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その荷馬車が森の館の結界を通過したのは、日が昇り始めてからしばらくした頃。
荷台に積まれているのは、よく手入れされた枝バサミやノコギリ、鎌などの庭仕事の道具と、蓋付きの大きな木箱。荷馬車の側面には魔獣除けの結界を張る為の黄色の魔石が二つ嵌め込まれている。
グラン領主家の本邸で長年に渡って専属庭師として従事するクロードは、ここ別邸への道が拓く日をずっと心待ちにしていた。街の中に作られた人工的な庭の手入れも、それなりにはやりがいは感じていた。だが、森の中にある別邸は彼にとって特別な場所だ。
すぐ傍にある自然との調和と融合。季節ごとに色を変えていく周囲の景色にどれだけ馴染ませ、際立たせることができるか。庭師にとってこれほど腕が鳴る職場はない。
館の脇へ馬を停めると、よく日に焼けたガタイの良い老人は、勝手知ったるように裏口へと回る。そして、調理場の裏戸を軽く二度叩く。すぐに中から館付きの使用人の女が顔を出し、同時にパンを焼く甘い香りが漏れ出てくる。
「相変わらず、早いですわねぇ」
「やっと来れると思ったら、居ても立っても居られんかったわい」
ガハハと豪快に笑うと、古参の庭師は荷台へ積み込んであった水桶を持って来てマーサへと渡す。マーサもまた慣れたように受け取って、それに水を汲んでから返した。
「お嬢様は変わらずかい?」
「ええ、驚くほど何も変わっておられないわ」
汲みたての水を馬に与えながら、久しぶりに訪れることができた森の別邸をぐるりと見回す。思っていたよりも荒れてはいないが、やはり何年も手入れできていなかった為に修理を必要とする箇所が所々で見受けられる。それでもわざわざ弟子達を呼び寄せるほどではなさそうで安堵する。
「預かって来た荷物は、どこへ置けばいい?」
「そうですわね、その隅へ置いていただけると助かりますわ」
会話しながらも、ベテランの世話係は朝の支度の手を止めない。いつ見ても、その手際の良さに関心する。卵とソーセージに火を通しているかと思えば、別の小鍋では葉野菜とソーセージを細かく切った物をミルクで煮ているようだった。
「客人がいるんだって?」
「ええ。遠い国からいらっしゃったそうよ。お嬢様が魔法をお教えされてるみたい」
「へー。あのお嬢様がねぇ……」
荷馬車から下ろしてきた木箱を調理場の隅に運び込み、近くにあった丸椅子を手繰り寄せて腰掛ける。外での作業は主への挨拶を済ませてからが礼儀だ。クロードが座ると、見計らったようにマーサがお茶を淹れて出してくれる。
温かいお茶を一口飲んで、ふぅっと深い息を吐く。またここに来られる日が訪れるとは感慨深い。森の道が無くなったと聞いた時のショックといったら無かった。
懐かしさに浸っているクロードの前を、見慣れぬ白黒が横切っていく。
「みゃーん」
飼い主よりも先に目を覚ましたくーが、ご飯の催促にとマーサの足に擦り寄る。
「あら、早起きさんねぇ。お腹が空いたのかしら?」
「みゃーん」
少しばかりお待ちになってね、と言いながら、パンをちぎった物を皿へ盛って、その上から小鍋のミルク煮をかける。白黒の生き物はその様子をちょこんと座りながら、おとなしく待っているようだった。
「ちょ、お、おいっ!」
「あら、どうなさいました?」
「そ、そいつは、何だ?!」
えっ、ちょっと待てよ、とクロードが慌てた声を出す。見たことは無いけれど、もしかしてそれは。でも、まさか、と信じられない。
椅子に腰掛けている状態でなければ、間違いなく腰を抜かしていただろう。
「猫っていうんですって。葉月様と一緒にいらっしゃったそうよ」
「ね、猫?! いや、うん、そうだな。猫だな……」
しかしい、なぜこの女は平然としていられるのかと、自分の目を疑う。猫、だと?!
狼狽えるクロードのすぐ前で、猫は用意して貰ったパンのミルク煮掛けを夢中で食べている。朝食を前にしてしまうと、慌てふためいている老人の存在はまるで気にならないようだ。
「ま、マーサ。猫ってお前……」
「あら。クロードは猫をご存じでしたの?」
私は昨日初めて知りましたの、不思議な獣よねぇ、とのほほんとした答えが返ってくる。
「猫って、お前……」
確かめるよう、同じ言葉を繰り返す。
「猫って、聖獣じゃなかったか?」
いや、間違いない。聖獣だ。幻の獣だったはずだ。
なのに、どうしてここにいるんだ?! どうしてここで、飯を食ってるんだ?!
「え? 聖獣ってあの、経典に出て来るやつですか?」
「そう! それが何でここにいるんだ?!」
さすがに驚いたのか、マーサの作業する手が止まる。二人の使用人から同時に視線を向けられていても、当の猫はマイペースで食事を続けている。
「その客人ってのは、何者なんだ……?」
「そうですねぇ。領主様には、迷い人って説明されてたかしら」
「……迷い人?」
さすがにクロードにも迷い人とやらのことは分からないようだ。領主が納得していて館に滞在する許可が下りているのなら、使用人の分際でとやかく言うことは何も無い。
食べ終えた毛繕いを始めた猫の動きから目が離せないまま、冷め切ってしまったお茶をごくりと飲み干した。
マーサが出来立ての朝食をワゴンへ乗せていると、館の主が静かに顔を出した。クロードの荷馬車が結界を通過した時点で目が覚めてしまったらしい。
調理場で休んでいる庭師へ、ごきげんようと声を掛ける。
「猫のことは、秘密にしておいてくれるかしら」
大騒ぎになるでしょう? とだけ付け加えると、そそくさと逃げるように調理場を離れていく。ベルにとってはマーサと同じくらいに、この小言の多い老人は苦手だった。