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#BL
#ヒューマンドラマ
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言葉は自然だった。表情も崩れていない。王太子の顔に、戻っている。
――戻してしまった。
縫季は胸の奥で、何かが引っかかるのを感じた。
(……支えたい)
その思いが、喉の奥で膨らむ。だが同時に、今朝の中庭が脳裏をよぎった。
衣の合わせ。ほんのわずかな歪み。直そうとして、無意識に伸ばしかけた手。
――触れてしまう、と思った瞬間。縫季はそれを引っ込めた。
あれは礼儀だったのか。それとも、自分の中に生まれかけた何かを、怖れただけなのか。
指先に、まだ残っている感覚。布に触れるはずだった距離。越えなかった一歩。
(俺が手を伸ばしたら)
その先を、言葉にできない。
報告は続く。式典の準備。物資の調達。儀礼の確認。
帝辛はすべてに的確に答えていく。間違いはない。判断も正確だ。
それでも、一つ一つの返答の前に、ほんの少しだけ沈黙が増えている。縫季だけが、それを数えていた。
一拍。二拍。三拍。
官吏たちは気づかない。誰かが小さく呟く。
「殿下は、本当にお優しい……」
帝辛は笑みを返す。作れる。だが、その笑みが消えた後、視線がまた中庭へ向く。
縫季は、自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。
(このままでは)
言葉にならない予感。帝辛が、何かを失おうとしている。それが何なのか、まだ分からない。
だが確かに。今、この瞬間にも、帝辛の中で何かが削られている。
報告が終わる。官吏たちが次々と退出していく。
最後の一人が扉を閉めた瞬間、室内の空気が少しだけ軽くなった。同時に、帝辛の肩から力が抜ける。
――いま、落とした。
落とした、と自分で分かるほどの、一瞬。王太子の背筋が、ほんのわずか緩んだ。
胸の奥を、冷たいものが撫でる。
清朗がいない。その事実が、また遅れて足元を揺らした。
帝辛は、息を整えようとして――整えきれないまま、横を見る。
縫季はそこにいる。正しい距離で、正しい姿勢で。
――触れてくる。
そう、どこかで思ってしまった。言葉でなくていい。ただ、ここにいると示すだけでいい。
だが。
縫季は、何も言わなかった。
正しい沈黙。官吏として完璧な立ち位置。その正しさが、今は痛い。
(……そうか)
帝辛は小さく息を吐いた。
あれは勘違いだったのだ。あの近さも、あの視線も、ただの一時の錯覚。
「……大丈夫だ」
言葉が、少し早く口を突いた。誰に向けたものか、自分でも分からないまま。
縫季の気配が、わずかに揺れた気がした。だが、帝辛は確認しない。
――期待するな。
そう自分に言い聞かせるように、帝辛は背を向けた。
「……殿下」
背後で、縫季の声が落ちる。
帝辛は顔を上げる。
「大丈夫だ」
即答。早すぎる、と自分で分かってしまうほどの即答。
それでも、言い直さない。
帝辛は立ち上がった。
「まだ、やることがある」
そう告げて、奥の政務の間へ向かう。
歩き出しても、背中に気配が残る。追ってくる足音はない。
――何もしないのか。
その思いが胸に浮かびかけて、帝辛は押し潰した。浮かべてしまえば、期待になる。
(……馬鹿だ)
自分にだけ聞こえるように、息の中で呟き、扉の向こうへ消えた。
◆
帝辛の背が、扉の向こうへ消える。
その瞬間、縫季の指先が、わずかに動いた。
呼び止めるには、近すぎる距離。追いかけるには、遠すぎる立場。
――今なら。
そう思ったのは、確かだ。
だが。
縫季の掌が、また冷えた。
さっきより、深い。
祭祀が早まる。層が薄くなる。薄くなった先に、何かが待っている。
(……急がなければならない)
何を急ぐのか。言葉にならない。ただ、時間が削られている感覚だけが、骨の中に残る。
縫季は、閉じた扉を見た。
帝辛を追うべきか。今ではないのか。今しかないのか。
答えは出ない。
ただ。
(俺が手を伸ばしていい理由が、まだない)
縫季は、その場に立ち尽くしたまま、閉じた扉を、しばらく見つめ続けた。
外では、祭祀の日程が動き始めている。層が、少しずつ薄くなっていく。
縫季は、それを知っている。知っているのに、動けない。
指先だけが、冷えたまま、温まらなかった。
コメント
1件
いやもう、これほんとにやばかった……「戻してしまった」って縫季の胸の内で引っかかる感じ、すごく伝わってきた。衣の合わせに手を伸ばしかけて引っ込めたシーン、あの“越えなかった一歩”がめちゃくちゃもどかしい。帝辛の「大丈夫だ」が早すぎて、自分でも分かってるのに言い直さない強がり、刺さるわ。ラストの「指先だけが冷えたまま」で終わる余韻が切なすぎる…二人とも正しい距離を保とうとして、逆に削れてる感じが痛い。次、どう動くんだろう…早く続き読みたい🔥