テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
アドラル皇国
18
1,373
#日常
寿命㌫(主) 🔮🖤ᩚ
2,231
「ジュチさまは、ジュベに弓の腕を褒められたとき――」
スブタイは、過ぎ去ったある日のことを思い出すように目を細めた。
「ことのほか、嬉しそうでした」
「……そうか」
バトウは、それだけ答えた。
英雄と共に駆けた
父が愛し、尊敬した男も、もういない。
どこか寂しそうな顔をして、静かに部屋を出ていく。
扉が閉じる。
しばらくして、スブタイが口を開いた。
「ジュベ」
「俺は今の今まで――」
少し考えてから、言った。
「俺たちが死ぬときは、戦場だと思っていた」
スブタイは何気なく、自分の頬に手をやった。
指先が濡れている。
一滴の涙が、頬を伝っていた。
(……なぜだ)
スブタイは、その指を不思議そうに見つめた。
(なぜ、俺は泣いているのだろう)
人はいつか死ぬ。
そんなことは分かっている。
当たり前のことではないか。
大陸の東から西まで駆け抜け、
数え切れないほどの人間を殺してきた。
昨日まで笑っていた男が、翌日には死んでいる。
草原とは、そういう場所だった。
生と死は、いつだって隣り合わせだった。
ジュべとて同じだ。
いつか死ぬ。
自分も死ぬ。
誰もが、いつかはいなくなる。
そんなことは――
ずっと昔から知っていた。
(それなのに)
また一滴。
涙が落ちた。
スブタイは拭おうともせず、ただそこに座っていた。
(なぜ俺は、泣いているのだろう)
征西軍の合流と、ヴァンガルド帝国征伐の成功を祝して、大規模な酒宴が催された。
長い遠征を終えた将兵たちには酒が振る舞われ、
天幕のあちこちから笑い声が響いている。
諸王子、諸将も一堂に会していた。
やがて話題は、次なる征西へと移った。
グラツィア。
ゼイオンが死んだ地。
そして、この遠征の最終目的地。
その名が出た途端だった。
「我らは断じて承服できん」
グユクが声を荒らげた。
騒がしかった席が、わずかに静まる。
「なぜ我らが、バトウ殿の前衛を務めねばならんのだ」
「そうだ」
すぐさま声を上げたのは、チャガタイ家のバイダルだった。
「我らとて大カーンの命を受け、この地まで戦い抜いてきた」
バトウは黙って酒杯を握った。
その表情には、はっきりと苦いものが浮かんでいる。
グユクは構わず続けた。
「ならば、こうしてはどうだ」
立ち上がる。
「軍を三つに分ける」
周囲の視線が集まった。
「一軍は西へ回り、エスカリオ領レグザを抜ける」
指を一本立てる。
「西軍だ」
二本目。
「一軍は中央街道をそのまま南下する。中央軍」
そして三本目。
「残る一軍は南東へ向かい、
ロウム教皇領のモネ砦を落としてグラツィアへ侵入する」
グユクは周囲を見回した。
「三方から攻め入るのだ」
誰かが面白そうに笑った。
グユクも笑う。
「そして――」
その視線が、バトウへ向いた。
「最初にグラツィア王都を落とした者を、この征西最大の殊勲者とする」
一瞬、静寂が落ちた。
「大カーンには、そのように報告しようではないか」
「面白い」
バイダルが笑った。
何人かの王族たちも、それに同調する。
だが、バトウだけは笑わなかった。
黙ったまま酒杯を見つめている。
(なるほどな)
ようやく、グユクの意図が分かった。
(キプチャン草原を、俺の領地として組み入れたことへの意趣返しか)
征西軍総司令官。
名目上、この軍を率いるのはバトウである。
だが軍を三つに分け、それぞれが勝手に王都を目指せば、
その肩書きに何の意味がある。
これは作戦の提案などではない。
――競争だ。
誰が一番多くの土地を奪うか。
誰が一番早く王都へ辿り着くか。
そして誰が、大カーンに最も大きな功績を認められるか。
バトウはゆっくりと酒杯を置いた。
(くだらん)
そう思った。
だが――。
宴席を見渡す。
グユク。
バイダル。
そして彼らに同調する王族たち。
ここで拒めば、
――バトウは自分一人で功績を独占しようとしている。
そう言われるだろう。
バトウは舌打ちしたい気持ちを押し殺した。
その様子を――。
少し離れた席から、スブタイだけが黙って眺めていた。
スブタイは、黙ったままそのやり取りを眺めていた。
(くだらぬ)
どこかで、何度も見たような光景だった。
(そんなに大カーンの座が欲しいのなら――)
(草原の男らしく、すべて戦で勝ち取ればよいではないか)
陰で徒党を組み、
誰が上か、誰が下かと争い、
功績を奪い合う。
そんなものに、スブタイは何の価値も感じなかった。
(ジンギス・カーン様は、帝国そのものよりも――)
(家族の絆を重んじておられた)
だが。
その子らが大人になり、
さらにその子らが軍を率いるようになった今。
(……結局、こうなるのか)
スブタイは何も言わなかった。
ただ杯を手に取り、
一息に酒を煽った。
「スブタイ殿は、どう思われる?」
不意に名を呼ばれ、スブタイは顔を上げた。
グユクがこちらを見ている。
酒が回っているのだろう。
頬は赤く、目には妙な挑発の色があった。
「ここにおる皆は知っておる」
グユクは杯を手にしたまま言った。
「バトウ殿のこれまでの戦功。
その多くが、実のところスブタイ殿の働きによるものだとな」
宴席が静まり返った。
バトウの表情から、すっと色が消える。
「ぜひとも、ご意見を伺いたいものだ」
「グユク殿」
モンケがすぐに割って入った。
「少々、酒が過ぎたようですな」
穏やかな口調だったが、その声には明らかな制止の響きがあった。
「今宵は、この辺りにしては――」
「三方侵攻の策」
スブタイが遮った。
皆の視線が集まる。
スブタイは杯を置くと、何事もなかったように言った。
「まことに結構な策かと存じます」
グユクが意外そうに眉を上げた。
モンケも黙る。
「西軍、中央軍、南東軍」
スブタイは淡々と続けた。
「三方より一斉に攻め入れば、敵も兵を分散せざるを得ますまい」
そして、わずかに笑った。
「となれば――」
視線をグユクへ向ける。
「我が主、征西軍総司令官バトウ殿は、
当然ながら最も敵兵が集まる場所を受け持つことになりましょうな」
「……ほう」
「ロウム教皇領、モネ砦」
スブタイは静かに言った。
「三方のうち、もっとも堅く、もっとも多くの敵が待ち受ける道です」
しばし沈黙が落ちた。
「総司令官たる者が、最も困難な道を引き受ける」
スブタイは杯を取り直した。
「何か問題でも?」
グユクは答えなかった。
自分から三軍に分かれようと言い出した手前、
――そこは危険だからバトウには行かせるな。
などと言えるはずもない。
スブタイは心の中でため息をついた。
(まったく)
(馬鹿馬鹿しい)
だが、こうなった以上仕方がない。
(ならば、この馬鹿馬鹿しい競争――)
(利用させてもらうとするか)
スブタイは再び酒を煽った。
コメント
1件
みぅです🥀 第14話、読み終わりました…。 スブタイが、涙の意味を自分で説明できないまま戦場と酒宴の間で静かに立っている感じが、すごく胸にくるんですよね。ジュベの死を悼む暇さえ許されない、でも身体は覚えてる——そういう描き方が好きです。 そしてグユクの挑発に、あの場で一切動じずに「総司令官は最も困難な道を行く」と返すスブタイの冷静さ、めちゃくちゃかっこよかったです。馬鹿馬鹿しい競争を利用する発想、この人のしたたかさが光る回でした…!