいおい、マジかよ……」
他に何か仕掛けられてやしないかとビクビクしながら開封してみるが、特に何も無かった。だが入っていた手紙に目を通して驚きのあまりに声を失ってしまった。
『森の館に、迷い人あり。至急、来られたし』
たった一行の文に、男の研究欲がかつてないほど奮い立っていくのを感じた。