ベテラン庭師の操る荷馬車を引くのは、領主家にいる馬の中でも特に古株の茶毛の雌馬だった。互いに付き合いも長く息もピッタリと合い、特に強く手綱を引かなくても思う通りに走ってくれる。
近頃は往復することが増えた森の道を、慣れた足取りで駆け抜けていた。
魔獣の住まう、魔の森と呼ばれる森の中だが、荷馬車の脇にはめ込まれた魔石のおかげで恐ろしい獣と遭遇することは無い。特にこの荷馬車には用心の為にと石が二つも積まれていたので、途中で石の一つが破損するようなことがあったとしても安心だ。
街までは馬を休みなく走らせて1時間くらいで着く距離だった。決して遠くはないけれど、そこまで近くも無い。徒歩だと軽く倍の時間はかかるだろう。歩けなくはないけど、歩こうとは思わない。
マーサが気を利かせて用意してくれたクッションを荷台に敷いて座っていたおかげで、大きな揺れがこない限りは特に不快感は無かった。領主家お抱えの魔法使いが魔法を駆使して整備してくれたばかりということもあって、往路はとても安定していた。
「着いたら行きたい所はあるかしら?」
「甘い物が食べたいです!」
「あら、良いわね。マーサにお土産も買って帰らないと」
他愛のない会話をして荷馬車の旅を楽しんでいた時、御者をしていた庭師の老人が手綱を引きながら振り返った。
「おい! あれって……」
指し示された視線の先には一台の小さな荷馬車。商人が品物を運ぶのに使われている幌付きのタイプで、最近はよく館でも見かけるようになった。それが、道の真ん中に斜めに停止して何やら騒いでいるようだった。
「襲われてる?!」
「ああ、お嬢様、どうするんだ?」
馬を繰ってスピードを落としながら、荷台に座っているベルに聞いてくる。魔獣除けが効いているので、距離を保っていれば巻き込まれて襲われることはないが……。
「そのまま近づいて。討伐するわね」
おう、と返事すると、慣れた操作でさらにゆっくりと速度を落としながらも、少しずつ接近していく。近くまでくると中型の魔獣が一匹、御者に向かって威嚇しているのが確認できた。乗っているのは御者の男一人だけのようだった。
「せっかくだから、葉月やってみる?」
「えっ?」
薬を手伝い始めた時と同じ口調で軽く言ってこられ、葉月が戸惑ってしまうのは無理もない。確かに魔法はいろいろと使えるようにはなってきたが、攻撃魔法はまだ習ってもいない。唯一見たことがあるのは猫が口から発射する光魔法とやらだけ。あれでは全く参考にすらならない。
「そうね。風魔法を集中させて、頭を狙ってみて」
「は、はいっ」
徐々に近づいていく魔獣の姿に恐怖感が募る。もし失敗したら、こちらに向かって攻撃してくる可能性だってあるのだ。ぎゅっと握りしめる拳は緊張のせいかじんわりと汗ばんでいる。
「大丈夫よ。ちゃんと援護するから」
その力強い言葉に少し気が楽になった。一度で倒すことは考えず、とにかく馬車に当たらないようにだけ気を付けよう。身体中の魔力を右掌に集中させ、周囲の魔素も取り込んでいく。それらを風という形に具現化し、目に見えない鋭い刃として放つ。
バシュッ!
次の瞬間、黒い毛に覆われた猪に似た魔獣が嘶いた。後頭部に深い傷を負わされて、ぐらりと身体のバランスを崩しかけはしたが、まだ倒れるほどではない。攻撃が飛んで来た方角を振り返り、こちらに向かおうと身体の向きを変えてくる。
が、すぐさまベルが発動した魔法によって炎にまとわれ、ドサリと音を立てて倒れた。
荷馬車に追いついた時、目の前には黒焦げになって息を絶えた獣が横たわっていた。葉月の攻撃では致命傷を負わせることはできなかったが、「上出来よ」とベルは微笑んでいた。緊張や動揺が無くなれば攻撃の威力は大きく変わる。初めてでこれだけの力が出ていれば、十分だ。
「やるじゃねえか」
クロードもうんうんと頷きながら、葉月の健闘を称えた。彼女としては初めて見たベルの魔法の強さに圧倒されたのだが、老人はそちらの方は見慣れていたので特に何も思わないらしかった。
「あ、ありがとうございました……」
馬の影で身を隠していた男が、ふらふらと彼女らの前に出てきて深く頭を下げた。魔獣に襲われた恐怖がまだ残るのか声は震えていた。
「領主様の別邸に伺おうと向かっておりましたところ、先程の魔獣に襲われてしまい……」
「あんた、魔獣除けはしてなかったのかい?」
「恥ずかしながら、馬で走り抜ければ大丈夫かと」
予備知識なく魔の森に踏み入れてしまった、流れの行商人だったようだ。この場所からだと館よりも街の方が近いので、そのまま一緒に送り届けてあげるのが最良だろう。
というか、館の主は今まさに彼の目の前に立っているのだが……。まさか領主の関係者が庭師の繰る荷馬車に乗っているとは思わない。
「森の奥に行くんなら、ちゃんと対策しないとな」
「はい……今日は出直すことにいたします」
後日に出直して、館で同じ顔触れに出会ったらどんな反応をしてくれるのだろうかと、三人は顔を合わせてほくそ笑んだ。
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