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由天。
61話 選ぶのは、いつも人
夕方。
山の向こうが、ゆっくり紫ににじんでいく。
山江マンションの三階の廊下。
風がまっすぐ抜ける。
リカは手すりにもたれて、
スポフォンを指先で回していた。
六角形の小さな本体。
赤紫の鉄鋼の外装。
ところどころ細かい傷。
キーホルダーがいくつも繋がっていて、
電子マネーやお守りが、じゃら、と鳴る。
肩までの髪が風で揺れる。
少し丸い頬。
日に焼けた鼻先。
モカ色のシャツの袖を、
無意識に指でいじっている。
下の道を、
人がぽつぽつ歩いている。
誰も急いでいない。
遠くで、
歯車の低い音。
スポットカレンダー機構が回る音。
かち、
かち。
時間が動いている音。
「いた」
後ろから声。
カナが走ってくる。
短い髪。
灰色パーカー。
サルのぬいぐるみが腰で揺れて、
小さく跳ねる。
「またここ?」
「うん」
「好きだね、ここ」
「なんか、落ち着く」
イトも遅れて来る。
細い体。
黄緑の上着。
前髪を押さえながら、
ゆっくり歩く。
手には紙袋。
620で買った洗剤が少しのぞいている。
三人で手すりに並ぶ。
しばらく、何も言わない。
山。
川。
低い建物。
五階までの屋根が、
段々みたいに続いている。
広いのに、
近い。
前の団地より、ずっと広いのに。
「ねえ」
カナが言う。
「もしさ、10024来てたら、どうなってたと思う?」
高層の部屋。
整いすぎた廊下。
静かな窓。
リカは想像する。
「……たぶん、慣れてたと思う」
「だよね」
「でも、」
言葉が止まる。
ここに来た日。
川のにおい。
夜の暗さ。
遠くの虫の音。
ぜんぶ、
まだ残っている。
「たぶん、こっちのほうが好き」
小さく言う。
イトがうなずく。
「選んだの、おかあさんだもんね」
「うん」
「でも、今はリカが選んでる顔してる」
「え?」
「帰る場所って、そういう顔になる」
イトは、そう言って笑った。
沈黙。
ポケットの電子マネーが軽く当たる。
もう半分くらい軽い。
使った分だけ、減る。
戻らない。
四次元装置も、
レジも、
洗濯機も、
何も決めてくれない。
押したら動く。
押さなきゃ動かない。
それだけ。
スポット番号だって、
ただの数字だ。
129も、
10024も、
26934も。
数字は教えてくれない。
どこが正解かなんて。
どこが幸せかなんて。
どこが帰る場所かなんて。
リカはスポフォンを握る。
番号板の感触。
家の番号。
指が覚えている。
見なくても押せる。
それだけで、
少し胸があたたかくなる。
答えは、
どこにも書いてない。
紙にも。
石にも。
機械にも。
だから、
選ぶ。
自分で。
「帰ろっか」
「うん」
三人で歩き出す。
足音。
キーホルダーの音。
遠くの歯車の音。
誰も呼ばない機械の中で、
人の声だけが、
やわらかく響いていた。