ゴロゴロという喉を鳴らす音と、ひんやりとした猫毛の冷たさでその朝の葉月は目が覚めた。昨夜は初めての街並みと久しぶりのスイーツに気分が高揚し過ぎたのか、身体は疲れているはずなのになかなか寝付けなかった。
「ん……おはよう」
瞼も半分くらいしか開いていないような、とろんとした表情で愛猫を撫でながら声を掛ける。先に朝食を済ませて二度寝しに来た猫は飼い主の顔に擦り寄った。勢いが良すぎて頭突きされているようにしか見えないが、朝からの愛猫の可愛い洗礼に、思わず口元がほころぶ。
早朝の冷気に晒されて来た毛を撫でて温めてあげながら、布団の中でぎゅっと抱きしめる。知らないことだらけの世界で、唯一良く知ってる存在があるのはどれだけ心強いことか。
出会った人達はみんな親切で良い人達だけど、それでも全く一人ぼっちだったら耐えられなかっただろうな……。
いつの間にか本格的に寝入り始めた猫だけをベッドに残し、静かに身支度を整える。そうっと音を立てないように部屋を出る際も、決してドアを閉めることはしない。どんなに寒い季節だろうと、猫が出入りする隙間は必ず開けておくのが猫飼いのお約束。猫の為なら暖房効率なんて気にしない。
「おはようございます」
「おはよう、ちゃんと眠れた?」
先に朝食を終わらせていつもの薬草茶を飲んでいたベルが、まだ眠そうな葉月の顔を少し心配気に覗き込んだ。苦笑しながら頷き返してくる様子から、なかなか寝付けなかったんだろうなと察する。
帰りの荷馬車でもテンション高めに、あの遠くに見えた建物は何だったのか、大通りから外れたところには何があるのかと、街で見かけて気になったことをずっと喋り続けていたのだから。
「くーちゃん、今日も外に出てたわ」
今朝も早い時間から結界の外に出ていく気配があった。すぐに戻って来ていたので散歩だろうか。
「たまに夜中にも出てる時があるわね」
「あ、猫は夜目が効くらしいから、本来は夜行性なんですよ」
「あら。そうなの?」
完全な家猫だったから人に合わせた生活になっていたが、外を自由にウロつけるここでの生活ではくーも徐々に野生を取り戻しつつあるようだった。とは言っても、出掛けて何日も戻って来ないということは今のところは無さそうだ。オス猫にはよくあるみたいだけれど、くーは女の子だ。
謎に満ちた猫の生態に、ベルは驚いていた。最初の頃は葉月から離れずべったりだったのに、彼女が少しずつ行動を始めると付かず離れずの距離に変わっていった。最近では気まぐれに甘えに来たりする程度で、割と単独行動が多い。
「あ、そうだわ。置手紙の方も夜中に発動していたみたいよ」
「夜中にですか?」
詳しい状況までは分からないけれどね、と付け加えて楽し気に笑う。仕掛けておいた悪戯が無事に起動したことが嬉しくてしょうがなさそうだ。
少し悪趣味なベルの悪戯の反応は、その日の昼前に現れた。二人がいつも通りに作業部屋に籠っていると、マーサが扉を叩いた。
「アナベルお嬢様。お客様がお見えなのですが……」
はきはきとした物言いが特徴の世話係が、なぜか歯切れが悪かった。来客の案内にしては、あまり乗り気ではないというか、主人に会わせて良いものかと迷っている様子だ。
「お客様って?」
「ええ。その……お嬢様からご招待いただいてるとおっしゃってるんですが……」
マーサの言い方に、ちょっと胡散臭い人がやって来たんだなということが分かり、ベルと葉月は顔を合わせて頷き合った。待ち人が予想よりも早くに来たようだった。
「ふふふ。思ったよりも早くいらしたわね」
「本当ですね。よっぽどインパクトあったんでしょうね」
マーサに客人をお通しするように伝えてから、二人も揃ってホールへと向う。謎が少しでも解けてくれることを願いながら……。
「お初にお目にかかります。私は迷い人について研究しております、ケヴィン・サイトウと申します」
世話係に導かれてホールへとやって来た男は、二人の前に立つと右手を胸に当てて深々と頭を下げて名乗った。
素振りこそ畏まっていたが、男は着の身着のままといった身なりに、無精ひげで髪は手入れもされずボサボサだった。まさに、あの物置小屋のような家の住人だと言われて納得できる容貌だった。横に控えるマーサが眉をひそめて渋い顔をし、案内を躊躇っていたのも理解できる。
「……サイトウ?」
ベルの勧めでソファーに向き合って座ると、葉月がぽつりと呟いた。聞き覚えのある家名。日本なら珍しくもない苗字。
「分かりますか? 私の祖先にも迷い人がいたそうです」
遠い祖先のことなので、詳しいことは分からないけれど、と。そう話す彼の髪や瞳の色は黒色に近く、日本人を先祖に持っていると言われても説得力はあった。自分のルーツだからと彼は迷い人に興味を抱くようになったのだろうか。
「私の生まれ育ったところでは、割とメジャーな苗字ですね」
「それじゃあ、祖先と同じところから来られた可能性がありますね」
なるほどなぁ、と腕組みしながら、研究者である男は嬉しそうに頷いていた。謎に満ちていた祖先のことが徐々に解明される時が来たのだ。
「迷い人について、分かっていることをお教えいただきたいの」
葉月の為に役立つ情報が欲しいと、ベルはケヴィンへ向かって言った。これは決して権威をかざしての命令ではなく、一人の友人の為のお願いだと付け加えて。グランの家名を使ったのはあくまでも対面のキッカケを作る為であり、本来はそういった意図はないと。
「おそらく、こちらが教えていただくことの方が多いでしょう。この国で迷い人について分かっていることは多くはありません」
他の世界からの訪問者の記述は、古い文献を漁っても滅多に見つけることができない。ゼロではないが、ほとんど無い。僅かに残された物から推測し、仮説を立てていくしか無かった。
そして、その研究に対しての需要が全くないことも、彼の風貌から想像できる。
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